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お出かけ

2019.05.29
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カテゴリ:お出かけ

5月18日(土)、古い町並みの残る奈良県・五條市に行き、ガイドさんの案内でまち並みを見てきた。
奈良県五條市は大阪府との県境の金剛山の南麓の小さな盆地の町。

(▲吉野川) ■五條・地名

五條市は盆地で北の金剛山の南斜面から多くの谷の水が五條市を東西に横断する吉野川に流れ込んでいます。
その吉野川の支流が上流から宇智川、内の川

 西川、

東浄川、


寿命川と5本あり、これがわずか1.5kmほどの間に並んでいます。
金剛山から5本の小川が流れ込んでいる、ということから五條の地名がつけられたのではないかと思われます。

なお、市内にたくさんある御霊(ごりょう)神社がなまって五條になったという説もあります。

五條市全体の古代からの地名は宇智で、50年前の町村合併の前は宇智郡であったのが、その時の中心の五條町の名前が今の五條市の名前になったのです。

宇智に似たような「宇」のつく地名に、宇冶、宇陀、宇佐、宇部、宇品などがありますが、これらはすべて谷間から川が流れ出す盆地や三角洲の地名のようです。

吉野川の近くにあり、そこへ流れ込む水路のような小さな川が何本もあることも

五條新町の景観を面白いものにしています。

この時は、川にはほとんど水が流れていませんでしたが、

川ギリギリまで建物が立ち、

足場を作って川面にせり出すように

家を広げていたりするのが楽しいですね。


今は、吉野川は、この向こう(階段の所が堤防)に流れているが、昔は、手前まで水が来ていた。

かつては石垣のところまで水が来ていた。

吉野川には三十石船や奥吉野から木材を運ぶ筏(いかだ)流しも見られ、水陸交通の要地でもありました。

▲道路のすぐそばに船着き場があった。▼



西川にかかる
6
鐵屋橋のすぐそばにあるのが、

「餅商 一橋」。
大正時代から続く、いかにも古そうな、このお店、最近閉店されました。

「新町橋」と「しんまちばし」。

東にあたる方に漢字を
西にはひらがなであらわしたそうだ。
そうすることで、夜暗い時でも、方角が分かるからだそうだ。

五條は古来さまざまな土地への交通の要でした。
奈良、和歌山、河内長野、十津川、あらゆる場所へ続く旧街道が、現在の五條の本陣交差点で交差しました。

交差点にはかつての繁栄を偲ばせる立派な道標が残されています。
交通の要衝地だったゆえに、数々の歴史の舞台ともなりました。

なかでも幕末には、天誅組が尊王攘夷を掲げ、徳川幕府に対して武装蜂起した場所としても知られています。

五條から南へ鉄路を伸ばす五新線の計画も、多くの人々の期待を集めたものでした。


しかし昭和57年、開通することなく工事は全面中止に。



新町通りを横切る高架跡は、鉄路に夢を馳せた人々の思いを静かに今に伝えています。

  幻の「五新鉄道」風光る  はるな

(▲右部分、広い格子)
商いをしていた町家には、通りに面して設けられた格子の形にも特徴がある。
多くの町家に、間隔が広い格子、狭い格子、その中間にあたる幅の格子と、3種類の格子が存在している。
幅が広い格子は店先部分にあたり、その奥に並べられた商品が見えやすい構造に。

(▲左、狭い格子右側、中間の格子)
また間隔が狭い格子の向こう側は住居部分にあたり、生活の様子が通りから見えにくいようになっている。
そして、店先部分の格子と住居部分の格子との、ちょうど中間ほどの幅の格子は、勘定をする帳場に用いられた格子である。

(▲五條代官所跡)
1870年(明治3年)、宇智郡五條村(現五條市)に置かれていた五條代官所に五條県が設置された。
その後、紀伊国内の高野山領、大和国吉野郡十津川郷を管轄した。
しかし、翌年の第1次府県統合により廃止された。

五條という町を今回初めて知ったが、昔は大いに繁栄していたようだ。
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Last updated  2019.05.30 00:59:19
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2019.03.30
カテゴリ:お出かけ

