テーマ:大阪・大阪人(88)
カテゴリ:八百八橋散歩
■相合橋(あいあうばし)■ この橋が最初に架けられたのは1680年代で、当初は中橋あるいは新中橋と呼ばれ、近松門左衛門の浄瑠璃『心中重井筒』の一節にも中橋として登場している。 相合橋と名が改められた時期は不明。 なお、当橋は島之内の北を流れていた長堀川の中橋と玉屋町筋で結ばれており、中橋と相い合う橋であることから相合橋になったともいわれている。 江戸時代から明治にかけて、北に宗右衛門町、 南に道頓堀の芝居町を挟んで坂町(元伏見坂町)といった花街が広がっていた。 明治になると、男女の仲が切れる「縁切り橋」との風評がたち、遊女などは相合橋を渡ることを避けていたといわれ、婚礼の行列も相合橋を渡らなかったと伝わる。 現在の橋が架橋されたのは1962年(昭和37年)で、1983年(昭和58年)に 幅を両側へ大きく拡げて、橋上に憩いの広場が設けられた。 2004年(平成16年)に、相合橋付近にとんぼりリバーウォークが整備された際に、遊歩道へのアプローチ階段が設置された。 「あいよいばし」「あいおうばし」「あいおいばし」「あいあいばし」などとも呼ばれる。 土木学会関西支部による「浪速の名橋50選」に選定されている。 相合橋の北詰にひっそりと一基の石碑。 「盛り場をむかしに戻す はしひとつ」。 *食満南北(けまなんぼく)*自筆の句碑である。 *食満 南北(けま なんぼく、1880年(明治13年)7月31日 - 1957年(昭和32年)5月14日)は、明治から昭和に活躍した歌舞伎作者、作家。 裏面の「句碑建立発起人」には、発起人代表である菅楯彦のほか、中村雁治郎・片岡仁左衛門・長谷川一夫といった名だたる役者や長谷川幸延・牧村史陽といった面々が名を連ねている。 もともと昭和36年(1961)に太左衛門橋の北詰に建てられた碑は、芝居町として賑わった道頓堀ゆかりの人びとのアイデンティティを語っているようである。 ■石碑(いしぶみ)が語る「地域へのまなざし」■ ■道頓堀五座の風景■ ■道頓堀川の橋■ •下大和橋 •日本橋 - 堺筋 •相合橋 ■太左衛門橋■ ■戎橋■ ★心斎橋筋・戎橋筋 ■道頓堀橋■ - 御堂筋 ■新戎橋(しんえびすばし)■ ■大黒橋■ •阪神高速1号環状線 (以降、通称西道頓堀川) •深里橋 - 四つ橋筋 •浮庭橋 •住吉橋 •西道頓堀橋 - なにわ筋 •幸橋 •幸西橋 - あみだ池筋 •汐見橋 - 新なにわ筋 •日吉橋 •道頓堀川水門 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.10.15 09:14:36
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