4298611 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

おしゃれ手紙

全61件 (61件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 7 >

お出かけ

2020.09.24
XML
カテゴリ:お出かけ

9月22日(秋分の日)に、彼岸花の咲く、■奈良県営馬見丘陵公園■に行ってきた。

奈良県営馬見丘陵公園は、

日本でも有数の古墳群と豊かな自然を保全・活用するためにつくられたとても広い公園です。
園内のあちこちに見どころがあり、散策を楽しみながら1日ゆったり過ごすことができます。

春はチューリップ、初夏は花菖蒲など四季折々の花々が楽しめます。

ダリア園もあり、秋になると約120品種1,000株のダリアが一斉に咲き誇ります。
奈良県はダリアの球根生産量が日本一だそうです!


広い敷地内を、電気カートが2台、ゆっくりと走っている。
「チューリップ号」と「ダリア号」。
上の写真は、私たちの乗ったチューリップ号がダリア号にすれ違う様子。

いろんな花が植えてあるが、圧巻は、コキア(ほうき草)のあるエリア。

コキアは
主にヨーロッパを始めとする北半球で栽培されており、
日本には約1000年以上前に中国から伝わったといわれています。
 枯れたコキアの枝を刈り取って、ホウキに利用していたことから「ほうき草」という別名もあります。

かわいらしいモコモコとしたコキアの草姿は、沢山の細い茎葉から形成されています。
花も咲きますが、1〜2mmくらいの小さな花なので目立たず、茎葉の紅葉の方が有名です。

(☝紅葉前の青いコキア。)
砂質のやせた土壌でも育つ丈夫な植物で、日本のどの地方でも育てることができます。
公園などで見かけるコキアは、観賞用の品種がほとんどですが、これとは別に実を食用にする品種もあります。


植物の名前で「シモツケ」というのがあった。
下野(しもつけ)の国、現在の栃木県で最初に見つかった植物だそうだ。☟

公園に植える植物っていったい、誰がどういう基準で決めるのだろうといつも思っている。

ずーっと以前、■みどり学講座■という緑についての学習会に参加した。
その時の講師が大阪府立公園を設計した人で、公園の植物の基本方針は、その土地に合ったもの=植生を一番に考えたという。
公園のプランを考える。
この人のように、きちんとした緑に対する思いがある人が設計者になってほしい。

彼岸花や紅葉したコキア(ほうき草)を見ていると、秋だな・・・と思う。

*花壇より子の駆け降りる豊(とよ)の秋  はるな
靴奈良県営・馬見(うまみ)丘陵公園
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   






Last updated  2020.09.24 14:37:31
コメント(0) | コメントを書く


2020.04.09
カテゴリ:お出かけ

4月3日、自転車で桜の花を見に行った。

ついでに、■大津神社■で花見。

いつもの年なら、多くの人で賑わう神社も、私以外に人はチラホラ。
人が少ないので、ゆっくりと見て回った。
いつもは見逃すところも見ることができた。

大津神社は、十世紀はじめ、醍醐天皇の御代に編纂された延喜式神名帳の河内国丹比郡に「大津神社三座鍬・靱」と明記されている由緒の古い神社で、「丹下の郷の大宮」と称えられていた。