澤田八幡神社

国府八幡神社由緒書によると、国府八幡神社を除く近隣の八幡神社(古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社)と同じく、江戸時代初期に誉田八幡宮から勧請されたものとされている。
拝殿の棟札には、1655年(明暦元年)11月に旧地の一町西へ遷宮したと伝えられ、次いで1777年(安永6年)の棟札からこれらの時期に建直しが行われている。
沢田の氏神として機能し、かつては「先度社」という宮座も存在した。

境内には近鉄南大阪線が横切っており、踏切が設けられている。

これは1922年大阪鉄道が布忍駅 - 道明寺駅間を開通した際、町内の中を通ることを避け、仲姫皇后陵の堤に沿って走らせることにした結果、

陵の堤に続く斜面にあった神社を横切ることになったものと考えられる。
当時の住民は線路敷設に肯定的であり、公有地の一部が無償提供されている。


澤田八幡神社と線路は高低差がある。

澤田八幡神社までが、羽曳野(はびきの)丘陵で、澤田神社は、その「台地のへり」にあるというわけだ。
(「台地のへり」って、よく「ブラタモリ」で言っている。)
靴澤田八幡神社
所在地大阪府藤井寺市沢田4-2-3
交通アクセス最寄駅:近鉄南大阪線土師ノ里駅下車後、徒歩約6分(西へ約400m)

■2019.3.2■
道明寺天満宮
赤面山古墳
大鳥塚古墳・別名質屋山古墳
道明寺盾塚古墳公園
津堂城山古墳
などをボランティアの方の説明を聞きながら歩いてきた。
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Last updated  2019.03.30 00:02:38
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2019.03.22
カテゴリ:お出かけ

津堂城山古墳

この津堂城山古墳は、実は明治が終わる頃までは、前方後円墳であること自体が地元の人々にもよく認識されていなかったようです。
名前のとおり、戦国時代に三好氏の砦として城が築かれたことで墳丘の形が大きく崩れてしまい、見た目にはただの小山にしか見えない姿になってしまいました。

しかも、周濠部分の多くは農地として利用されていて、残った部分もよくある小さな池にしか見えない様子でした。

全体が大きいために、横から見ただけでは古墳だとは気づきにくい姿です。
いつしか、ここが古墳であったことさえ忘れ去られていったようです。
明治時代の中頃に作成された地籍図を見ると、古墳域内の土地には城跡であったことを示す小字(こあざ)名が載っています。
「本丸・二の丸・三の丸・四の丸」です。
つまり、この場所は、古墳としてではなく、「城跡」のままそのイメージが長年伝承されてきたことがわかります。

1912年(明治45年)、地元津堂村の人々が、この古墳の後円部頂から石材を掘り出したときに、その下から巨大な石棺が現れて、人々を驚かせました。
この長持形石棺は、それまで知られていた石棺の中でも最大で、しかも非常に精巧な造りのものでした。

今までの調査・研究から、津堂城山古墳は、二重の濠と堤をそなえた巨大な前方後円墳であり、出土物などから4世紀の末頃に造られたことが分かってきました。
津堂城山古墳以後の大王の古墳とされる巨大前方後円墳の多くに、二重の濠と堤が造られていることや、その他の資料などから考えると、津堂城山古墳は、河内平野に初めて造られた大王級の古墳であると考えられるのです。

かつて農地だった内濠部分は保存のために整備が進められ、ちょっとした古墳公園となっています。

また、内濠跡部分には、菖蒲園(しょうぶえん)や草花園(そうかえん)が造られ、四季折々の花が古墳を彩ってくれています。


■2019.3.2
道明寺天満宮
赤面山古墳
大鳥塚古墳・別名質屋山古墳
道明寺盾塚古墳公園

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Last updated  2019.03.22 20:57:13
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2019.03.21
カテゴリ:お出かけ

道明寺盾塚(たてづか)古墳公園

写真は、府営・藤井寺道明寺住宅の中央部にある公園です。
公営住宅地内の公園としては、全体の面積の割には、広い公園だと言えるでしょう。

この公園中心部で緑におおわれた広場が、少し盛り上がっているのがわかりますか?

