テーマ:読書備忘録(1454)
カテゴリ:読書
![]() 街道をゆく(1):長州路 司馬遼太郎は、明治維新の推進力となった長州人の怜悧と猪突猛進を併せ持つ気風に興味を示し、長州人に関する3つの謎を解くことを望みつつ旅立った。 関門海峡をこよなく愛する司馬さんは、下関の「阿弥陀寺町」「壇之浦町」といった地名に「海峡漁師」や坂本龍馬ら幕末の志士たちの宴会を思い浮かべる。 さらにこの地に立つ「赤間神宮」の初代宮司・白石正一郎の悲哀を思う。 そして話は、海と長州というテーマへ。 大内・毛利時代に「海上の王」として君臨した長州の革命を推し進める原動力を海に見る。 湯田温泉の老舗の宿で湯につかり、山口市内の瑠璃光寺へ向かった司馬さんは五重塔の尋常ならざる古色に圧倒され、大内文化の深さ、優しさを思う。 山口から一路津和野を目指す途中、野坂峠から津和野城下を眺め、津和野藩が感じた長州藩への脅威を実感し、森鴎外、西周など学者を多く生み出した小藩津和野の複雑な立場を理解する。 ![]() ッポというのが付くのは、利害をとびこえてなりふりかまわず突き進んでゆく性格の集団の場合にいうのだが、ついに長州ツポとはいわれなかった。 ![]() ![]() ![]() そのかわり速力はにぶい。 それでもって日本海岸から蝦夷地まで塩を売ってゆくのである。 ![]() 薩摩ではそれを 「飛脚船」とよんでいた。 京の情勢を報ずるため、たとえ手紙一本でもそれをのせてどんどん鹿児島へはしるのである。 そういった汽船は江戸の品川沖にもつないであった。 ![]() 源平合戦、馬関戦争の舞台となった関門海峡を望む一帯。 古くから海岸沿いに海峡漁師が住みつき、幕末頃には飲み屋街として栄えた。 山口県下関市壇之浦町 ●下関は、正しくは赤間関(あかまがせき)といった。 しゃれて赤馬関とも書き、転じて儒者好みに馬関とよばれていたのが、この港町のよび名になった。 ![]() ■赤間神宮■ 幕末の商人・白石正一郎が初代宮司を務めた神社で、源平合戦で幼くして壇之浦の海に散った安徳天皇を祀る。 境内に安徳天皇陵、平家一門の墓などがある。 山口県下関市阿弥陀寺町4-1 ![]() ●「浪の下にも都のさぶらふぞ」と二位尼が幼年の帝をなだめてともどもにしずんだことから設計者は少年の霊をあざむくまちと思い、その宮を竜宮造りにしたのにちがいない。 ![]() ■瑠璃光寺五重塔■ 嘉吉2年(1442)に大内義弘を弔うために弟の盛見が建立した。 日本三名塔のひとつと称えられる国宝。 山口県山口市香山町7-1 ![]() ●大内氏がこの山口に首都をおいたのは、南北朝のころの弘世(ひろよ)(17世)のときであった。 弘世は京の公家の娘を夫人にしたというから、大内氏の公家好きは古い。 山口の都市計画を改めて京都風にし、(略)言葉まで(京に)模した。 ![]() ●(大内)義隆をクーデターでもって滅ぼした陶晴賢は、やがて同僚の毛利元就に復讐戦の名目をあたえ、討伐されてしまう。 ![]() ●(関ヶ原以前)毛利氏は広島を主城としていた。 その広島を去り、防長二州に押しこめられたとき、大内氏のむかしをおもって山口を主城にしようとした。 ところが幕府は 「萩へゆけ」とおいやってしまった。 (略)遠い日本海の漁村へやってしまったのである。 ![]() ■街道をゆく 北のまほろば (夏)■ ■街道をゆく:北のまほろば(冬)■ ■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■ ■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■ ■街道をゆく3:肥薩のみち■ ■街道をゆく:湖西のみち/竹ノ内街道/葛城みち■ ■街道をゆく10:(羽州街道)佐渡のみち■ ■街道をゆ42:三浦半島く■ ![]() ![]() ![]() にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2025.05.13 09:28:29
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