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おしゃれ手紙

全75件 (75件中 41-50件目)

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八百八橋散歩

2017.10.19
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カテゴリ:八百八橋散歩

道頓堀川

道頓堀川は東横堀川の南端から西流して木津川に合流する全長約2.7kmの河川で、西横堀川(埋立。現・阪神高速1号環状線北行き)より下流は西道頓堀川とも呼ばれる。
川幅は西道頓堀川と呼ばれる下流側は約50m、上流側は約30m。
幸田成友によると、1612年(慶長17年)に南端が堀止になっていた

東横堀川と西横堀川を結んで木津川へ注ぐ堀川の開削が開始され、摂津国の清和源氏の一流である河内国の河内源氏の流れを汲む畠山氏の一族、河内国渋川郡久宝寺(または、摂津国住吉郡平野郷)出身で

安井道頓(成安道頓)が新川奉行に任命された。
しかし、大坂の陣で道頓が戦死したため、従弟の安井九兵衛道卜(どうぼく)や安藤藤次(平野藤次)らが引き継ぎ、1615年(元和元年)に完成した。
当初は新堀・南堀川・新川などと呼ばれていたが、大坂城主の松平忠明が道頓の死を追悼し、また、相当な私財が投じられたことや功績を鑑み「道頓堀」と命名した。
「大坂濫觴書一件」では、道卜が合戦後の工事再開の認可を受けた際、
徳川氏からの人夫提供の誘いを断り、久宝寺から百姓を呼び寄せ、自らの手で工事を完成させたとあり、安井家の富豪のほど、また当時の町人の心意気を偲ばせる記述となっている。
この開堀では両岸の開発も行われ、道頓堀川八丁が誕生。

「九郎右衛門町」、「宗右衛門町」などの人名のついた各町は安井家出入りの百姓で、この時開発の衝にあったものの名に因んだものである。

道卜は振興策として、南船場の塩町通付近に形成されていた芝居町を道頓堀川の南岸に移転させた。
当初は道頓堀通の北側に川を背にして芝居小屋が立ち、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎が行われていたが、前者は1629年(寛永6年)に、後者は1652年(慶安5年)に禁止された。
1653年(承応2年)に芝居名代5株が公認され、興行権免許の印として櫓を正面に掲げた劇場が道頓堀通の南側に立つようになり、歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられた。

道頓堀五座の風景

1707年(宝永4年)10月の宝永地震および1854年(嘉永7年)12月の安政南海地震では、大阪湾に押し寄せた津波が河川を遡上し、道頓堀付近まで水没したと伝えられている。


道頓堀川の橋

(▲道頓堀川、最上流の■下大和橋■)
日本橋■- 堺筋
相合橋
太左衛門橋
戎橋■ ★心斎橋筋・戎橋筋
道頓堀橋■ - 御堂筋
新戎橋(しんえびすばし)
大黒橋

難波新川跡■と•阪神高速1号環状線


西横堀川の跡と金屋橋
(以降、通称西道頓堀川)
•深里橋 - 四つ橋筋
•浮庭橋
•住吉橋
•西道頓堀橋 - なにわ筋
•幸橋
•幸西橋 - あみだ池筋
•汐見橋 - 新なにわ筋
•日吉橋
•道頓堀川水門
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Last updated  2017.10.19 11:33:20
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2017.10.18
カテゴリ:八百八橋散歩



下大和橋(しもやまとばし):道頓堀川


 
東横堀川は上大和橋のすぐ下流で終わり、



(▲下大和橋から上流をみた道頓堀川。
左側が島之内。)
道頓堀川の最上流に架かるのが下大和橋である。
橋の名前の由来となった大和町は、
東横堀川から日本橋筋付近までの東西に長い町で、
金比羅詣の舟の発着場があり、参詣客相手の舟宿で大変賑わっていた。

