テーマ:読書備忘録(1435)
カテゴリ:読書
![]() ■街道をゆく 白河・会津のみち、(赤坂散歩)■ 司馬遼太郎は、平安期の貴族・文人の奥州こがれの歴史をふりかえりつつ、白河へと旅立つ。 まずはふたつの白河の関跡や関東と奥州の境に立ち、幽邃な空間で古代に思いを馳せる。 続いて平安時代に多量の金が産出された八溝山を眺めに、犬神ダムへ。 東北の金が都の文化を支えたことを思う。 さらに、明治の女流画家・山下りんのイコンが飾られている白河ハリストス正教会などを訪れて、会津へ。 道中、大内宿の江戸時代そのままの姿に須田画伯とともに度肝をぬかれ、その後、最澄と大論争を繰り広げた学僧・徳一が会津にいたことを奇蹟のようだと思う。 会津若松市に入ると、幕末の会津藩への強い同情心が溢れてきて、松平容保と会津藩士の牢固な士風がもたらした悲劇の後に、国家が会津藩にした仕打ちを苛烈な言葉で批判する。 飯盛山など会津藩ゆかりの地をめぐってはいるが、観光地化された変貌ぶりに失望した司馬さんの思いはひたすらに幕末の会津藩へ向かうのだった。 ![]() ●福島県の郡山市といえば、明治後ににわかにできた都市で、いまや東北産業の拠点をいわれている。 ただ平安人にとっては、そこは沼だった。 芭蕉もここを通り、「おくのほそ道」のなかで、 「このあたり沼多し」と書いた。 ![]() 能因法師 ●今は、東京・上野から新白河まで新幹線で1時間25分。 ![]() ![]() のち、単に通行のための関になり、平安後期ごろからは有名無実になった。 ●便りあらばいかで都へつげやらむ今日白河の関は越えぬと 平兼盛 ![]() ●1189年源頼朝が関を越えた時は、(白河の関は)もはや名のみで、もしあったとしても土地の豪族の一防禦施設にすぎなかったはずである。 (略) 「吾妻鏡」には、梶原景季(かじわらかげすえ)が一首詠んだ。 秋風に草木の露を払わせて、君が超ゆれば関守もなし 梶原景季(かじわらかげすえ) 「いやはや、ご威光でございますなぁ」 とたいこ持ちのような歌である。 「ご威光によって秋風が吹いているのでございましょう。 その風めが露払いをつとめまして、草木にも露がなく、それどころか、関守までも消えちまっているようでやんすな」 ![]() 船は、かならず新造船である。 (略)人件費も大変であった。 人数はたいてい大使以下、文官、僧官らに操船者を入れて数百人だった。 大使から僧の末端にいたるまで、通貨のかわりとしての砂金や絹をたっぷりもたせてやるのである。 ![]() ●大内宿。 江戸時代の宿場町が当時のままに残る。 ![]() ▲重要伝統的建造物群保存地区。 その家も屋号がついている。 叶屋、ます屋、山形屋、大和屋、富士屋、小松川屋、扇屋。▼ ![]() ![]() ●黒川という名をやめて会津若松という名に変えたのは、蒲生氏郷(がもううじさと=1556-95)。 氏郷は、信長から聡明さを愛され、14歳のとき、信長の三女冬姫の婿になった。 冬姫は容色のすぐれた人であったらしい。 松坂の坂は、大阪の坂を秀吉から借用した。 その後、会津・黒川に転封。 会津若松と名を変えた。 ■2024.11/2-1:白河ハリスト正教会白河の関跡■ ![]() ■街道をゆく 北のまほろば (夏)■ ■街道をゆく:北のまほろば(冬)■ ■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■ ■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■ ■街道をゆく3:肥薩のみち■ ■湖西のみち/竹ノ内街道/葛城みち■ ■街道をゆく10:(羽州街道)佐渡のみち■ ![]() ![]() ![]() にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2025.02.08 01:50:57
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