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カテゴリ:うふふ日記
「人の世に道はひとつということはない。道は百も千も万もある」
これは、坂本龍馬が云ったことばだそうだ。幕末の本を読んでいたらいきなりこれが出てきて、くわっと目の裏が熱くなった。「泣ける」ということがあるけれど、これがその感覚にちがいない、と思った。 150年も昔の会ったことのないひとから、励ましてもらうなど、おもしろくもありがたいことだ。 道が百も千も万もあるということを考えたとき、目的地がひとつでない、ととることもできるし、また、ひとつの目的地に向かう方法がひとつでない、ととることもできる。どちらにせよ、自分で道は選べるということだ。 することがやけにたくさんあるなあというようなとき、わたしはときどき、もっともふさわしくない道を選ぶ。 ため息、文句、焦りの道だ。 このごろ、気がつくと、この道を歩きはじめることがふえたような気がする。歳のせいだろうか……。歳のせいなどと、何ごとかのせいにするのも、この道の特徴。困ったものだ。 「仕事もして、家のこともして、いろんな雑用を一手に引き受けて」と、胸のなかでぶつぶつ文句を云う。まるで、わたしひとりが忙しいとでも云わぬばかりだ。そも、「こと」を一方的に押しつけられることなどなく、どの仕事も、どの用事も自分が「諾」と云ったのであるし、主婦業と職業の兼業もみずから選んだ道だったのである。 この道は隧道(トンネル)である。一度入ったら、入口にもどるのにも出口に向かうのにも、時間がかかる。そうだ、ため息、文句、焦りはぬかるみになり、そこに足がとられ、進みがおそくなってしまう……。 * 今朝は、目覚めがよかった。 「佳い日にしよう」とみずから誓って、湯を沸かし、弁当づくりにとりかかる。そうだった、昨晩、冷蔵庫のなかに、カツレツをパン粉のなかに眠らせておいたのだ。揚げ油を準備し、順番に揚げてゆく。 ふと「パン粉のなかで眠っている」ということばを思いだしたのは今週はじめのことだ。20歳代のころ、仕事をご一緒した料理家のIせんせいが、こんなふうに云われたのだった。 「山本さん、よかったら、お昼ご一緒していただけないかしら。おいしいチキンレバがパン粉のなかで眠っていますのよ。ね、ぜひ」 そう云ってIせんせいが冷蔵庫からとり出したのは、ステンレスのベッド、いやバッドだった。バッドにはふたがついており、それをとると、なかにさらさらのパン粉が見えた。 「このなかに、衣をつけたチキンレバが眠っているんです」 眠っていたレバは、Iせんせいのフォークさばきによって熱した油のなかにすべりこみ、からりと揚げられた。ものの15分で昼食がととのった。 チキンレバのカツレツ(おいしい下味のついたカツレツ) トマトのアロース(ブラジルのトマト入りピラフ。肉料理のつけ合わせ) じゃがいものサラダ フルーツ 珈琲 なんて、素敵。 パン粉のなかで前の晩から眠っていたというチキンレバのカツレツのおいしかったことと云ったら。 長いこと(30年も!)忘れていた「パン粉のなかで眠らせる」をとつぜん思いだしたときから、きょうの日の幸運ははじまっていたのかもしれない。わたしがこしらえたのは、ご飯の上にキャベツのせん切りを敷きつめ、ソースをまぶした薄切りカツレツをのせた弁当だ。つけ合わせは茄子とプチトマトのマリネ、半熟卵。 思い出にまつわるたのしい弁当ができ上がったことで、気持ちが明るくなってゆく。 どんなに忙しく、時に隧道に入りかけることがあっても、こんなふうにゆこう。 ひとつひとつの事柄と「さっぱりと潔く」向きあう道をゆこう。 「人の世に道はひとつということはない。道は百も千も万もある。そしてパン粉のなかにはカツレツが眠っている」 夫の、夏の「。」しごと。 古ーくなっていた玄関前の踏板を換え、 部分的にペンキが塗られました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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