また、下大和橋は正徳5年(1715)に初演された近松門左衛門の『生玉心中』の中で「大和橋出見世の場」の一場面になっていて
「こころこころの、商(あきな)ひも、みな世渡りの大和橋、下行く水の泡よりも、色にぞ銀(かね)は消えやすく」と表現されている。

明治以降も木橋であったが、昭和3年に近代橋に架け替えられた。
現在の下大和橋は昭和62年に完成し、橋面には植樹枡などが整備されている。


なお、明治36年(1903)に東横堀川の堀止付近(上大和橋・下大和橋の付近)に巡航船の乗船場ができ、最盛期には1日2万人もの利用客がある交通機関となったが、市電の拡張に伴い利用客は減り、大正3年(1914)には廃止された。




橋は昭和3(1928)年に近代橋に架け換えられた。
(昭和3年といえば、アールデコ!!)
現在の橋は、同62(1987)年に完成し、植樹枡などが整備されている。


橋長:37.2m
幅員:14.2m
形式:桁橋
完成:昭和62年
行政区:中央区
河川名:道頓堀川
アクセス:大阪市営地下鉄堺筋線・千日前線 日本橋駅
      近鉄日本橋駅 7番出口 
      およそ300m 徒歩5分



道頓堀川の橋



•下大和橋
日本橋■- 堺筋
相合橋
太左衛門橋
戎橋■ ★心斎橋筋・戎橋筋
道頓堀橋■ - 御堂筋
新戎橋(しんえびすばし)
大黒橋
•阪神高速1号環状線

(以降、通称西道頓堀川)
•深里橋 - 四つ橋筋
•浮庭橋
•住吉橋
•西道頓堀橋 - なにわ筋
•幸橋
•幸西橋 - あみだ池筋
•汐見橋 - 新なにわ筋
•日吉橋
•道頓堀川水門
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Last updated  2017.10.18 13:13:27
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2017.10.17
カテゴリ:八百八橋散歩



日本橋(にっぽんばし):道頓堀川

日本橋は紀州街道(旧国道29号線)が道頓堀川を渡るところに架けられた橋で、江戸時代には幕府が管理する公儀橋であった。



日本橋の橋筋は*長町*とよばれ、道の両側には旅籠が軒をならべていた。
橋詰には船着き場があり、水陸交通の要所として賑わった。
**長町**
町名の由来にも触れておこう。
かつて、この付近は白砂青松の美しい海浜で、゛那呉(名呉)の海゛とか゛那呉の浜゛(または゛名児海゛゛阿胡の浦゛など) と呼ばれる景勝の地であったが、しだいに陸地化して松原となった。
この゛那呉(名呉)゛が゛名護町゛に転じ、さらに゛長町゛になったものという。
また、堺 筋より髭のごとく伸びた狭長の町であったことから゛長町゛になったともいわれている。


特に人通りの多かった道頓堀への曲り角にあたる南詰の西側には幕府の高札場が設けられていた。
当時の橋の規模は資料によって異なるが、橋長約40m、幅員約7mの木橋であった。



明治10年(1877)に鉄橋になったのち明治34年(1901)に架け替えられ、さらに明治45年(1912)市電が通る鋼橋となった。
この時、堺筋の大幅な拡幅にともない橋の幅員も道路と同様の21.8mに広げられた。


現在の橋は昭和44年の地下鉄建設にともなって架け替えられたもので、橋詰めには旧橋の親柱が残されている。


橋長:28.80m
幅員:28.00m
形式:桁橋
完成:昭和44年
行政区:中央区
河川名:道頓堀川
アクセス:大阪市営地下鉄堺筋線・千日前線 
      日本橋駅 近鉄日本橋駅 
      6番出口 およそ200m 徒歩3分


道頓堀川の橋

•下大和橋



•日本橋 - 堺筋
相合橋
太左衛門橋
戎橋■ ★心斎橋筋・戎橋筋
道頓堀橋■ - 御堂筋
新戎橋(しんえびすばし)
大黒橋
•阪神高速1号環状線

(以降、通称西道頓堀川)
•深里橋 - 四つ橋筋
•浮庭橋
•住吉橋
•西道頓堀橋 - なにわ筋
•幸橋
•幸西橋 - あみだ池筋
•汐見橋 - 新なにわ筋
•日吉橋
•道頓堀川水門
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Last updated  2017.10.17 00:22:34
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2017.10.15
カテゴリ:八百八橋散歩


