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おしゃれ手紙

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父の麦わら帽子

2019.11.26
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カテゴリ:父の麦わら帽子
銀の滴(しずく)、降る降るまわりに、金の滴、降る降るまわりに・・・。
銀の滴(しずく)、降る降るまわりに、金の滴、降る降るまわりに・・・。

有名なアイヌのユーカラの出だし・・・。
アイヌは文字を持たない民族。
彼らの伝説や神話は、全て、人から人へ、口から口へと伝えられた。
2002年2月26日に90歳を目の前にして死んだ私の父も生まれつきか、産まれてすぐか、右半身が不随だったので、文字を書くのが苦手だった。
その代わり、彼は、口が達者で、面白おかしく、昔の話をしてくれた。
 ある時、父は、私たちの話してくれた。
「わしのお父(とう)がまだ、小(こ)まい頃のことじゃ。」
「わしのお父(とう)とは、父の父、私の祖父のこと。
祖父は、まだ明治のはじめ、明治9年の生まれだ。

「お父(とう)が、お父(とう)のお父(とう)に連れられて、地主の〇〇の家に行った時のことじゃ」

明治も20年になっていない頃、祖父は、父親につれられて、地主の家に行ったそうだ。

田んぼを借りている代わりに払う、年貢米を持って行ったのだ。

地主の家の板の間に通された、小さな子どもの祖父とその父親。
祖父の父親は、地主の目の前で持ってきた米を用意された袋に入れた。

「そしたらな・・・。」と父が話す。
「板の間で、地主は、その家の子どもに相撲を取らせたんじゃ。」

「相撲を取ることで、板の間の板が動く。
すると袋の米が、どんどん隙間に入って詰まっていくというわけじゃあ」
と父は笑いながら話してくれた。

この話は、祖父から父へ、父から私へと話し伝えられた。
 地主の〇〇家は、大きな門構えのある家で私の同級生がいたので、1~2度だけ私も行ったことがある。
しかし、父に聞いたこの話はしたことがなかった。

明治9年生まれの祖父の顔を私は知らないが、祖父のエピソードは沢山知っている。
おかげで、祖父の生まれた明治9年という時代が身近なものに思える。
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Last updated  2019.11.26 00:22:29
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2019.10.26
カテゴリ:父の麦わら帽子
私が小学生だったのは、昭和30年代だ。
その頃、運動会といえば、一大行事。
学校だけでない、親だけでなく、村をあげての一大行事だった。

山奥の小さな村に育ったので、小学校と中学校が同じ敷地にあった。
もちろん、運動会も小中合同。

ヨーヨー釣りや綿菓子、おもちゃなどを売る出店が出て、いつもと違う雰囲気の運動場。

小学校にあがる前の子に「おもちゃとり」というかけっこがあった。
並んで「よーいドン」で走って行っておもちゃをとってくるというもの。
それが私の運動会初参加だった。
 運動会の一番人気は、村の大人と、中学生が交じっての地区対抗リレーだった。
地区は、「上(かみ)」、「中」、「下(しも)」に分かれて大人に交じって中学生も走る。

私の家の近くに住む中学生の女の子、Mちゃんは、足が早いと有名で、中学生ながらリレーの選手だった。
 彼女は、走る時、運動靴から藁草履(わらぞうり)に履き替えて走る。
他の人も、藁草履が多かった。
裏がゴムの運動靴は滑るからだ。

この日も走ったMちゃん。
途中で、裸足に。
それを見ていた応援団は
「あっ!Mちゃんが、草履をぬいだ!
本気で走るぞ!!」と大声で声援。

Mちゃんが、どこの家の子どもで、どこに住んでいると応援する人たちは、村が違ってもみんな知っている。

昼食は、家族と筵の上で食べる巻きずしとゆで卵という、当時のうちの一番豪華なものだ。

ダンス、騎馬戦、借り物競争、応援合戦、玉入れ、玉転がし、リレーに仮装行列・・・。
見る方も、みんな知ってる人ばかりなので、応援に熱が入る。
 同じ地域に居住して利害を共にし、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている人々の集まりである地域共同体。