古い時代は、どこまで遡れるのかと見て回った。
▲神社の周りはぐるりと石の柱が立っている。
▼「氏子中」の文字。「中」とは、志を同じくするものという意味。




▲手水舎(てみずしゃ)があったので、さっそく、手を清めた。▼


▲水の神様の龍から水。

境内の中にも石の鳥居がいくつかあった。
この鳥居は古そうだ。
よく見ると一本の石ではなく、継ぎ合わせている!
どうしてだろう、継ぐのって難しいと思うけど・・・。

▲井戸と「奉納」の文字がある手水鉢。
▼災害時には、ここが使えるようになっている。



▲この灯篭は、元文年間。「元文」1736年~1741年▼



▲石灯籠には、▼「明和三年」の文字。
明和は、 1764年から1772年。


寄進したのは、「泉州・堺 鰯屋利右衛門」。
どんな人だったのだろう。
この近くの出身者だとか・・・妄想が膨らむ・・・。

▲「天保九年」。天保とは、1831年から1845年。

ちなみに、明治は、西暦1868年10月23日(明治元年9月8日)から
1912年(明治45年)7月30日まで。

▲この神社の由緒が書いてある。
▼寛永と書いてある。寛永は、1624年から1645年
江戸幕府の将軍は、3代・徳川家光の時代。

その裏には、


昭和と平成の文字が・・・。
寛永のものを修理したののようだ。


▲お百度石が2か所に。▼

病気になった時、昔の人は、この、お百度石に快癒の願いを込めたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   






Last updated  2020.04.09 00:08:32
コメント(0) | コメントを書く
2020.03.21
カテゴリ:お出かけ
”Osaka Metroまちさんぽ" Metroに乗ってまちを歩こう!■(要予約)
[大阪あそ歩]と[Osaka Metro]がタイアップしました―――—
〝Osaka Metro まちさんぽ" この春はまず10駅から。
3月29日(日)〈東梅田〉 東梅田の繁華街の社寺巡り
東梅田の東の繁華街には古代から伝わる興味深い名前がついています。
曽根崎、兎我野町、神山町、小松原町、堂山町。
人ごみを抜けるとそこには由緒ある社寺が。
●4月5日(日)〈西中島南方〉 桜満開の大阪水源地と摩天楼の遠望 

●4月18日(土)〈玉川〉 野田藤の雅びと田辺聖子の少女時代

●4月26日(日)〈松屋町〉 オランダ人も訪れた住友銅吹所と松屋町のあれこれ

●5月1日(金)〈平野〉 環濠自治都市・平野郷めぐり

●5月7日(木)〈玉造〉 真田幸村の真田丸を歩く

●5月30日(土)〈新深江〉 新天皇の大嘗祭にも使われた菅笠

●6月14日(日)〈あびこ〉 古代豪族・依羅吾彦(よさみのあびこ)の里めぐり

●6月21日(日)〈桜川〉 西道頓堀川の橋と周辺の歴史を訪ねて

●6月27日(土)〈千林大宮〉 裏道に土蔵が残る主婦の商店街

★Osaka Metroタイアップ記念のみ参加費は1000円です。

★コースの詳細は「まち歩き予約」でお確かめください。
★マップチラシはMetroの駅に順次、配架されます。

各コース定員で締め切りますので、早めにご予約ください。
キャンセルの場合はお手数ですがご連絡下さい。

歩きやすい服装と靴でご参加下さい。
車などに十分注意し、各自で責任をもって行動してください。

キャンセルについて
スケジュールは天候や都合により変更・中止する場合があります。

詳しくは、■受付中コース■で確認。
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・






Last updated  2020.03.21 09:45:46
コメント(2) | コメントを書く
2019.05.29
カテゴリ:お出かけ

5月18日(土)、古い町並みの残る奈良県・五條市に行き、ガイドさんの案内でまち並みを見てきた。
奈良県五條市は大阪府との県境の金剛山の南麓の小さな盆地の町。

(▲吉野川) ■五條・地名

五條市は盆地で北の金剛山の南斜面から多くの谷の水が五條市を東西に横断する吉野川に流れ込んでいます。
その吉野川の支流が上流から宇智川、内の川

 西川、

東浄川、


寿命川と5本あり、これがわずか1.5kmほどの間に並んでいます。
金剛山から5本の小川が流れ込んでいる、ということから五條の地名がつけられたのではないかと思われます。

