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2017.07.30
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テーマ:トリビア?(264)
カテゴリ:八百八橋散歩

江戸時代の中之島東端(現在の東洋陶磁器美術館辺り)には
備中山崎藩(成羽藩)
蔵屋敷があり「山崎の端(鼻)」と呼ばれた。
明和4年(1767)頃にその上流部が築地されると
<鼻から鼻が出る>
という洒落から「風邪っ引き新地」
と呼ばれた。
この当時の天神橋、難波橋は中之島に橋脚はなく、大川を一気に跨ぐ
長大な橋で、
天満橋と合わせて「浪速三大橋」と呼ばれていた。

明治9年の埋め立てにより東端がわずかに難波橋の上流に達し、

大正10年(1921)には、大川浚渫によって出た土砂によりさらに東端の
上流部を埋め立てて現在の島域となり、難波橋と天神橋も中之島に橋脚を
据えるようになった。

一方、中之島西端にも蔵屋敷が並んだが、
ここでは「端建蔵(はたてぐら)」と呼ばれ、その地名になった。
堂島川、土佐堀川が合流し、木津川が分流する地だけあって橋が
密集し、宮本輝の小説「泥の河」も、この地に架かる
昭和橋、端建蔵(はたてぐら)、船津橋の描写から書き起こしている。
大阪中之島今昔(いまむかし)案内より。


▲中之島公会堂の近くに東洋陶磁器美術館があり、

その近くに■カフェ・GARB weeks(ガーブ ウィークス)■がある。
この辺りは、「風邪っ引き新地」に当たるのだと思う。
明和4年(1767)前には、この辺りは河だったのだろう。
地図の下部分辺りか。

この辺りから難波橋を見る。

明治9年には、埋め立ては難波橋を越えた。
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Last updated  2017.07.30 15:29:54
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