あの頃の運動会は、学校の行事ではなく、地域共同体の行事だった。

この共同体意識がなくなったのは、中学2年、生まれた村から兵庫県竜野市に引っ越した頃だ。
同じ村で生まれ育ち、働き死んでいく。
その途中での楽しみとして、運動会はあったのだと思う。
だからみんなあんなに夢中になったのだ。
 「人間関係の喪失や帰属意識 の希薄化は,人々において不安や苦悩をもたらし,幸福 感を低下させるものと考えられる。」

小学生の頃、幸せだったと思うのは、私が、どこの誰で、誰の子どもということをみんなが知っていたからだと思う。
今の私を知るのは、ほんの一握りの人だけ・・・。
今、私は、完全に幸福と言いきれないのは、コミュニティが希薄だからだろうか・・・。
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Last updated  2019.10.26 10:35:03
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2019.09.26
カテゴリ:父の麦わら帽子
 私の子どもの頃、今から60年以上前の話。
その頃の岡山の田舎では、どの家も、藁ぶき屋根で襖の間仕切り、(一部、板戸もあった。)。
外部と家の仕切りは、障子だった。

今頃は、その障子を張り替える時だった。
 家で破れが目立つ障子紙をバリバリとはがす。
これは、子どもが喜んでやっていた。

桟だけになった障子を川に持っていく。
古いタワシでゴシゴシとこすって、残っている糊や紙を洗い流す。

障子の桟を家に持って帰って、家で炊いた糊で障子紙を貼っていく。

ここでも子どもの出番で手伝った。

障子の張替は毎年というわけにはいかないが、近所でもやっていたので、年中行事と覚えている。

私の村では、川で障子を洗うのだが、小学校に行く途中にある家では、

家の前の溝で洗っていた。

その時は、板をはめ、溝の水位を上げた。
小学校に行きながら見ていた風景を■旅先の郡上八幡■で見たことがある。

きれいに障子を洗って、新しく真っ白な障子紙をはると、一気に家の中が明るくなったようだった。

この時期に障子を洗うのは、まだ水が冷たくないこともあるが、
10月10日の祭りの客をもてなすためだったのだろう。

道普請■をしたり、どぶろくを作ったり、障子を貼り替えたり・・・。

村は、こうして10月10日の祭を待った。
(写真はすべて郡上八幡で)
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Last updated  2019.09.26 00:56:21
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2019.08.26
カテゴリ:父の麦わら帽子
おか 私が子ども時代をおくったのは、今から60年以上前。
私が暮らした岡山県の山奥の村は、昭和30年の初めは、テレビなどなくて(あったかも知れないが、私はまったく知らなかった。)映画館もない時代だった。
うちわ  それでも、七夕や盆踊りなど夏休みは楽しいことでいっぱいだった。
楽しいことのひとつに、夏の夜、小学校の校庭での映画会があった。


平屋の校舎が3棟並ぶ小学校の校庭で映画会は開かれた。
校舎の壁を利用して白い布が掛けられ、それがスクリーンになった。

木をカタカナのコの字に組んでそれに筵(むしろ)をかけたけ、壁にした。
座席となる場所には、筵(むしろ)が敷かれていて、客は座布団を持参するのだった。

小さな入り口には、入場料を取るところを作った。
入場料のことを「木戸銭」と言った。
下駄 昼には、映画会を知らせる車が拡声器で
「今晩、7時より、小学校で映画があります。
2本立てです。
皆様、お誘いあわせの上、お越しください」と言いながら通った。

それを聞いて父と母は
「青年団が映画をふれて(告知)いる」言ったが、映画を見に行くことはなかった。
木戸銭が無いので行けなかったのだろう。

私は、子ども同士で見に行って、大人に交じってさっと入場した。
木戸銭の係りも見逃してくれることを知っていたのだ。
半月 映画は、2本立ての他にニュースがあった。

先にニュースがあり、次にドラマだ。
ドラマの内容は、「母子もの」、「お笑いもの」、「時代劇もの」が好まれたのかよく見た記憶がある。
特に時代劇は人気があったと思う。

