2013/09/24(火)12:55
一区切り
何か書くときに、文字のことばかり考えていると、うまくない。
「、」や「。」も大事。
そろそろ「、」を打とう、そしてとうとうここで「。」を置こう。そう考えることは、小さくはあっても一区切りだ。
手書きの文章を読んでいて、書き手の「、」と「。」が曖昧(あいまい)で、「、」なのだか「。」なのだか区別がつかない、打っているのだか打っていないのだかはっきりしないようなときは、もったいないなあと思う。
「、」と「。」の効果に気がつくとき、ひとは、きれいな文章を書くことに近づくような気がする。いまは、このいま、は現代のことだけれど、いまはきれいな文章が昔ほど尊ばれなくなった。……と思う。尊んでいるつもりであっても、なかなかその域に到達できないでいるわたしのような文章書きもあるわけだけれども。
きれいな文章を、書きたい。
そう思うひとは、おのずと「、」と」「。」に気をつかうひとになってゆく。
水泳も手や足の動きがものを云うのだろうけれど、ほら、あれ、息継ぎも大事なのじゃないだろうか。文章のなかの「、」や「。」は息継ぎでもあるので、ときどき打たないと、溺れる。
それから改行。
約束としては、行を変えたら、頭を「一字下がり」にすることになっている。ほんの少し文章の流れを変えようというときに改行する。わたしなんかは、すぐ改行する。「、」や「。」も多い。
一区切りの意味と、そのよろこびを知っているからだろうか。と、いいわけのようなことを思ったりする。
そら、こんどは一行アキだ。
改行するよりもっと流れを変えるぞ、と思ったときには、こうやって一行すっ飛ばす。飛ばされた行はどんな気持ちだろうか。
「みっちり書いてほしかったのに、何だよう」
とつぶやいて、つぎの行を睨(にら)んでいるかもしれない。
もしそうなら、こう伝えたい。
「一行アキは、たいそうものを云うのです」
なぜなら、書き手ばかりでなく、読み手の気持ちも切り換えてしまうからだ。無言で切り換えさせてしまうのなんかは、並みの行(ぎょう)にできるものじゃあない。
苦しいくらいに暑い夏が過ぎていった。
やれやれ。そう云いながら、ほんとは夏に感謝しなくてはいけないことも知っている。夏がなくなってしまったら、いろいろなことがそうとうに変わるにちがいない。少なくとも夏の気候、夏の実り、夏の風物詩を失った日本は、日本でなくなってしまうだろう。
あらためて、ありがとう。この夏に、ありがとう。
わたしがこれを書いているあいだじゅう、玄関のほうでモノを動かす音がしていた。夫が道具箱を持ちだして、玄関まわりを整備している。枕木のような板とペンキも置いてある。
夏のあいだ、頭のなかで練っていた計画を実行にうつしたというわけだろうけれども、これもひとつの「、」や「。」、いやもしかしたら改行……、一行アキかもしれない。
夫はおそらくこれをして、あたらしい行にすすむのだ。
わたしは、さて。明日あたり、机まわりをちょっと片づけようか。そうして秋をすすもう。
この夏、扇風機には世話になりました。
しかし、もう、しまおうと思います。
来年の夏までの別れです。
*
夫が整備した玄関まわり(外)の様子は
来週、写真で見ていただくとしましょう。