相合橋(あいあうばし)

この橋が最初に架けられたのは1680年代で、当初は中橋あるいは新中橋と呼ばれ、近松門左衛門の浄瑠璃『心中重井筒』の一節にも中橋として登場している。


相合橋と名が改められた時期は不明。
なお、当橋は島之内の北を流れていた長堀川の中橋と玉屋町筋で結ばれており、中橋と相い合う橋であることから相合橋になったともいわれている。



江戸時代から明治にかけて、北に宗右衛門町



南に道頓堀の芝居町を挟んで坂町(元伏見坂町)といった花街が広がっていた。
明治になると、男女の仲が切れる「縁切り橋」との風評がたち、遊女などは相合橋を渡ることを避けていたといわれ、婚礼の行列も相合橋を渡らなかったと伝わる。



現在の橋が架橋されたのは1962年(昭和37年)で、1983年(昭和58年)に



幅を両側へ大きく拡げて、橋上に憩いの広場が設けられた。



2004年(平成16年)に、相合橋付近にとんぼりリバーウォークが整備された際に、遊歩道へのアプローチ階段が設置された。



「あいよいばし」「あいおうばし」「あいおいばし」「あいあいばし」などとも呼ばれる。



土木学会関西支部による「浪速の名橋50選」に選定されている。



相合橋の北詰にひっそりと一基の石碑。
「盛り場をむかしに戻す はしひとつ」。
*食満南北(けまなんぼく)*自筆の句碑である。
*食満 南北(けま なんぼく、1880年(明治13年)7月31日 - 1957年(昭和32年)5月14日)は、明治から昭和に活躍した歌舞伎作者、作家。



裏面の「句碑建立発起人」には、発起人代表である菅楯彦のほか、中村雁治郎・片岡仁左衛門・長谷川一夫といった名だたる役者や長谷川幸延・牧村史陽といった面々が名を連ねている。
もともと昭和36年(1961)に太左衛門橋の北詰に建てられた碑は、芝居町として賑わった道頓堀ゆかりの人びとのアイデンティティを語っているようである。
石碑(いしぶみ)が語る「地域へのまなざし」

道頓堀五座の風景


道頓堀川の橋
•下大和橋
•日本橋 - 堺筋


•相合橋



太左衛門橋
戎橋■ ★心斎橋筋・戎橋筋
道頓堀橋■ - 御堂筋
新戎橋(しんえびすばし)
大黒橋
•阪神高速1号環状線

(以降、通称西道頓堀川)
•深里橋 - 四つ橋筋
•浮庭橋
•住吉橋
•西道頓堀橋 - なにわ筋
•幸橋
•幸西橋 - あみだ池筋
•汐見橋 - 新なにわ筋
•日吉橋
•道頓堀川水門
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Last updated  2017.10.15 09:14:36
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2017.10.13
カテゴリ:八百八橋散歩


太左衛門橋
橋の名は橋の東南角で歌舞伎の小屋を開いた興行師大坂太左衛門に由来するという。
寛永3年(1626)に道頓堀の南側に芝居と遊郭が公許され、大坂太左衛門ら6名が京都から進出した。



太左衛門橋がいつ架けられたかは明確ではないが、芝居小屋などへの通路として早くから架けられていたに違いない。

以降道頓堀の芝居町を中心にして周辺の町々の負担で維持されてきた。
織田作之助の作品に『女の橋』『船場の娘』『大阪の女』という三部作があるが、ストーリーの節目に太左衛門橋が、一場を構成する重要な役割を与えられている。



