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テーマ:読書備忘録(1507)
カテゴリ:読書
![]() 司馬さんは、スタスタ坊主と山伏に思いを馳せながら、鞍馬街道を通って花背峠に向かい、峰定寺を目指す。 途中、花背に宿を取り、夕食にワラビの海苔巻やウドの花の天ぷら、栗めしなどを食べ、杣料理と名づける。 翌日、岩壁にかかる峰定寺の本堂に上り、須田さんとともに絶景を楽しむ。 その後、山国街道を通って、光厳・後花園・後土御門の3人の天皇が葬られている山国陵とその御陵に隣接する常照皇寺に立ち寄り、シダレ桜を見る。 山国神社で草刈りの女性と言葉を交わし、周山街道を南下して御経坂峠へ向かう。 ************************************************* ●平安末期の鳥羽天皇は、精いっぱいの贅沢とわがままをした。 院政時代の天皇は、隠居して上皇にならなければ権力者としての自由がない。 天皇は規定以外の人間に会えないし、外出の自由もなく、また御所の塀は防護用というより神道の結界として考えられているから、 この浄域の司祭者である天皇は御所を出て他のたとえば別荘のような場所に住むことはふつう許されない。 上皇や法皇になるとそのことは自由である。 ●鳥羽院は当時一流の芸術家であったが、そうでないにしても芸術家を発見したり保護したりするパトロンとして日本史上でも一流の存在であったことはまぎれもない。 (略) 鳥羽院は催馬楽や音律にあかるく、笛の上手で、当時におけるもっともすぐれた楽才のもちぬしであった。 古典に通じていただけでなく、一面では宮廷服を一変させるというモダニズムをも発揮した。 その後の公家装束はこの鳥羽院の創作にかかっている。 ●(鳥羽伏見の戦い)西郷隆盛らはかならずしも勝利の自信がなかった。 負ければ年少の明治帝に女装させ、女輿(おんなこし)にのせて山陰地方に脱出させようとし、その用意もしていた。 (略) その方の大将として、数え年二十歳の公卿の西園寺公望が選ばれた。 ●明治天皇は、北朝の裔(すえ)である。 ところが明治維新は南朝を正統とする水戸イデオロギーによって成立した。 (略・明治天皇は) 「いうまでもない。 南朝が、正統である」とさりげなく断を下した。 ■街道をゆく 北のまほろば (夏)■ ■街道をゆく:北のまほろば(冬)■ ■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■ ■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■ ■街道をゆく3:肥薩のみち■ ■街道をゆく:湖西のみち/竹ノ内街道/葛城みち■ ■街道をゆく10:(羽州街道)佐渡のみち■ ■街道をゆ42:三浦半島く■ にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2026.02.14 00:14:08
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