テーマ:トリビア?(264)
カテゴリ:トリビア
■淀屋とは。■ (1)淀屋の歴史。 *前期淀屋 岡本家(淀屋橋家)初代常安から5代広当(闕所けっしょ)まで。 分家 常安町家、大川町家、斎藤町家、大豆菜町家(当家のみ存続) *後期淀屋 大坂淀屋(淀屋清兵衛家)5代 分家 牧田家8代 (2)淀屋の事業と特徴。 *米市を主体とする多角経営。 *わが国・大坂に果たした貢献の大きさ。 *未曾有の財産と百万石大名なみの威力。 ■業績■ ★初代・常安(1560~1622) (1)淀川改修 (2)伏見銀座設立 (3)中之島開拓 (4)惣年寄(大坂中元締め)(注) (注)惣年寄(そうとしより)は、江戸時代に大坂などの町の町政を司った町役人の筆頭に位置する役職。 総年寄りともいう。 ★★2代言当(1576~1643)(注) (1)青物市の設立。 (2)大坂の市街構築(堀川・永代浜) (3)雑魚場市の設立 (4)米市の設立 (5)北前船の先鞭 (6)地方との交易 (7)糸割符への加入 (8)困窮大名への貸付 (9)神社仏閣への寄進 (10)寛永文化への貢献 ★★★★4代重当 (1)神社仏閣への寄進 (2)町年寄りへの就任 (3)千歯扱き(稲扱き)の考案(注) (注)鳥取県の中央に位置する倉吉は、江戸時代から千歯扱きの製造が盛んな場所だった。 大坂をおわれた淀屋は倉吉に店を出すが、千歯扱きを製造する過程で倉吉を知ったのだろうか。 ■▽倉吉が良質な砂鉄の産地だった■▽仁右衛門が倉吉出身だった―などが理由だったという。 重当は倉吉に鍛冶町を作り、稲籾もみを削ぐ稲扱こき(=千歯扱せんばこき))を製造。 その後、全国に普及する農機具の殆んどは倉吉製だった。 (注)■淀屋の世代について■ 淀屋は、14代説、9代説、7代説、5代説などがある。 ここでは、5代説。 ■まとめ■ ●淀屋と大坂 (1)淀屋は江戸前期100年に日本経済の牽引者となった。 (2)未知の事業に対する挑戦と成功。 (3)未曾有の財力と藩に対する威力の大きさ。 (4)栄華と悲哀の巨大な落差。 (5)資料の少なさからくる謎とミステリーの多さ。 ●淀屋のわが国に対する功績 (1)淀屋の米価が全国の基準米価となった。 (2)他の商品の基準価格となった。 (3)米経済から商品経済・貨幣経済を定着させた。 (4)手形の発展を促した。 (5)世界に先駆け、近代的な先物相場に先鞭をつけた。 (6)全国の農作業の改善効率化に寄与した。 ●大坂に対する功績。 (1)戦後の大坂の市街地造り(注) (2)大坂を全国の流通の拠点にした。 (3)国内の米の70%、貨幣の80%を大坂に集め、大坂を天下の台所といわせた。 (4)国内外から大坂に富をもたらした。 (5)行政に参画し、地域の発展に尽くした。 (6)信心深く、陰徳善事を施した。(注2) (7)文化の向上に貢献した。 (注)関ケ原以後のことと思われる。 (注2)【陰徳とは目にみえぬかげの間にて人のためになるようなこと。】 ■淀屋から学ぶこと■ (1)地方企業でも、やり方次第で、国のシステムを変えることが出来 る。 (2)シェア争いではなく、パイを大きくすることを心掛けた。 (3)商圏を藩内だけでない常に広げた。 (4)将来を見通すのは、情報収集力と分析力である。 (5)利益は、一過性ではなく、システムの開発が重要である。 (6)利益は、常に社会に還元することを念頭におくべきである。 (7)常に、他から学ぶことから自らを大きくする。 ■淀屋の闕所(けっしょ)で大坂は■(注) (1)全国の流通拠点としての地位付けから落ちた。 (2)繁栄した商業都市から、永い不況の時代に入った。 (3)大坂商人は、新しい事業開拓により、金融による利益獲得に入っ た。 (4)大坂町人(商人)のモラルが下がった。 (5)大坂の人口が激少した。 (注)この部分についてあまり理解していない。 (注)は、私が書いたもの。 平成19年 大阪文化再発見講座レジュメ ■淀屋橋■ ■老前整理■をしていたら出てきた。 ここに残して、紙は処分。 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.10.09 07:55:58
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