物語が始まると、みんなが拍手を送った。

次に、弱い者が悪人にいじめられると、子どもは、激しくののしった。
そこに、正義の味方が馬で現れると、一気に会場は沸いた。

「ええモン(良い者)じゃぁ、ええモン(良い者)が来た!!!」
子どもは、各自大歓声を上げ、大人も拍手喝采した。

映画の終わりには、大人も子どもも、拍手をした。

あの頃は、すべてのものをみんなで分かち合った。

映画もまた、みんなで時間と空間を分かち合っていた。

昭和も半ばになると、少しずつテレビが入ってきて校庭の野外映画会は無くなった。
夏の野外映画会は、子どもの頃の数年間だけの貴重な思い出だ。
 先日、■映画・ニュー・シネマ・パラダイス■を見た。
そこでも夏に野外映画会があった。

2019.4月16日(火)ギリシャ・サントリーニ島■で野外映画の案内が!

■2018.4.24(火)クロアチア・ロヴィニ
約600年間ヴェネチアに支配されていた歴史をもつロヴィニ。
この路地にスクリーンを吊り下げて映画を見るのだとガイドさんは言っていた。
シネマ
2016年7月エディンバラ
駐車料金を払って車を止めて、入場料を払い中に入ると、野外映画の案内が貼ってあった。
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Last updated  2019.08.26 00:19:23
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2019.07.26
カテゴリ:父の麦わら帽子
 私は、今から60年以上前、岡山の田舎で子供時代を送った。
その頃の七夕は、ひと月遅れの八月七日だった。
この日は、朝からいそがしかった。
 ラジオ体操から帰ると、お盆と茶碗を持って、家を出て、近くの田んぼに行く。
田んぼの稲に残っている朝露をお盆にすくい、茶碗に入れる。
緑の葉  田んぼの隅に植えてある里芋の葉に残っている玉のような丸い露も茶碗に受ける。

茶碗にたまった朝露を家に持って帰って、その露で墨をすり、その墨で短冊に願い事を書く。
竹 その間に、父は家の横にある竹藪に入り、小さめの竹を2本切ってくる。

2本の竹は、裏の縁側に立てられ、縁に■小さな机■を置いた。
なす  ナスビにマッチを4本さして、牛のあしとした。
キューリ  キュウリにマッチを4本さして、馬のあしし、トウモロコシのヒゲをつけて尻尾にした。
 その、牛と馬を机に置いた。

一方、2本の竹には、色紙を切って、墨で願い事を書く。
短冊の一方の端に、河原で採ってきた雑草をつけて笹につけた。

この日のおやつは、焙烙(ほうろく)で焼いた■「流し焼き」■。

鍋の中に、水でといた小麦粉に砂糖を加えたのをいれ、タネをつくる。
しゃもじにすくって、焙烙に流すとすぐ、焼きあがる。
小麦粉を流して焼くから流し焼きというのだろうか。

夜、天の川を見上げて、過ごした。
次の日の暗くなると、手火(てび)という行事があった。
長い竿に麦わらで作った三角錐の「もじ」をつけ、その中に花火を沢山入れておく。
その下では、火のついた松の薪を持って、合図と共に、手火に投げ入れる。
高い竿なので中々届かず、何度も手火が空に舞い、その都度、悲鳴が上がった。

手火(てび)が、「もじ」に届くと花火が上がった。
見ている大人からも子どもからも大きな歓声があがった。

あっという間に花火は終わった。
来年まで、七夕も手火(てび)もない。
けれど、まだまだ夏休みの楽しみはあると思った。
七夕と手火は、夏休みの前半を彩る楽しい行事だった。
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Last updated  2019.07.26 00:02:01
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2019.06.26
カテゴリ:父の麦わら帽子
 私は、今から60年以上前、岡山の田舎で子供時代を過ごした。
当時、ほとんどの家は、農業をして、ほとんど自給自足、買い物は、めったにしなかった。
とはいえ、時々、買い物に行った。
その時持っていく、買い物かごを、「やみかご」とよんでいた。