なお、市内にたくさんある御霊(ごりょう)神社がなまって五條になったという説もあります。

五條市全体の古代からの地名は宇智で、50年前の町村合併の前は宇智郡であったのが、その時の中心の五條町の名前が今の五條市の名前になったのです。

宇智に似たような「宇」のつく地名に、宇冶、宇陀、宇佐、宇部、宇品などがありますが、これらはすべて谷間から川が流れ出す盆地や三角洲の地名のようです。

吉野川の近くにあり、そこへ流れ込む水路のような小さな川が何本もあることも

五條新町の景観を面白いものにしています。

この時は、川にはほとんど水が流れていませんでしたが、

川ギリギリまで建物が立ち、

足場を作って川面にせり出すように

家を広げていたりするのが楽しいですね。


今は、吉野川は、この向こう(階段の所が堤防)に流れているが、昔は、手前まで水が来ていた。

かつては石垣のところまで水が来ていた。

吉野川には三十石船や奥吉野から木材を運ぶ筏(いかだ)流しも見られ、水陸交通の要地でもありました。

▲道路のすぐそばに船着き場があった。▼



西川にかかる
6
鐵屋橋のすぐそばにあるのが、

「餅商 一橋」。
大正時代から続く、いかにも古そうな、このお店、最近閉店されました。

「新町橋」と「しんまちばし」。

東にあたる方に漢字を
西にはひらがなであらわしたそうだ。
そうすることで、夜暗い時でも、方角が分かるからだそうだ。

五條は古来さまざまな土地への交通の要でした。
奈良、和歌山、河内長野、十津川、あらゆる場所へ続く旧街道が、現在の五條の本陣交差点で交差しました。

交差点にはかつての繁栄を偲ばせる立派な道標が残されています。
交通の要衝地だったゆえに、数々の歴史の舞台ともなりました。

なかでも幕末には、天誅組が尊王攘夷を掲げ、徳川幕府に対して武装蜂起した場所としても知られています。

五條から南へ鉄路を伸ばす五新線の計画も、多くの人々の期待を集めたものでした。


しかし昭和57年、開通することなく工事は全面中止に。



新町通りを横切る高架跡は、鉄路に夢を馳せた人々の思いを静かに今に伝えています。

  幻の「五新鉄道」風光る  はるな

(▲右部分、広い格子)
商いをしていた町家には、通りに面して設けられた格子の形にも特徴がある。
多くの町家に、間隔が広い格子、狭い格子、その中間にあたる幅の格子と、3種類の格子が存在している。
幅が広い格子は店先部分にあたり、その奥に並べられた商品が見えやすい構造に。

(▲左、狭い格子右側、中間の格子)
また間隔が狭い格子の向こう側は住居部分にあたり、生活の様子が通りから見えにくいようになっている。
そして、店先部分の格子と住居部分の格子との、ちょうど中間ほどの幅の格子は、勘定をする帳場に用いられた格子である。

(▲五條代官所跡)
1870年(明治3年)、宇智郡五條村(現五條市)に置かれていた五條代官所に五條県が設置された。
その後、紀伊国内の高野山領、大和国吉野郡十津川郷を管轄した。
しかし、翌年の第1次府県統合により廃止された。

五條という町を今回初めて知ったが、昔は大いに繁栄していたようだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・
   






Last updated  2019.05.30 00:59:19
コメント(0) | コメントを書く
2019.03.30
カテゴリ:お出かけ

澤田八幡神社

国府八幡神社由緒書によると、国府八幡神社を除く近隣の八幡神社(古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社)と同じく、江戸時代初期に誉田八幡宮から勧請されたものとされている。
拝殿の棟札には、1655年(明暦元年)11月に旧地の一町西へ遷宮したと伝えられ、次いで1777年(安永6年)の棟札からこれらの時期に建直しが行われている。
沢田の氏神として機能し、かつては「先度社」という宮座も存在した。

境内には近鉄南大阪線が横切っており、踏切が設けられている。

これは1922年大阪鉄道が布忍駅 - 道明寺駅間を開通した際、町内の中を通ることを避け、仲姫皇后陵の堤に沿って走らせることにした結果、

陵の堤に続く斜面にあった神社を横切ることになったものと考えられる。
当時の住民は線路敷設に肯定的であり、公有地の一部が無償提供されている。


澤田八幡神社と線路は高低差がある。

澤田八幡神社までが、羽曳野(はびきの)丘陵で、澤田神社は、その「台地のへり」にあるというわけだ。
(「台地のへり」って、よく「ブラタモリ」で言っている。)
靴澤田八幡神社
所在地大阪府藤井寺市沢田4-2-3
交通アクセス最寄駅:近鉄南大阪線土師ノ里駅下車後、徒歩約6分(西へ約400m)

