テーマ:お勧めの本(7214)
カテゴリ:昭和恋々
隣家との境の垣根の向こうから、 「ちょっといいかしら」と声をかけたり、木戸をほんの少し開けて首だけ覗かせ、 「ユウコちゃん、熱下がった?」と心配すると、 「どうぞどうぞ」と招じ入れはするが、それは暗黙のうちに縁側までであって、それ以上奥へは入らないし、入れとも言わない。 子供のころ、よく見た光景である。 距離がないようで、境界線がきちんとある近所付き合いだった。 向かい合って笑い転げていても、主は縁側に坐り、隣家の人は履物をはいたままなのである。 ほんの五分で帰る場合もあるし、思わぬ長話になることもある。 そうなると番茶が出る。 けれどお菓子までは出さない。 こういう程よい付き合いというものがなくなり、隣人というものもなくなった。 たまたま顔を合わせれば、お愛想笑いだけで、内心では故(ゆえ)のない疑いの目で隣に住む住人を観察している。 庭と縁側がなくなったせいである。 *「昭和恋々」*久世光彦 うちは、お隣とけっこう、仲良しだと思う。 バラが咲いたといっては私が隣に届ける。 お隣からは、貸し農園で収穫した野菜が時々、私の家に届く。 もちろん、部屋に上がって話し込んだことも、何回かはあるが、ほとんどが、家の前での会話で終わる。 そんな時に、縁側があったらいいなといつも思う。 内でも外でもない空間。 なんとも、ファジーな空間、それが縁側。 あいまいな境界で出会うことの積み重ねで、近所付き合いが深まる。 隣の人をよく知っていれば、隣の子どもの泣き声を「騒音」ととることはない。 隣の子の弾くピアノの音にうるさいとノイローゼのなることもあるまい。 何年住んでいても、「隣人」にはなれないから、少しの物音も騒音になる。 騒音トラブルは後をたたない。 住宅の変化はめまぐるしい。 収納場所を増やすために、なくした縁側。 一見、無駄に見える縁側を残すことは、収納を増やすよりも大事なことだったのかもしれない。 秋ふかし隣は何をする人ぞ 芭蕉 それは、ほんの取るに足らないものかもしれない。 たとえば・・・私たちは、あの日のように雨や風の音を聴くことが、いまあるのだろうか。 このごろみたいに、夜は明るくていいのだろうか。 春を待つという、懸命で可憐な気持ちを、今どれほどの人が知っているのだろうか。 ・・・あの頃を想うと心が和むが、いまに還ると胸が痛む。 久世光彦 ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。 ★11月1日*芋たこなんきん:「昭和恋々(れんれん)」*UP ・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[昭和恋々] カテゴリの最新記事
|
|