イグサを使った、小さな「やみかご」。
これで十分だった。
野菜などは自分の家で作っていたから・・・。

例えば、ちくわを一本買いに行くと、紙袋にちくわを入れて、それを「やみかご」に入れた。
買うものは、それだけだった。
それさえも、いつも買えるわけではなかったから・・・。
小さな紙袋が残るが、それは風呂の焚き付けとなった。
籠 大阪で生活するようになってからは、小さな買い物籠を持って近くの市場に行った。

スーパーが出来て、いつの間にか、買い物かごを持って買い物に行かなくなった。

レジ袋が当たり前になって、何の疑いもなく使っていた時代があったが、ここ何年かは、エコバッグを持って買い物に行く。


そのエコバッグの大きさは、やみかごの何倍も大きい。

自分の家で作ることをしないから、ネギ一本からスーパーで買わなければならないからだ。

小さな「やみかご」一つで生活出来る夢のような暮らしを私はしていたと今は思う。
元々いかごは、「やみかご」と呼ばれており、戦後の闇市での買い物かごに使用していた為と言われています。
やみかごは、どの地域にもあり、その地域で採れる素材を使用し作られていました。
倉敷ではいぐさ製品の製造の際に、捨ててしまういぐさの部分を撚って縄にし、内職としてやみかごを織っていました。


レジ袋の有料化■が決まった。
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Last updated  2019.07.06 00:03:41
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2019.05.26
カテゴリ:父の麦わら帽子
竹 岡山県の田舎に住んでいた60年以上前の話。
うちの家の敷地の西側に、細長い竹藪があった。

篭や笊、火吹き竹、竹帚、洗濯竿などの生活道具として、

建材として、昔の生活は、なにかと竹を使っていた。
タケノコ2 竹の種類は、マダケだったかハチクだったかは、覚えていないが、タケノコの旬は今頃だった。
今頃は、毎日のように竹藪に入って、タケノコを採ってくるのが私の役目だった。

西側にある竹藪は、夏になると、強い西日を遮る格好の日よけになった。
夏、洗濯の物干し竿や、稲を干す竿を切り出し、七夕になると二本の竹を切り出し笹に願い事を書いた。
竹藪にいる翅の黒いトンボを私は飽きずに眺めていた。

竹を利用することで、竹藪の面積は維持されていた。
タケノコ   タケノコをありがたがらず、日常に竹を使わない今、竹藪が拡大し「竹害」という言葉が生まれている。

竹と共に暮らしていた藪のある暮らしが懐かしく思い出される。
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Last updated  2019.05.26 00:06:32
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2019.04.26
カテゴリ:父の麦わら帽子

(▲2007年中国で見た牛。)

私はベジタリアン。

私が、ベジタリアンになったのは、わが家に飼っていた牛が原因。

私が小学校に入る前の話。
昔から私は、食い意地のはった子どもだったみたいで、それは今も変わりません。
当然、お肉も大好きだったそうです





そしてその好物のお肉を食べながら父に聞きました。
「お肉は、なにで出来てるん?」

その頃は、どこの家でも、たいていの物は自分の家で作るのが普通でした。
味噌や漬物は言うに及ばず、うどんやそばをうったり、干瓢(かんぴょう)を作ったり・・・。
それも、小麦やそば、干瓢など、種蒔きから始めるのです。

家で作らないものも父が材料と作り方を教えてくれました。
豆腐は、油揚げは、チクワは・・・。
幼い私が理解しようがしまいが教えてくれたのです。


それで私は聞いたのです

「お肉は何で出来てるん?」と。

「ボウじゃ」と父は答えました。
ボウとは牛の幼児語。
「ボウ?」私は、ビックリしました。
今の今まで自分がボウを食べているなんて思っていなかったからです。
その日以来、私は肉を食べなくなりました。