太左衛門橋は昭和になっても狭い木橋のままであったが、大阪大空襲の際に焼失し、地元の人々によって復旧された。

昭和33年に架け替えられた橋は、規模は江戸時代のものとほとんどかわらないが、3径間連続の合成桁という最新の技術が試された実験的な橋である。


近年は、道頓堀川の水辺整備に合わせて、本橋の西側と東側に側道橋を整備したが、整備にあたっては、有識者から成る道頓堀川遊歩道・橋梁デザイン検討委員会において、橋のデザイン検討を行った。
今回改修した橋は、その名前が、かつてこの地で歌舞伎の興行を行っていた興行師に由来することや、多くの芝居小屋があったことから、木を基調とする歴史的な意匠を取り入れた橋となった。





■太左衛門橋(たざえもんばし)■
橋長:西側24.45m 本橋41.2m 東側25.56m
幅員:西側3m 本橋4m 東側3m
形式:西側桁橋 本橋桁橋
    東側桁橋
完成:西側平成16年、本橋昭和33年(平成18年度改修)
    東側平成20年
行政区 中央区
河川名 道頓堀川
アクセス:近鉄難波駅 14番出口 近鉄日本橋駅 
      26番出口 およそ350m 徒歩6分
      大阪市営地下鉄 なんば駅



道頓堀川に架かる橋

道頓堀川を戎橋からスタートして大国橋まで行った。
この近くで、探していた■難波新川■の跡を発見!
おまけに、西横堀川の跡と■金屋橋■を発見した!!

大国橋から下は、通称、西道頓堀川というらしいので、
日を変えて、戎橋から上流に上ることにした。



太左衛門橋の南側、道頓堀側に■角座■発見!!
「角座」の名称は、「角の芝居」と呼ばれた江戸時代に遡ります。
「角座」はかつて、浪花座、中座、朝日座、弁天座と共に、
「五つ櫓」若しくは「道頓堀五座」と呼ばれ、
1960年~70年代には、上方演芸の殿堂として栄えました。


道頓堀「芝居づくし」
元禄元(1688)年の『御城代御支配所万覚』によれば、「芝居数合十軒、内八軒、道頓堀」とある。
つまり、大坂には芝居(劇場)は10軒あるが、そのうちの8軒は道頓堀にあるというのである。
この数は、当時の京都における、「四条南側の芝居三軒、同北側の芝居二軒、大和大路常盤町の芝居二軒」と比べても、いかに大坂の劇場が道頓堀に集中していたかを示している。



道頓堀川の橋

•下大和橋
•日本橋 - 堺筋
•相合橋



•太左衛門橋



(▲戎橋の模様はお好み焼きのコテ(^▽^)/)
戎橋■ ★心斎橋筋・戎橋筋
道頓堀橋■ - 御堂筋
新戎橋(しんえびすばし)
大黒橋
•阪神高速1号環状線

(以降、通称西道頓堀川)
•深里橋 - 四つ橋筋
•浮庭橋
•住吉橋
•西道頓堀橋 - なにわ筋
•幸橋
•幸西橋 - あみだ池筋
•汐見橋 - 新なにわ筋
•日吉橋
•道頓堀川水門
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Last updated  2017.10.13 00:04:10
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2017.10.12
カテゴリ:八百八橋散歩
東を東横堀川、南を道頓堀川、
西を西横堀川、
北を長堀川に囲まれていた地域で、人工の堀川開削によってできた
 
