テーマ:国内旅行(1389)
カテゴリ:国内旅行
■2020.11.19 午前中、■山口県の絶景・角島大橋と元乃隅神社に行き■午後から仙崎へ。 仙崎は、詩人、金子みすゞの故郷で、そこここにみすゞの足跡がある。 生まれは北海道だという70代の女性ガイドさんの案内でこの小さな港町を廻った。 金子 みすゞ(かねこ みすず、1903年(明治36年)4月11日 - 1930年(昭和5年)3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。本名、金子 テル(かねこ テル)。 大正末期から昭和初期にかけて、26歳で死去するまでに500余編もの詩を綴り、そのうち100あまりの詩が雑誌に掲載されたとされる。 1923年(大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十からは「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。 仙崎は、港町で太平洋戦争が終わった後、大陸からの引揚者が多くこの港に上陸したそうだ。 下関の方が交通に便利なのでは?と思うかもしれないが、関門海峡には、アメリカ軍の落とした爆弾が残っていて、安全ではないというので、ガイドさんの夫さんの家族もここに引き揚げたそうだ。 仙崎の目と鼻の先に、「青海島(おおみじま)」がある。 今は、橋がかかっているが、かつては、「青海島(おおみじま)」と仙崎の間に定期便の船が出ていて、通勤、通学に使われていた。 「青海島(おおみじま)」の一番近くのこの場所には、渡し船があったそうだ。 渡りたい時は、 「おお~い!!」とたけったそうだ。 「たける」とは、この地方の言葉で、大声を出すという意味だそうだ。 生家跡に建てられた金子みすゞ記念館。 金子みすゞの詩は長らく忘れられていたが、岩波文庫『日本童謡集』の「大漁」を読んだ詩人の矢崎節夫らの努力で遺稿集が発掘され、1984年に出版されるや、瞬く間に有名になった。 翌年の東京大学の国語の入試問題(1985年国語第二問)には「積もった雪」「大漁」が採用されている。 現在では代表作「わたしと小鳥とすずと」が小学校の国語教科書に採用されることも多い。 また、このことをきっかけに地元長門でもみすゞの再評価が行われることとなり、みすゞの生誕100年目にあたる2003年4月11日には生家跡に金子みすゞ記念館が開館。 みすゞが少女期を過ごした家を復元すると共に、直筆の詩作のメモなどが展示されている。■金子みすゞ記念館■ クラッシックなたたずまいの仙崎駅である。 金子みすゞも、下関に行くとき、この駅から汽車に乗ったのだろうかと思い、ガイドさんに聞いた。 「みすゞさんは、船で下関へ行ったんですよ」とガイドさん。 「えっ!?」と私はびっくりした。 しかし、これは、海辺の町から海辺の町に行くには、当たり前のことだ。 当時は、船の定期便が出ていたのかもしれない。 そして何より、金子みすゞの生まれたのが、明治36年(1903)4月11日、亡くなったのが、昭和5年(1930)年3月10日。 仙崎駅は、みすゞが亡くなった後の、昭和5年(1930)5月15日、貨物支線として出来たのだから。 ▲町の中のツタの絡まる建物は、カフェ。 ●著作権について● 金子みすゞの作品そのものの著作権は作者であるみすゞの死後50年を過ぎており消滅しているが(著作権の保護期間参照)、作品集を出版しているJULA出版局を窓口とする「金子みすゞ著作保存会」は、みすゞ作品を利用する際には同会の許可を得るよう求めている。 その理由としてJULA出版局は、著作の大半が生前未発表であったこと、ならびに未発表作品を一般に広めるきっかけとなった『金子みすゞ全集』(JULA出版局)による二次的著作権の存続を挙げている。 このこともあり、みすゞ作品は青空文庫にも収録されていない。 この点には、矢崎らの「金子みすゞ著作保存会」の姿勢に対して疑念を持つ者も存在し、福田による紹介を取り上げた長周新聞も、著作を独占しているとして矢崎を記事内で批判している。 金子みすゞのお墓がある寺。 山口県の墓地では、これが墓地にあった。 花に水をやる時のものだろうが、初めて見た。 ■山口県のおすすめスポット■ ●走行距離:129Km ●11191歩。 ■山口県のおすすめスポット■ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2020.12.16 00:03:24
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