テーマ:国内旅行について(2479)
カテゴリ:国内旅行
■10月29日~30日、一泊二日で伊賀上野に行った。 伊賀上野は、伊賀焼という焼き物が有名。 なかでも、長谷園は、国の登録文化財になっている。 ■長谷園■ 2011年に国の登録有形文化財に登録された「16連房旧登り窯」、山の緑、空の青と相まって見事な景観です! 炊き上げるのに15日以上を要したというこの16部屋の窯は、創業から昭和40年代まで稼働していたのだそう。 国内で現存する登り窯のなかでも、これほどの大きさのものは他に類を見ないようです。 ▲窯の上の展望台から見た景色。 大正時代に事務所として使われていた建築物も登録有形文化財として認められています。 「大正館」と書かれています。 風格のある建物や、整然とした品のよい佇まいの建造物が多いので、どこで写真を撮っても絵になります。 丁寧に維持管理されている調度品の木目も、窓の格子が作る影も、どこを見ても美しい「大正館」の館内。 心が静まり、呼吸が整うような、静謐な気配に満ちています。大正ロマンに、うっとり。 「大正館」は見学だけでなく、実際にカフェスペースとして休憩できるようになっています。 自動販売機で挽きたての珈琲を注ぐのが、伊賀焼のカップ。 信じられないようなお話ですが、使用後はそのまま持ち帰っていいんですって・・・! コーヒーは伊賀焼のカップ付きで350円。 ■蹲(うずくまる)■ ■伊賀焼(いがやき)は■三重県伊賀市にて焼かれている陶器。 中世から始まったといわれる日本有数の古陶である。 始まった頃は水瓶や種壺、擂り鉢などの日用雑器が焼かれていたが、 陶土産地が山一つ隔てた信楽と同じ古琵琶湖層由来だったため、信楽焼とほとんど区別がつかなかった。 ▲長谷園にあったこれはなんだろう?▼ ▲ポストも信楽焼。 太平洋戦争で金属で出来ていた郵便ポストが陶器に変えられたというが、これもそうだろうか。 桃山時代に侘び茶が大成されると伊賀焼の持つ風情が千利休ら茶人に大変好まれ、大名間で献上品として利用されるほど珍重されていました。 しかし、寛文9年(1669)藤堂家三代・高久の時に原料である白土山の陶土の濫堀防止のため「御留山の制」が設けられ、陶工は信楽へ去り伊賀焼は徐々に衰退していきました。 その後、江戸時代中期にはいると、京都や瀬戸の陶工を招き釉薬の技術を学び、日用雑器が作られ伊賀焼は復興を遂げました。 この時期を「再興伊賀」と呼びます。 「再興伊賀」以降は茶陶はほとんど焼かれなくなる一方、行平鍋や土鍋などの耐熱厨房食器や日用雑器が中心となっていきました。 ◆筒井伊賀(古伊賀)◆ 伊賀の国主となった筒井定次が阿山の槇山窯にて茶の湯に用いるための茶壷、茶入、花入、水差などの茶器を焼きはじめたもの。 筒井定次は、千利休の高弟で安土桃山時代に「織部好み」と呼ばれる一大流行をもたらした古田織部の弟子として茶道を学んだそうです。 ◆遠州伊賀◆ 江戸時代になると、藤堂高虎の娘婿で大名茶人・小堀遠州の指導により焼かれたもので、筒井伊賀とは対照的に、あかぬけて洒落た厚さの薄い茶器である。 ◆藤堂伊賀(古伊賀)◆ 寛永(1624〜1644)のころ、藩主藤堂高次が京都から陶工を招き、茶陶を焼かせたもので、茶器の中でも特に水差が多い。 すぐに衰退している。 ◆再興伊賀◆ 「藤堂伊賀」ののち、江戸中期には京都や瀬戸の陶工を招き、施釉陶の技術がもたらされた。 これらの時期を「再興伊賀」と呼ぶ。 そして「再興伊賀」以降は茶陶はほとんど焼かれなくなる一方、土鍋や行平、土瓶などの日用食器が中心となっている。 ●NHKの朝ドラ「スカーレット」の舞台は、信楽焼で有名町。伊賀上野とは近く、「伊賀のおばあちゃん・・・」というセリフが何度か出ていた。 ●大名茶人・小堀遠州が藤堂高虎の娘婿とは知らなかった!! にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[国内旅行] カテゴリの最新記事
|
|