加速学習日記

2009/11/26(木)16:01

宿題

家族団らん求める弁護士一家、 学校と2年にわたる「宿題を巡る闘い」。 たぶん、こじれた原因は ここに書かれていないところにあるとは思いますが 家族が仲良く団らんすることと 宿題をこなすこと 対極にあるようで それは、違うところにあるような そんな気がします。 そもそもなぜ宿題なのか どうしたら、うまくいくのか そういう話ができていたらなって思います。 宿題、これは、よく話題にあがります。 宿題が、罰とか重しとか 負担みたいに感じるから そういうことになると思うのですが 子供なんで忘れたり、やらなかったり こういうことは、当然あるんです。 昔は、新学年のときに きっちり、しめてないからとか なぜやらないかと とことん追求するようにとか もっと本気で叱らないと。 という上司の言葉を そのまま実行していました。 でも、最近は、 そういうことしなくなりました。 すると、可愛いもので なんとなくそれに気づかれないように その話題に触れないようにしたり 「最近、忙しくて。。。」 となんかやたら 話をするなと思ったら 「こんなに忙しいのに  出した先生が悪いんだ」 と話しだしたり 目印のふせんが 隠れているなと思ったら 「どこが宿題だったか解らなかった」 と話しだしたり その理由うまい!と こっちがほれぼれするなど いろんなケースを見てきました。 それに対して、 どうして宿題を出しているか 何を願っているのか 「人は、忘れてしまうものだから  練習をしないとできるようにならない  だから、宿題という形で  その練習をしてもらうようにしているんだ  人間だから、ミスもあるし  できないときもあります。  どうやったら、できるか  一緒に考えてみましょう。」 そういうお話をしています。 さて自分が思っていることを なんで、そんなこと知ってたの? と思うくらいにタイミングよく 答えが飛び込んでくることってありますか? それは、テレビからの声だったり ドラマのセリフだったり 街頭の広告だったり 誰かの一言だったり そういうことってありませんか? 最近、そういうこと多いんですよね。 またぁ、とか思って 思わず、上を見上げるときすらあります。 ちょっと前の日記に (2009年11月24日) 『問題を解決しようとするときに  原因を追求するのではなく  何がいい状態であるか  そっちを考えてみると。。。』 と書いたんですが その日の夕方に センター試験の国語で使った教材に 自然治癒力に関する 『トラウマの医療人類学』という作品が 問題文として引用されていて 『近代医学よりも空間的広がりと  時間的な広がりをもった解釈の上で  行われる通過儀礼はとても興味深い。  そこには、身体を、描写を周りの人間を  「もてなす」装置がふんだんに盛り込まれている。  たとえば、強烈なイメージの喚起、ユーモアと笑い  地位の逆転、暗示、他者とのつながりの感覚  その人の社会的な価値の再提示  役割と任務の提供...。  こういった治癒儀礼のなかで  治癒者と病や、その周りの人たちの境界は    しばしば揺らぎ、固定性を失う。  そして、参加者みんなが生き生きとしてくる。  そこで、達成される「癒し」は  もはや症状の消失だけではなく、  とらわれるこころの解放や  人間関係の修復、社会の再統合へと    自在に広がっていく。』 『本当は、「待つ」時間は  決して「無駄な時間」ではない。  しかし、たしかに、休養、食事、清潔などを世話をし  いつ起こるか分からない変化をただ待つだけより  さっさと悪いところを切り取り  悪い菌を殺す薬を注射するほうがかっこいいし  能力があるように見えるし、感謝もされる。』 そんな風な文章が書かれていて 『虫の知らせ』という日記を思い出し (2009年06月29日) つながるなぁなんて、思っていました。 いろんなサインに気づきながら 「この失敗をしてしまって  よかったことは、どんなことがあるのか。」 そういう風に捉えることができたら その有難さを知ったり 今までの生き方を反省したり このままだと自分がつぶれると 危険信号をくれたと気づけたり 家族や周りの人の優しさを知ったりできて その人が笑顔になり それを受け入れ、 付き合っていくことができる 元気になれば、なんでもできるというか すべては、エネルギー量なんだなぁと これを書いてて思いました。 『宿題に対して、  どういう風するのがいいのか?』 ここ数か月、ことあるごとに 考えていたのですが いろんなことがつながるものですね。 Alicia Keys- Superwoman & No One Live

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