島の内側であることから島之内と呼ばれた。

東横堀川 - 1585年(天正13年)もしくは1594年(文禄3年)完成。現存。阪神高速1号環状線南行きの高架。

道頓堀川 - 1615年(元和元年)完成。現存。
 
西横堀川 - 1617年(元和3年)完成。1962年(昭和37年)埋立。阪神高速1号環状線北行きの高架。
長堀川 - 1622年(元和8年)完成(既存の小河川を拡幅したとも言われる)。
1964年(昭和39年)埋立(四ツ橋以西は1970年(昭和45年)埋立)。
それぞれの堀川を挟んで、東は上町、南は道頓堀、西は堀江、北は船場に接する。
もとは東半分が西成郡下難波村の一部、西半分が同郡三津寺村の一部だったが、1615年(元和元年)の大坂の陣後、松平忠明による復興が行われた際に大坂城下へ組み込まれて開発された。
東横堀川・西横堀川沿いには泉屋・大坂屋などの大坂銅吹屋が集中し、長堀川沿いには石屋の密集地も形成され、他にも職人町を起源とする町が多かった。
一方、道頓堀の芝居町の影響を色濃く受けた島之内の南部は、19世紀後半には24町もの茶屋御免の町があり、遊里が点在する色町を形成しており、船場の「商いどころ」に対して「粋どころ」と呼ばれた。

異名は「ミナミ」「江南」「南江」「南州」「南陽」「陽台」「崎陽(きよう)」と多数あった。
つまり「ミナミ」とは元々、島之内のことを指す名称であった。




■島之内の街並み■
船場と同じく、街区は基本的に40間四方の正方形で、街路は碁盤目状に直交している。
必ずしも東西方向の街路を通(とおり)と称さない点や、東西方向の町割より南北方向の町割が多かった点が船場との大きな違いである。
おおむね周防町筋以南は飲食店が集中する歓楽街となっている。

(▲道頓堀川の北が島之内。)
島之内には
手工業を営む者が多く住んでいたため、かつては町名がその仕事を表していました。
しかし住居表示が変更されてからは、単に東心斎橋や西心斎橋というような画一的な街の名に変わってしまったのは残念なことです。
ただ面白いのは、南区時代の旧町名が未だ通用しているところでしょうか。

それではかつて島之内にはどのような地名があったのでしょう?

畳屋町(たたみやまち)/ 鍛冶屋町(かじやまち)
錺屋町(かざりやまち)/ 笠屋町(かさやまち)
雪駄屋町(せったやまち)/ 玉屋町(たまやまち)
塗師屋町(ぬしやまち)
みをつくし料理帖■の主人公、澪は、大阪の生まれ。
四ツ橋の近所で父親の職業は塗師だという。
島之内の左上。
木挽町(こびきまち)/ 紺屋町(こうやまち)
竹屋町(たけやまち)/ 炭屋町(すみやまち)
米屋町(こめやまち)/ 灰屋町(はいやまち)
木綿町(きわたまち)/ 問屋町(といやまち)
周防町(すおうまち)/ 大宝寺町(だいほうじまち)
鰻谷西之町(うなぎだににしのまち)
鰻谷東之町(うなぎだにひがしのまち)


宗右衛門町(そえもんちょう)
この辺りを開拓した山口宗右衛門の名がつけられています。


久左衛門町(きゅうざえもんちょう)

この辺りを開拓した播磨屋久左衛門の名がつけられています。
心斎橋筋/八幡筋
三津寺筋
 三津寺という寺があります。
※島之内では船場と違い、東西の道にも「筋」を使っていました。

いかがですか?
商業の街、天下の台所としての往時の大阪が偲ばれる名前ばかりではないでしょうか。
街は突然に出来上がるものではなく、そこに住んでいた人たちの歴史やそれをとりまく
風土が継続的に重層的にからみあってできあがってきたものなのに、
このような風雅な名前をいとも簡単に消し去ってしまう行政の愚かさに呆れざるをえません。
東京や京都では未だ従来からの地名が利用されていますが、特に大阪は旧き佳きものを大切にしない風潮が根強いようです。

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Last updated  2017.10.12 14:53:44
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2017.10.11
カテゴリ:八百八橋散歩



船場は河川と人工の堀川に囲まれた(囲まれていた)四角形の地域であり、範囲は



東端 - 東横堀川 (阪神高速1号環状線南行き)



西端 - 西横堀川 (阪神高速1号環状線北行き。1962年埋立)
南端 - 長堀川 (長堀通。1964年埋立)



