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2024.10.23
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テーマ:読書備忘録(1398)
カテゴリ:読書
インク壷
5月26日、■鎌倉市:鶴岡八幡宮■に行った。
行く前に、「街道をゆく・三浦半島」を読んで鶴岡八幡宮についてをメモしていたので、ここに残しておく。

司馬遼太郎の旅の拠点は、三浦半島の付け根部分にあたる横浜・磯子のホテル。
ここから<毎日勤め人のように>半島に通い、鎌倉幕府出現の背景を考える。
司馬さんは、源頼朝の挙兵成功の理由を、三浦、房総、伊豆の3半島の連動にあったと思い至る。それぞれの半島の勢力が海路を使って連携したのだ、と。
大楠山の山頂から3半島の位置を改めて確認し、衣笠山では、頼朝を助けた三浦大介義明に思いを馳せる。
そして、若宮大路、鶴岡八幡宮、極楽寺坂、朝比奈切通しなど、頼朝や義経、新田義貞らの足跡を辿る。
半島を下り、横須賀で考えたのは、「スマートであれ」が教育方針だった旧海軍のこと。
日露戦争で活躍した連合艦隊旗艦「三笠」を訪ねて、かつて出会った品のいい元海軍士官の紳士たちを思い出すのだった。


●(鶴岡八幡宮を造営するにあたり)第一、宮大工がいなかった。
このあたり、まだ関東の文化は、心もとなかった。
頼朝が構想するような巨大構造物を建てる棟梁がいなかった。
ところが、
「武州(武蔵)の浅草にいます」といった者がいる。

武蔵は、一様に草深かった。
そういう状態を、普通名詞では「深草(ふかくさ)」という。
その対語が、浅草かと思える。

町屋があつまり、小規模ながら町であるというさまから、浅草が地名になったのではないか。
浅草は、浅草寺の門前町である。
大きな伽藍のそばには、それを修復する宮大工が住んでいるものだが、浅草にもそういう人物がいた。
その匠が、いそぎ鎌倉によばれた。

●若宮大路の路幅は、じつにひろい。
その大路の中軸に(両側ではなく)、石塁を積みあげて、その塁上を歩行できるように造られている。
段葛のながさは、五百メートルほどで、むかしはもっと長かったらしい。(略)
工事するにあたって、頼朝自身、血相を変えるような勢いで現場を指揮しているのである。
北条時政も土石を運んだ。
(略)日本の場合、たとえば戦国時代から江戸初期にかけて、築城においては城主みずからがもっこをかつぎ、城主夫人がたきだしをした。


伊予宇和島白の場合での藤堂高虎、
 加賀の築城にあたっての前田利家、

土佐高知城での山内一豊などそうであった。

そういう先例は、ひっとすると若宮大路と段葛を工事した頼朝や時政だったのかもしれない。

●「段葛」
石を積んだ堤を並行して二列つくり、その二列の間に礫石や土などをいれて突きかため、細い道にしたもの。

鎌倉時代、単に置き石の道とか、作道(つくりみち)」などともよばれていた。

「神のほかは、段葛を通るのは、将軍かその後の北条執権かにかぎられていました」と鶴岡八幡宮の国宝館三浦館長はいう。
「街道をゆく42:三浦半島より」

動画:街道をゆく・三浦半島

街道をゆく 北のまほろば (夏)
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Last updated  2024.11.07 00:14:04
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