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おしゃれ手紙

2020.09.05
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カテゴリ:八百八橋散歩

大手橋
古くは思案橋と呼ばれていた。

大阪城の大手門に通じる大手通にあたるが、なぜか橋の西側で行き止りになっている。
橋を渡って左右どちらに行くか迷うために思案橋と呼ばれるようになったとされる。
また、豊臣秀吉が五奉行の一人、増田長盛に橋の名前を付けるよう命じたが、思案してもなかなか決められなかったため思案橋といわれるようになったともいう。
ただ豊臣時代からこの橋があったとする確証はない。

大手通という町名が付いたのは明治以降のことで、大手橋と名付けられたのは大正時代になってからである。
大手橋が近代橋になったのは大正15年、第一次都市計画事業によってである。
 
三径間のコンクリートアーチが採用されている。
東横堀川の橋はアーチが多く、鋼とコンクリート製がほぼ交互に並んでいる。
デザインもそれぞれ違っていて、独自の景観を作り出している。

橋は江戸時代には架けられていたが、關一大阪市長による大阪市第一次都市計画事業により、1926年(大正15年)に近代橋として再建された。

建設後60年以上経ち、床版や橋面の損傷が著しくなっていたため、平成元年度に改修工事を行い、これに合わせて顕彰碑を設置した。
関一(せきはじめ)
東京高商教授から大阪市助役に転身したのは、自身の社会政策学・都市計画学の研究を実践してみたいとの思いからだったと述べている。
市長就任後も、質素な生活を続けており、遺産は1万円足らずであった。
東京高商で同僚だった佐野善作からは「特徴のない特徴」「地味」などと評される。
家族は妻と三男、四女。
1918年に長女に先立たれ、1928年には長男も結核で死去。
1932年に妻が病没した際は、落ち込み、2ヶ月間職務を休んだ。
その3年後の1935年1月14日には、自身も腸チフスで倒れ、同年、市長職のまま死去した。


■東横堀川の橋■上流から
葭屋橋■ - 土佐堀通
今橋
高麗橋
東横堀川水門
平野橋
大手橋
本町橋 - 本町通
農人橋 - 中央大通
久宝寺橋
安堂寺橋
末吉橋 - 長堀通
九之助橋
東堀橋
瓦屋橋
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Last updated  2020.09.05 00:26:41
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