北端 - 土佐堀川
の東西1km、南北2km。

江戸時代の町組の名残で、本町通の北を北船場(きたせんば)、本町通の南を南船場(みなみせんば)と呼び分けることもある。




東は上町、南は島之内、西は下船場、北は中之島に接する。

語源については、牧村史陽編 『大阪ことば事典』 講談社、1979年、385-386頁に以下の説が挙げられている。
しばしば戦争があった場所で、「戦場」と呼ばれた。
大坂城の馬を洗った場所で、「洗馬」と呼ばれた。
砂浜であったため「砂場(さば)」と呼ばれ、これが転訛して「センバ」となった。
古代は船着き場であって、着船場の「着」の字を省いて「船場」
となった。




◎高麗橋(こうらいばし)通 - 2005年5月まで堺筋に面して三越大阪店があった。
伏見町(ふしみまち)通 - 芝川ビルが有名。
みをつくし料理帖■の主人公、澪の幼馴染、野江は、高麗橋の近くのいとさんという設定。



◎道修町通 - 武田薬品や塩野義製薬をはじめとする製薬会社のオフィスが集中する、日本を代表する薬品街。



神農(しんのう)さんとして知られる



少彦名(すくなひこな)神社があり、11月22日から23日の神農祭にあたっては賑わいを見せる。



境内には春琴抄の碑が、隣接してくすりの道修町資料館がある。



小西家住宅■も道修町にある。

◎平野町(ひらのまち)通 - イトーキ資料館、湯木美術館があるほか、



御堂筋に面してガスビル(大阪ガス本社)が、堺筋に面して



生駒ビルヂングがある。



生駒ビルヂングは、生駒時計店のビルとして1930年に竣工した。
大阪建築界の重鎮・宗兵蔵の事務所による設計で、スクラッチタイル張りのアール・デコスタイル



東面の時計台の下の出窓と丸窓は振り子を模したもの

◎船場の筋◎



◎三休橋筋 - 栴檀木橋(せんだんのきばし)筋とも呼ばれる。
大阪市の道路整備計画により歩道幅が確保され、大阪ガスなどから寄贈されたガス灯が並び、風情のある景観となっている。






船場ビルディングは三休橋筋拡張を機に大正14年10月(1925年)に竣工致しました。



当時、オフィスと住宅をあわせもつ大変にユニークで革新的なビルとして注目を集め、



同時に船場という所柄、 装飾性のみでなく、トラックや荷馬車などを引き込むのに便利な機能性を重んじた設計が大きな特徴となっています






北浜レトロビルヂング ■も



カフェ五感
も、船場にあるレトロ建物だ。
◎写真の多くは7月15日に行われたまち歩きの会に参加した時のもの。
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Last updated  2017.10.11 00:09:07
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2017.10.07
カテゴリ:八百八橋散歩


金屋橋(かなやばし)
道頓堀久左右衛門町から西へ渡る金屋橋は寛文年間(1661~1731)に架けられたと伝えられる。
明暦期の地図には見えないが、貞享4年(1687)のものには画かれており、橋名は西道頓堀北岸の町名に由来する。
町名に従い、別名釜屋橋とも呼ばれていた。




難波新川(なんばしんかわ)■とも難波入堀川(なんばいりほりがわ)ともよばれたかつて大阪市を流れていた運河。



その河口を探して歩いていると、■大国橋の少し下流■に痕跡を発見!



そして、その反対側、北側には、なんと西横堀川の痕跡が!!
西横堀川の最下流の橋、金屋橋も残っていた!!




