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カテゴリ:うふふ日記
トンネルを抜けた。
トンネルのなかにあって、かなたに点のように見えていた出口の光が、ああ、とつぜん大きくなったなと思ったら、そこが出口だった。 「え? ここ出口?」 という、なんだか呆気ないゴールだった。 これまで、幾度も仕事上のトンネルを経験してきたが、このたびのようなのは初めてだった。ほかの用事とのやりくりがうまくゆかなかったのと……、何よりなかなか手がつけられなかったため、さいごのさいごに、いよいよ突貫作業ということになってしまった。 「どうかしてるね」と自分を叱り、「あとで大変なことになるよ」と脅し、「Kさん(編集者)と、Iさん(デザイナー)を苦しめることになるんだからね」と泣き落としにかかったりした。が、ほんとうにぎりぎりも、つんのめるほどの崖っぷちになるまで、わたしは動かなかった。この、ぎりぎりもぎりぎり、という感覚こそが、初めてのものだったのだ。 その心理の分析すら、いまはしたくない。 ほんとうは、どうしてぎりぎりもぎりぎりのところまで手をつけられなかったかを探って知っておくことは、今後のためにも必要だと思えたが、それでもふり返りたくなかった。この1か月半のことをふり返ると、あたまがじじじじじと不穏な音を立てるのだもの。やり遂げたのだから、いまは、それでいいことにさせてもらおう。と、思っている。……うなだれながら。 ところで。 このたびはトンネルのなかで、わたしは比較的穏やかに機嫌よくしていることができた。ひとの助けがあったのは云うまでもないけれど、そのことも含め、「ふだん」の後押しのおかげだった。 切羽詰まった状態だったが、わたしは「ふだん」を手放さなかった。この手を離したら、おしまいだという気がして、つかむ手に力を入れて。 つかんでいた「ふだん」とは、どんなものか。 朝、同じように起きて「おはよう!」と云うことや、家の者たちが出かけるたびその背を追って玄関に行き、石を打ち合わせて(火打石の真似ごと)見送ることや、ねこのいちごの遺影に向かって二言三言はなしをすることや、そんなふうなことだ。そのほか、ポットに熱湯を注ぐこと、弁当づくり、ぬか床のこと、夕食の仕度にも一所けん命しがみついていた。「ふだん」というのは、わたしがまわしているものでなく、わたしを動かす原動力だったのだわ、と思いながら一所けん命。 トンネルの出口で、ほっとするのと同時に、気力が急激に失われるということが過去にはたびたびあったけれども、それもないところをみると、トンネルを出たあとの状態にも「ふだん」は力を発揮しているものらしい。 わたしの仕事を青くなりながら待ってくれた人びとに。 ときどき、おいしい晩ごはんをつくってくれた家の者たちに。 ある日、わたしのかわりにぬか床に野菜を漬けてくれた誰かさんに(誰だったのか、わからない……誰だろう)。 不義理をかさねるわたしを許してくれた友人たちに。 ごめんなさいと、感謝の気持ちを捧げます。 この半年くらい、わたしの「ふだん」の仲間入りしたもの、 それは「野菜だし」をとるしごとです。 たのしいしごとです。 大根、にんじん、玉ねぎの皮、 とうもろこしやブロッコリの芯、 青菜の根、 きゃべつやレタスの外葉ほか、 いろいろの野菜の切れはしをためておきます(冷蔵庫)。 たまった野菜の切れはしを鍋に入れ、 水をたっぷりめに注ぎ(ちょっぴり酒を加える)、中火にかけます。 煮立ったら弱火にして、あくはとらずに弱火のまま 30分~1時間煮ます。 そうして、目の細かいざるで漉します。 ほら、きれいな野菜のだしがとれました。 野菜の顔ぶれによって、季節によって、 いろいろの条件によって、とるたび「野菜だし」の 風味は変わります。 そこが、とてもとてもたのしいです。 汁もの、煮もの、ソース、ドレッシングなど、 いろいろな料理に使えます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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