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2024.10.29
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テーマ:読書備忘録(1398)
カテゴリ:読書

播州揖保川・室津みち
『播磨灘物語』の主人公・黒田官兵衛が一時居城としていた山崎を訪れたいと考えた司馬さんは、西播州の生まれで少年時代をこの地で過ごした歌人の安田章生氏とともに揖保川沿いに車を進める。
古代稲作民について思索を巡らせながら伊和神社の境内を歩き、安田氏の母校・山崎小学校で山崎城のわずかな名残を見る。
 龍野では三木露風を心に浮かべる。
揖保川を下り、奈良朝以来の港である室津
に宿をとった司馬さんは、現在のものさびた町並みを前に、中世、外洋を航海した船のことや、四国に流される途上でこの地に立ち寄った法然上人に思いをはせる。

●読書メモ●
●山崎という地名は、京都府の山崎もそうだが、おそらく山なみの先端という地勢から出たものに相違ない。
●江戸初期には一時期、城がこわされて畑になったこともある。
寛文十二(1672)年、脇坂氏が入るにおよんで、ふたたび造営された。
幕府に遠慮しつつ造った小規模なもので、天守閣は、つくらなかった。
徳川書記は幕府がさかんに豊臣系の大名の取りつぶしをやったときで、秀吉の小姓あがりの脇坂安治を祖とする脇坂氏などはおっかなびっくりだったのであろう。
城が小さすぎるために、代々の城主はべつの一角に屋敷をつくって、住んでいた。
赤とんぼ●「露風は、どういうわけか龍野中学を中途退学して、岡山県の私立中学閑谷こうへ行っています。」
「露風は明治三十六年に、「県立龍野中学校の入学試験に主席で合格」
寄宿舎に入舎。
●古風な門の前に出た。
門柱に
竜野県庁」と、板も筆のあとも古びてしまっている表札が出ている。
いわゆる版籍奉還のあと、大藩も小藩も、一時そのまま県と称された・・・(略)
●湾の小ささが、室津の風情をいっそう濃くしている。
古くは遣唐使船の船泊になり、平安末期には西海へ落ちてゆく平家の船団の一部を休ませ、室町期には京都商人をのせた遣明船がここで風を待ち、
江戸期にはさらに殷賑をきわめ、西国大名の参勤交代の船の寄港地になったというが・・・(略)
●遣唐使船は、大阪湾の三津浦から出た。
(今は)大阪市南区の繁華街で、そこが、奈良朝、平安朝のむかし海港であったなどという実感はまったくおこらない。
大阪湾を出て瀬戸内海をゆく遣唐使船が、ほぼ決まったように室津に寄港したことは、まちがいないかと思える。
遣唐使船は最初は二艘だったが、のちに四艘になった。
一隻に、多い時は二百人以上乗っていた。
使節団はべつとして、操船者たちはその頃から存在したかと思える室津の遊女とあそんだのではないかと思われる。
動画:播州揖保川・室津みち
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

高野山みち
空海の開創した高野山をめざす司馬遼太郎一行は、車で大阪から紀見峠を南へ越えて麓の九度山に入る。
真田父子の悲運に思いをいたし、慈尊院で空海の母を思う。
九度山から高野山へ登る町石道は当時荒れ果てて廃道同様になっていた。
その入り口で、司馬遼太郎は鬱然とした樹々の木下闇に、深山幽谷に引き込まれていくような畏れを感じた。
高野聖たちが空海と浄土信仰を結びつけたことを思い、その晩遅くに山内へ上がる。
翌日、旧知の西南院住職の案内で、奥の谷に入り、修行僧たちが念仏を専修する真別処を訪ねる。
森閑とした域内に佇む沙羅双樹の木を見て、司馬遼太郎はインド仏教の原思想とそれを移入した日本文化との関係に思いを巡らせる。

●読書メモ●
●高野聖は僧形をしている。
しかし正規の僧ではない。
正規の僧というのは、律令以来、国家がその資格を認定し、国家が扶持する得度者をいう。
奈良朝のころは正規の僧になるのは、明治後の高等官試験や司法試験よりもむずかしかったかもしれない。
そのかわり、律師、僧都、僧正といったような僧位、僧階があたえられて国家から宗共感として礼遇された。
●江戸末期まで、高野山にあっては、
学りょ方、
行人方(ぎょうにんがた)、
聖方という三つの機能
があり、それぞれ仲が悪かった。
学りょ僧は奈良・平安の官僧およびその候補者といってよく、
これに対し、行人は叡山などの僧兵にあたるであろう。
本来、高野山の雑役夫で便宜上僧形だった者が、しだいに一山(いっさん)で勢力を得、学りょと対抗するまでになった。
かれた行人はおなじ私度僧ながら聖と異なり、高野山に常住して旅に出ない。
これに対し、荒野聖は、回国が専門である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

信州佐久平みち
旅の前、司馬さんは信濃の地図を眺めて、信濃には更級や蓼科など「科(級)」のつく地名が多いことに気付き、その意味を考える。
また桜井や海野などという地名から、桜井氏や海野氏など、中世信濃武士団の興亡を思う。
旅の起点はJR長野駅。
最初の宿泊地・別所温泉に行く途中、上田市の商店街の街灯に真田六文銭のマークがあるのを見て、上田が「真田氏の町」であることを実感する。
別所温泉では、この地を訪れた捨聖・一遍の、すべてを捨てて求道をつらぬいた生を考える。
翌朝、常楽寺、安楽寺を訪ね、午後は臼田の佐久総合病院に入院中の知人(詩人のぬやま・ひろし)を見舞う。
南軽井沢に泊まった翌日、旧中山道沿いの望月宿をめざした。
その途中、昼食を食べるために立ち寄った岩村田の蕎麦屋のテレビで田中角栄前首相の逮捕を知る。
望月は平安朝の御牧のあった所。
信州の騎馬が木曾義仲の軍事の要だったこと、清少納言『枕草子』の望月宿の記述へ思いをはせ、旅を終える。

●信濃には科(しな級)のつく地名がじつに多い。
埴科(はにしな)、更科、蓼科、立科、穂科、倉科といったぐあいで、信濃の国も、「日本書紀」に「科野国(しなのにくに)という文字を当てている。

●奈良朝という律令国家は、全国を公田にしてそこからあがってくる米その他を都に運ばせるため、道路を必要とした。

●(軽井沢は)「枯れ沢が訛ったのではないか」というのは、吉田東伍の説である。
(略)
「沢」という地名は西日本にはまれで、東日本に多く、とくに信州と東北に多い。
(略)
「現在のサワは、だいたい、東日本では渓谷を、西では沼沢を指す」。

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Last updated  2024.11.12 00:02:03
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