(▲金屋橋から見た、道頓堀川を行くボート)
阪神高速道路の建設が進められる中で、昭和39年から46年にかけて、次々と西横堀川は埋め立てられ、長い歴史をもった橋が撤去されていった。
ただ、最下流の金屋橋だけは残され、80数年前の姿をそのまま伝えてくれている。



橋長:29.7m
幅員:7.68m
形式:桁橋
完成:昭和4年
行政区:中央区
河川名:西横堀川
アクセス:大阪市営地下鉄四つ橋線 なんば駅 
      26-C出口 およそ150m 徒歩2分

この他の橋は、痕跡が残っているのがあるからいつか歩いてみよう。



(▲金屋橋から見た西横堀川の痕跡)■西横堀川■
土佐堀川の錦橋上流側より分流し、南に向かって流れて道頓堀川に注いでいた。
長さは約2.5km。
中央区と西区の境界で、埋立後の跡地は阪神高速1号環状線(北行き)の高架と大阪市西横堀駐車場に利用されている。
現在は道頓堀川から北に分流し、


金屋橋を少し越えた部分だけが残存し、ここから土佐堀川への合流部まで埋め立てられている。



江戸期の大坂市街において、西横堀川の東岸は材木の集積地として賑わい、西横堀二十四浜と呼ばれた。
開削者は大坂北組惣年寄を務めた材木商の永瀬七郎右衛門で、当初は七郎右衛門堀川とも呼ばれた。
西国橋 - 京町橋間には七郎右衛門町の町名が1872年(明治5年)まで存在した。




架かっていた橋

上流から
•西国橋 - 土佐堀通
•船町橋
•尼ヶ崎橋
•筋違橋
•呉服橋
•京町橋
•新天満橋
•相生橋
•敷津橋
•信濃橋 - 本町通
•江達橋 - 中央大通
•篠橋 - 中央大通
•新渡辺橋
•助右衛門橋
•新町橋
•上繋橋 - 長堀通***上繋橋と下繋橋が「四ツ橋」の内の二つ。
•下繋橋
•御池橋
•清水橋
•木綿橋

現存する橋•金屋橋 - 最下流

金屋橋のすぐそばには、まるで船のような丸い窓の建物が!!
その名も■珈琲艇キャビン・画像■。



金屋橋から見た「珈琲艇キャビン」。
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Last updated  2017.10.07 13:47:25
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2017.10.03
カテゴリ:八百八橋散歩



難波新川跡■江戸時代に幕府直轄の天王寺御蔵と難波御蔵の二つがありました。
ことに難波御蔵は享保17年(1732年)飢饉に際して設けられ、幕府直轄の米蔵が置かれたところでした。



東西126m南北324mの敷地に米蔵八棟を有し、災害時の救援米貯蔵の役割を担っていました。
翌、享保18年(1733年)道頓堀の湊町付近から難波御蔵への水運をよくするため堀川を掘ったのが難波新川です。



明治11年(1878年)いたち川と連絡しましたが、昭和33年(1958 年)には埋め立てられ姿を消しました。




難波新川(なんばしんかわ)とも難波入堀川(なんばいりほりがわ)ともよばれたかつて大阪市を流れていた運河。
その河口を探して




戎橋(ひっかけばし)
道頓堀橋
新戎橋(しんえびすばし)



大国橋■と歩いた。



そして、大国橋のすぐ横に、明らかに不自然なところを発見!!
上には高速道路も走っている。
これは、もう、難波新川跡に決定!
ここから流れ込んだ水は、難波新川となって、難波御蔵、現在のなんばパークスまで流れていたのだろう。



と思って、後ろを振り返れば、阪神高速1号環状線の下が反対側も広くなって、横切るように橋が架かっている。
「???」
これは、ひょっとして、■東横堀川■と対になる「西横堀川」の跡ではないだろうか?!
ここから以降、通称「西道頓堀川」となる。

難波新川に架かっていた橋
上流から
•浪吉橋
•賑橋 - 千日前通
•新川橋
•叶橋
•浪華橋(なみはなばし。浪華橋とも表記された難波橋とは異なる) - 国道25号
•入船橋
•大倉橋