■2019.3.2■
道明寺天満宮
赤面山古墳
大鳥塚古墳・別名質屋山古墳
道明寺盾塚古墳公園
津堂城山古墳
などをボランティアの方の説明を聞きながら歩いてきた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・
   
   






Last updated  2019.03.30 00:02:38
コメント(0) | コメントを書く
2019.03.22
カテゴリ:お出かけ

津堂城山古墳

この津堂城山古墳は、実は明治が終わる頃までは、前方後円墳であること自体が地元の人々にもよく認識されていなかったようです。
名前のとおり、戦国時代に三好氏の砦として城が築かれたことで墳丘の形が大きく崩れてしまい、見た目にはただの小山にしか見えない姿になってしまいました。

しかも、周濠部分の多くは農地として利用されていて、残った部分もよくある小さな池にしか見えない様子でした。

全体が大きいために、横から見ただけでは古墳だとは気づきにくい姿です。
いつしか、ここが古墳であったことさえ忘れ去られていったようです。
明治時代の中頃に作成された地籍図を見ると、古墳域内の土地には城跡であったことを示す小字(こあざ)名が載っています。
「本丸・二の丸・三の丸・四の丸」です。
つまり、この場所は、古墳としてではなく、「城跡」のままそのイメージが長年伝承されてきたことがわかります。

1912年(明治45年)、地元津堂村の人々が、この古墳の後円部頂から石材を掘り出したときに、その下から巨大な石棺が現れて、人々を驚かせました。
この長持形石棺は、それまで知られていた石棺の中でも最大で、しかも非常に精巧な造りのものでした。

今までの調査・研究から、津堂城山古墳は、二重の濠と堤をそなえた巨大な前方後円墳であり、出土物などから4世紀の末頃に造られたことが分かってきました。
津堂城山古墳以後の大王の古墳とされる巨大前方後円墳の多くに、二重の濠と堤が造られていることや、その他の資料などから考えると、津堂城山古墳は、河内平野に初めて造られた大王級の古墳であると考えられるのです。

かつて農地だった内濠部分は保存のために整備が進められ、ちょっとした古墳公園となっています。

また、内濠跡部分には、菖蒲園(しょうぶえん)や草花園(そうかえん)が造られ、四季折々の花が古墳を彩ってくれています。


■2019.3.2
道明寺天満宮
赤面山古墳
大鳥塚古墳・別名質屋山古墳
道明寺盾塚古墳公園

・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・







Last updated  2019.03.22 20:57:13
コメント(0) | コメントを書く
2019.03.21
カテゴリ:お出かけ

道明寺盾塚(たてづか)古墳公園

写真は、府営・藤井寺道明寺住宅の中央部にある公園です。
公営住宅地内の公園としては、全体の面積の割には、広い公園だと言えるでしょう。

この公園中心部で緑におおわれた広場が、少し盛り上がっているのがわかりますか?

ゆるやかな階段もありますね。
公園内の広場にしては、ちょっと変わっていると思いませんか。

この公園は、「道明寺盾塚(たてづか)古墳公園といいます。
ではこの広場は古墳なのでしょうか。
残念ながら、実は盾塚古墳そのものは、かなり以前に姿を消してしまっているのです。

昭和30年代に入って、大阪府内の人口増加に対応するために、各地に公営住宅が造られていきました。
藤井寺市内にもいくつかの府営住宅や公団住宅が建設されていきました。
この場所にも、「道明寺南住宅」として、平屋の戸建て住宅が並ぶ府営住宅が造られました。
この建設に伴って、盾塚古墳は姿を消してしまったのです。
古墳の跡地にも住宅が建ち並びました。
盾塚古墳は、総長110m、後円部の直径46mという前方後円墳です。
古市古墳群の中では、最も古い時期、4世紀末~5世紀初めに造られた古墳です。