隣村に、猟が趣味の人がいて、よくイノシシを撃っては家の前で、解体していました。
小学生になった私は、その家の前を目をつぶって、走りぬけていました。

川でドジョウやカワニナをとって、グラグラ煮える鍋に入れる。
それをおいしい、おいしいと言って食べる人間がいやでした。

「人間て野蛮。
平気で動物を殺して食べるもん」と私。

すると父が言いました。

「動物はみな、何かを食べにゃ、生きられん。
草を食う虫も、鳥に食われるし、その鳥をもっと大きな動物が食う。

人間も同じじゃ。
それに生命という点では野菜も同じように生きとる。

野菜も人間に食べられるようにと思うて、大きくなっとんじゃない。

みな、自分の子孫を残そうと思って生きとるんじゃ。」


以来、少し心が軽くなったものの、やっぱり肉は食べられず、先日、乗った飛行機の機内食は、ベジタリアンコースだった。
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Last updated  2019.04.26 21:42:09
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2019.03.26
カテゴリ:父の麦わら帽子

▲(■昭和レトロの鶴の皿■)
岡山の田舎から、兵庫県の西の方にあり揖保川(いぼがわ)が流れる、
古い城下町龍野市に家族で引っ越したのは、私が中学2年の夏。
今から50年以上前のことだ。
岡山の田舎にいる時は、食器など数多くなくて、大事に大事に使っていた。
食器を買おうにも、家には買うお金が無かったし、村には食器を売る店もなかった。

龍野に引っ越してしばらくして、母が食器を買ってきた。
龍野橋のひとつ上流に架かる、旭橋、その近くに、水神様の社があった。
母が食器を買ったのは、その水神様の境内。
そこで、「茶碗ざやし」という陶器市が開かれていたのだ。

陶器市といっても、小さな焼き傷が入ったりした二級品ばかりの市だ。
少しお金がたまると、母はそうして食器を増やしていった。

「茶碗ざやし」で家族の食器を揃えるのが
母の楽しみであり、ストレス解消だったのかもしれないと今は思う。

先日、■大阪・天満の天神様■で食器を売っているのに出会った。

久しぶりに、水神様の「茶碗ざやし」という言葉を思い出し、「ざやし」を調べたが分からなかった。

「やし」■は、
*野師、露店人等にて商ふ人。
*縁日又は夜店に出ていかものを売つて居る者のことをいふ。
そうだ。

国民食器か?緑の二重線の皿
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Last updated  2019.03.26 00:55:01
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2019.02.26
カテゴリ:父の麦わら帽子
 私の子ども時代、今から60年以上前は、よく火を焚いた。
食事を作るにも、風呂を沸かすにも火を焚かなくてはならない。
山に薪を取りに行っても、そこに簡単な石の炉を作り、飯盒でご飯を炊くために火を焚いた。
 冬になると、毎日のように焚火にあたった。
当時の冬服■は、貧しいもので、とても寒かった。

毎朝、学校に途中で、焚火をしている家を見つけると、火に当たった。
大人も子どもも
「寒い、寒い」と言いながら手を火にかざした。
突然、バンッ!!と大きな音がして、私はビックリして飛び上がった。
竹
それは、の破裂する音だった。
竹が温まると、節の中の空気が膨張して、破裂すると父が言った。
それは分かっていても毎回驚いた。

時々、藁を焚いたら、白いポップコーンのようなものを見つけることがあった。
藁に残っていたモミが火によってはじけたものだ。
もちろん、当時、ポップコーンというものを見たこともなければ言葉さえ知らなかったのだが・・・。

焚火の中にポップコーンのようなものを見つけると、
木の枝を使って、さっと拾って食べた。
 寒くてたまらない日は、一斗缶に薪を入れ、家の中で火を焚くこともあった

そんな時父は、火掻き棒で火を調節しながら、昔話や、笑い話をした。
休みの日に、たまに、餅を焼いたり、サツマイモを焼いたりしたのをもらうことがあったが、それは本当に稀なことだった。

最近は、火を焚くことが出来ないので、冬になっても焚火を見ない。

足止めてあたらせて貰ふ焚火かな
能村登四郎

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Last updated  2019.02.26 00:15:56
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