東横堀川

1585年(天正13年)に豊臣秀吉の命により大坂城の西惣構堀として開削された、大阪市で最古の堀川である。
なお、1594年(文禄3年)の開削とする説もある。
1615年(慶長20年)に大坂冬の陣で徳川方と豊臣方が和睦する際、大坂城の惣掘の一部であるので和睦の条件の通りに埋め立てられた。
しかし、大坂夏の陣で大坂城が落城するとすぐに掘り返され、ほぼ同時に堀止から西へ道頓堀川が開削され、1622年(元和8年)には末吉橋の下流側から西へ長堀川が開削された。

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Last updated  2017.10.03 11:38:39
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2017.10.02
カテゴリ:八百八橋散歩



大国橋
大黒橋が初めて架けられたのは、1615年(元和元年)に道頓堀川が開削されてから間もない時期で、江戸時代初期の記録には、橋長42.7m、幅員2.4mの木橋であったとされている。
当時の地図には「なんば橋」もしくは「下橋」と記載されており、「大黒橋」の名称が使われているものは、1703年(元禄16年)発行の『公私要覧』が最古であり、この時期前後に定着したものとみられる。
大黒橋の名称は、木津大国神社(敷津松之宮)の参道に由来する。



なお、現在当橋の上流側に架かる新戎橋と道頓堀橋はどちらも近代以降の架橋で、江戸時代を通じて当橋上流側の橋は今宮戎神社の参道に由来する戎橋だった。



木津大国神社の参道はまた、西成郡難波村と木津村の集落(現・浪速区元町・敷津西・大国)へ通じる道でもあった。
難波村も木津村も、畑場八か村と呼ばれていた都市近郊型の畑作の村に該当し、当橋付近には青物の朝市がよく立った。
大黒橋をはじめとする畑場八か村の青物市は、公設の天満青物市場との対立を繰り返しながら、やがて木津卸売市場のルーツとなる難波木津市場の開設につながっていった。

1854年(嘉永7年)の安政南海地震では津波が発生し、遡上してきた船が横転し大黒橋で川をせき止め、河口から押し流されてきたものが岸に乗り上げたため、川岸に作った多くの家屋が壊された
と記録されている。




大国町の名前の由来

地下鉄、御堂筋線の「なんば」の隣が「大国町」。
「大国町」これって、同じ!と思って調べてみた。

大国町の名前の由来は
「大国主神社」から、万葉集にも詠われた古くからの街

「大国町」という駅名や地名の由来とされるのが「敷津松之宮」の境内に摂社として建てられている「大国主神社」。
古くから「木津の大国さん」としても親しまれており、徒歩圏にある「今宮戎神社」との両社をお詣りする“えびす、だいこく両社詣って本まいり”という風習もある。
毎年1月に開催される「十日戎(とおかえびす)」には、多くの参拝客でにぎわいをみせる。


駅の周辺に地名として残る「敷津」は、万葉集に詠まれた「敷津の浦」が由来という説もある。
古来の大阪市近辺には海が大きく入り込んでおり、港や砂浜もあったとされるが、その名残が地名にも残っているようだ。
また、大国町駅から東にすぐのところにある「木津卸売市場」は江戸時代の1710年ごろから商売が始まり、1810年に「大阪木津卸売市場」として開設された古くからの市場だ。
近隣の農村で収穫された青物の取引が盛んに行われたという。
しかし、現代の大国町近辺は姿を変えている。




大国橋の隣に、???所を発見!!
道頓堀川の橋

•下大和橋
•日本橋 - 堺筋
•相合橋
•太左衛門橋

::::::::::今回は、戎橋からスタート。
戎橋■ ★心斎橋筋・戎橋筋
道頓堀橋■ - 御堂筋
•■新戎橋(しんえびすばし)



(▲道頓堀リバークルーズから見た大国橋)
•大黒橋
•阪神高速1号環状線

(以降、通称西道頓堀川)
•深里橋 - 四つ橋筋
•浮庭橋
•住吉橋
•西道頓堀橋 - なにわ筋
•幸橋
•幸西橋 - あみだ池筋
•汐見橋 - 新なにわ筋
•日吉橋
•道頓堀川水門
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Last updated  2017.10.05 22:54:04
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