2021/04/12(月)00:07
柳宗悦「雑器の美」と古民具・片口
毎日触れる器具であるから、それは実際に堪えねばならない。
弱きもの華やかなもの、込み入りしもの、
それ等の性質はここにゆるされていない。
分厚なもの、頑丈なもの、
それが日常の生活に即する器である。
手荒き取り扱いや烈しい熱さや寒さや、
それ等のことを悦んで忍ぶほどのものでなければならぬ。
病弱ではならない、華美ではならない。
強く正しき質を持たねばならぬ。
(略)
装うてはいられない。
偽ることは許されない。(略)
正直の徳を守らぬものは、よき器となることが出来ぬ。
(略)
その姿には誠実の美があるではないか。
謙譲の徳が現れているではないか。
すべてが病弱に流れがちな今日、彼らのうちに健康の美を見ることは、恵みであり悦びである。「柳宗悦・雑器の美」より
(▲直径22センチの片口の隣に比較のため
15センチの雑煮用のお椀を置いた。)
上記の文章は、片口のために書かれたものではない。
雑器、一般についてのものなのに、さながら、片口のための文章のようにおもえる。
今から50年以上前、龍野市に住んでいた頃、近所の商家の蔵が壊されることになりその時、父母が手伝ったお礼にもらったものだ。
想像するに、商家では、大きな樽から酒か醤油をこの片口にいったん入れる。
そこから、通い徳利や持ってきた器に移して売るというスタイルだったのだろう。
50年以上前にすでに、その頃の生活スタイルに合わなくなって「いらなくなったもの」として処分されたもの、古民具だ。
父は当時からこのような古民具の器が好きだった。
その影響からか私も好きだった。
父や母や老人ホームに入って空き家になった岡山の実家から私は迷わずこの片口を持って帰った。
正月に雑煮用の出し汁を作って、この片口で冷まし、その後、大きめのペットボトルなどに出し汁を移し、冷蔵庫に入れて利用する。
普段、あまり使わないけれど、目立つ所に置いている。
この片口は、使って嬉しい、見て嬉しい。
柳宗悦は、なぜ私がこの器を好きなのかということを端的に分析し教えてくれる。
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