テーマ:映画館で観た映画(8346)
カテゴリ:映画
光り輝く銀盤の上にだけ「本当の自分」がいた。 アイススケートをメジャースポーツへと押し上げ、さらに芸術の領域にまで昇華させた伝説のスケーター、ジョン・カリーは1949年9月9日、イギリス・バーミンガムに生まれた。 卓越した身体能力と革命的な振付で1971年と、73年から76年まで全英チャンピオンに輝く。 そして、バレエのメソッドを取り入れた演技で76年インスブルック冬季五輪フィギュアスケート男子シングルの金メダルを獲得。 だが、マスコミが真っ先に伝えたのは、彼のセクシュアリティであった。 同性愛が公的にも差別されていた時代に、ゲイであることが公表されたメダリストの存在は、世界中を驚かせ論争を巻き起こす。 栄光の裏にあった深い孤独、自ら立ち上げたカンパニーでの新たな挑戦、そして彼を蝕んでゆく病魔AIDSとの闘い……。 本人や家族、友人、スケート関係者へのインタビューを交え、時代に翻弄され不当な扱いを受けながらも屈することなく高みを目指し、人を遠ざけながらも愛に飢え、滑り、踊り続けた男の姿が明かされてゆく……。 フィギアスケートは、大好きなのに、ジョン・カーリーは、まったく知らなかった。 私と同世代の人で70年代の前半から大スターだったみたいだった。 この映画は、ドラマだと思っていたら、彼の若い頃からのフィルムと友人たちの証言で、構成されていた。 同じく、スケーターで、ゲイと言われているジョニー・ウィアー氏も 「1970年代は今よりもゲイでいることが困難だっただろうに・・・」とコメントしていた。 そして 「彼が僕を創った。 ありのままでいられる僕を」とも言っている。 ジョンは、本当はバレエを習いたかったという。 しかし、父親がその望みを却下。 フィギアスケートが習いたいというと、スケートはスポーツだから習ってもいいという父親。 バレエをやっていたら、有名なダンサーになっていただろうなと思う。 バレエダンサーやスケーターは、なぜか同性愛者が多いという。 バレエ界の伝説・ニジンスキーも、これまた伝説■ヌレエフ■も同性愛者だった。 興味深かったのは、当時のゲイの人が集まるダンスホールの映像が何か所もあったこと。 今よりも、同性愛者が生きにくかった時代に、みんな生き生きと踊っていた。 技術と芸術、男っぽさと優雅さ、冷戦のさなかのカリーの時代には政治的な東と西―。 勝敗を決める採点の裏には、これらの対比が色濃く残っていた。 芸術性の評価は特に難しく、当時のコーチが「彼の演技は好まれなかった」と言うシーンがある。 長い歴史を持つこの競技がいまだに解を示せない問いだ。 フィギュア界のタブーに臆せず切り込んだテレビインタビューが衝撃だった。 75年の欧州選手権でソ連のウラジーミル・コバリョフに敗れると、カリーはジャッジの選定を含めて競技のシステムが腐敗していると断じた。 当時は技術点、芸術点を6点満点から0.1点刻みで評価し、過半数のジャッジが良い点数を付けた選手が上位になる採点方式。 ジャッジは9人。 「この人は東、この人は西、って数えながら選定を見守るんだ」 映画は競技者としてのカリーにとどまらず、バレエを「男らしくない」という理由で断念せざる負えなかった少年時代の父親との軋轢とプロ転向後の苦悩を、自ら立ち上げたカンパニーによる世界各地での公演の模様や、1984 年に来日した際の様子など貴重な映像と関係者のインタビューで綴る。 これは、不当な扱いを受けながらも屈することなく、高みを目指し、人を遠ざけながらも、愛に飢え、滑り、踊り続けた男の物語。 彼は44歳でエイズによる心臓発作で亡くなっている。 スケートの天才といえばプルシェンコ。 審査員のすべてが満点の6をつけたプルシェンコの傑作 ■ニジンスキーに捧ぐ■ をジョン・カリーが見たらどう言うだろう。 また、4回転ジャンプばかりにこだわる風潮の今のスケーター達は、ジョンのスケートを見て、どう思ったのだろう。 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.06.11 00:00:53
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