後円部に比べて前方部が小さいことから、「帆立貝形前方後円墳」とされています。
今となっては、発掘調査記録としてしか存在しない古墳です。

靴盾塚古墳
大阪府藤井寺市道明寺6丁目

築造年代:5世紀初頭
墳形:帆立貝形、楕円形周濠
規模:全長110m、墳長64、73、88m 
*正確な数字を確認できません。
 方幅20m、方高1.8m、円径46m、円高7.5m、

内部構造:後円部粘土槨、長大な割竹形木棺
副葬品:盾10枚、銅鏡、玉類、短甲、衝角付冑、鉄製刀剣、鉄製鏃、
    筒形銅器、碧玉製釧、竹櫛、前方部から鉄製刀、
剣、矛61本
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・






Last updated  2019.03.21 23:59:32
コメント(0) | コメントを書く
2019.03.16
カテゴリ:お出かけ

大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は墳長110m、高さ12.3mの前方後円墳で、5世紀前半に築造されたと考えられています。
1956年に国の史跡に指定。

大鳥塚古墳が築造された頃から「陪塚」が築造され始めています。
陪塚とは埋葬者と関係が深かった人や物が、メインの古墳の周辺に埋葬される小さな古墳を意味します。


(▲赤面山古墳)
大鳥塚古墳のすぐ北側に■赤面山古墳■と言う1辺15mの方墳が存在します。
赤面山古墳は大鳥塚古墳の陪塚と考えられており、大鳥塚古墳と赤面山古墳の埋葬者はお互い密接な関係があったようです


この古墳の別名は、質屋山古墳という。
今でこそ、古墳はありがたがられているが、明治までは、里山的な扱いだった。
中には■古墳の中に村まであったものある。

大鳥山古墳も個人の持ち物で、お金に困った持ち主が質に入れた。
そして、質流れとなったという今から思えば嘘みたいな本当の話だ。


■大鳥塚古墳データ■
古   墳:大鳥塚古墳
墳   形:前方後円墳
築造の時期:5世紀前半
所 在 地:大阪府藤井寺市古室2丁目4−58
全   長:110m
高   さ:12.3m
埋   葬:不明
大鳥塚古墳のすぐ北側に赤面山古墳は、大鳥塚古墳の陪塚。
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・
   
   






Last updated  2019.03.17 01:00:23
コメント(0) | コメントを書く
2019.03.13
カテゴリ:お出かけ

藤井寺市の古墳や神社を市民ボランティアの案内で廻って来た。
道明寺天満宮

数多くの古墳を見て回ったが、特に印象に残ったのが「赤面山(せきめんやま)古墳」。

藤井寺市:赤面山古墳は残った。

大阪府松原市と奈良県天理市を結び、名古屋市へとつながっていく
西名阪自動車道の脇下を通る北行きの側道です。
西名阪自動車道の高架下に小さな土の高まりがあります。
なんと、高速道路の下にまたがって古墳があります。
この古墳の名は赤面山(せきめんやま)古墳
といいます。

一見したところでは単なる土の山のようにも見え、うっかりすると見過ごしてしまいそうです。

この建設工事は、昭和40年前後の時期でした。
古代史ブームよりも6,7年前のことです。
当時としては、この古墳の保存にかけたエネルギーのすごさを感じます。
側道を曲げるために買収用地を増やしただけでなく、もう一つ設計上の尽力の跡を見ることができます。
 
写真は、高速道路の高架の下側と橋脚の様子です。

右が本来の設計通りの造りです。
左は、古墳の位置に橋脚がぶつかるため、橋脚の間隔を長くして、古墳を完全にまたぐように造られています。
長くなった分、強度を高めるために、コンクリートの橋桁の下部にアールを付けて、この部分だけ特別な造りになっています


一部に特別な設計をするということは、当然、余分に手間と費用がかかるということです。
このように手厚く保存の措置がとられた赤面山古墳ですが、本来どのような古墳だったのか、実は、よくわかっていなかったのです。

赤面山古墳は、古市古墳群の現存古墳の中では最も小規模なものの一つですが、そうであるが故に、古墳の保護・保存を考える上で象徴的な存在となっている古墳でもあります。
高速道路という、都市化や現代インフラを象徴する建造物と、見事に共存できた貴重な例として、もっと注目されてよい古墳だと思います。

靴 【赤面山古墳】
近鉄南大阪線・土師ノ里駅から南西へ約1.1km 徒歩約17分
古市古墳群
東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、誉田御廟山古墳(伝応神陵)など墳丘長200メートル以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基)の古墳で構成される古墳群である。
古墳造営には豪族の土師氏などが関与していたと考えられている。

・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・
   
   






Last updated  2019.03.13 00:01:09
コメント(0) | コメントを書く
2019.03.08
カテゴリ:お出かけ

道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)は、大阪府藤井寺市道明寺にある神社。
そこに、3月2日(土)友人と散策してきた。
道明寺天満宮

もともとは天満宮ではなく、土師神社であった。

隣りの駅が土師ノ里であることからもわかる通り、このあたりは古墳時代に大活躍した「土師氏」の所領であり、土師氏の祖「野見宿禰」が、かつて遠祖であるところの「天穂日命」を祀った氏神「土師神社」(はじ じんじゃ)を創建した。
これが道明寺天満宮のそもそもの始まり。

●「野見宿禰」は相撲の祖とされつつ、垂仁天皇の御代に埴輪を発明して、天皇崩御に際する「殉死」という悪しき慣習をストップさせた人物
道真公死後の947年、道真公が残した木像を安置し、遺品をご神体として祀ったことから、土師寺は道明寺へと寺名を改めた。

道明は道真公の号「道明」に因む。

●道明寺天満宮の門の横には土師氏の窯の跡がある。

この丘の角度が登り窯にピッタリのようだ。

道明寺天満宮は丘の上にあります。

ここから西に高台が続き、その斜面から登り窯跡が発見されています。

▲▼近鉄、道明寺駅から道明寺天満宮への道は、細く、参詣のための道だったのだろう。


道明寺天満宮の石段を登って

広い境内へ。
埴輪を作って殉死の風習を変えた功績で、垂仁天皇32年に野見宿禰は土師臣(はじのおみ)の姓とこの地を与えられた。
そして、その子孫である土師氏は野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社を建立した。

仏教伝来後に土師氏の氏寺である土師寺が土師神社の南側に建立され、やがて神宮寺となった。
この土師氏からはやがて菅原氏や大江氏が分流していく。

平安時代、土師寺には菅原道真のおばに当たる覚寿尼が住んでおり、道真も時々この寺を訪れている。
この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。
901年(延喜元年)、道真は大宰府に左遷される途中に当社に立ち寄って、覚寿尼との別れを惜しみ、和歌を詠んだ。
鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の なからん里の暁もかな
       菅原道真

■意味■鶏が鳴いてつらい別れがきた。
夜明けに、(夜明けを告げる)鶏の声が聞こえない里であればよいのに・・・。

以後、道明寺では、鶏を飼わなくなったとか・・・。

1633年(寛永10年)には石川が氾濫したため、道明寺が天満宮境内に移転し、両者はやがて一体化していく。
1952年(昭和27年)に土師神社は道明寺天満宮と改称する。
現在も学問の神として地元の人々に親しまれている。

また境内には80種800本の梅の木があり、梅の名所として知られているとともに大阪みどりの百選に選定されている。


▲道明寺天満宮への道には、梅のデザインのマンホールが。
真ん中の丸の中は、古墳と耳飾り。

▲▼境内には、しゅらのレプリカが置いてあった。


大阪天満宮
靴道明寺天満宮への道
〒583-0012
大阪府藤井寺市道明寺1-16-40

•電車 近鉄南大阪線・道明寺駅から徒歩3分
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・
   






Last updated  2019.03.08 00:04:23
コメント(0) | コメントを書く
このブログでよく読まれている記事

全61件 (61件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 7 >

PR


Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.