ゆるやかな階段もありますね。
公園内の広場にしては、ちょっと変わっていると思いませんか。

この公園は、「道明寺盾塚(たてづか)古墳公園といいます。
ではこの広場は古墳なのでしょうか。
残念ながら、実は盾塚古墳そのものは、かなり以前に姿を消してしまっているのです。

昭和30年代に入って、大阪府内の人口増加に対応するために、各地に公営住宅が造られていきました。
藤井寺市内にもいくつかの府営住宅や公団住宅が建設されていきました。
この場所にも、「道明寺南住宅」として、平屋の戸建て住宅が並ぶ府営住宅が造られました。
この建設に伴って、盾塚古墳は姿を消してしまったのです。
古墳の跡地にも住宅が建ち並びました。
盾塚古墳は、総長110m、後円部の直径46mという前方後円墳です。
古市古墳群の中では、最も古い時期、4世紀末~5世紀初めに造られた古墳です。

後円部に比べて前方部が小さいことから、「帆立貝形前方後円墳」とされています。
今となっては、発掘調査記録としてしか存在しない古墳です。

靴盾塚古墳
大阪府藤井寺市道明寺6丁目

築造年代:5世紀初頭
墳形:帆立貝形、楕円形周濠
規模:全長110m、墳長64、73、88m 
*正確な数字を確認できません。
 方幅20m、方高1.8m、円径46m、円高7.5m、

内部構造:後円部粘土槨、長大な割竹形木棺
副葬品:盾10枚、銅鏡、玉類、短甲、衝角付冑、鉄製刀剣、鉄製鏃、
    筒形銅器、碧玉製釧、竹櫛、前方部から鉄製刀、
剣、矛61本
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Last updated  2019.03.21 23:59:32
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2019.03.16
カテゴリ:お出かけ

大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は墳長110m、高さ12.3mの前方後円墳で、5世紀前半に築造されたと考えられています。
1956年に国の史跡に指定。

大鳥塚古墳が築造された頃から「陪塚」が築造され始めています。
陪塚とは埋葬者と関係が深かった人や物が、メインの古墳の周辺に埋葬される小さな古墳を意味します。


(▲赤面山古墳)
大鳥塚古墳のすぐ北側に■赤面山古墳■と言う1辺15mの方墳が存在します。
赤面山古墳は大鳥塚古墳の陪塚と考えられており、大鳥塚古墳と赤面山古墳の埋葬者はお互い密接な関係があったようです


この古墳の別名は、質屋山古墳という。
今でこそ、古墳はありがたがられているが、明治までは、里山的な扱いだった。
中には■古墳の中に村まであったものある。

大鳥山古墳も個人の持ち物で、お金に困った持ち主が質に入れた。
そして、質流れとなったという今から思えば嘘みたいな本当の話だ。


■大鳥塚古墳データ■
古   墳:大鳥塚古墳
墳   形:前方後円墳
築造の時期:5世紀前半
所 在 地:大阪府藤井寺市古室2丁目4−58
全   長:110m
高   さ:12.3m
埋   葬:不明
大鳥塚古墳のすぐ北側に赤面山古墳は、大鳥塚古墳の陪塚。
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Last updated  2019.03.17 01:00:23
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2019.03.13
カテゴリ:お出かけ

藤井寺市の古墳や神社を市民ボランティアの案内で廻って来た。
道明寺天満宮

数多くの古墳を見て回ったが、特に印象に残ったのが「赤面山(せきめんやま)古墳」。

藤井寺市:赤面山古墳は残った。

大阪府松原市と奈良県天理市を結び、名古屋市へとつながっていく
西名阪自動車道の脇下を通る北行きの側道です。
西名阪自動車道の高架下に小さな土の高まりがあります。
なんと、高速道路の下にまたがって古墳があります。
この古墳の名は赤面山(せきめんやま)古墳
といいます。

一見したところでは単なる土の山のようにも見え、うっかりすると見過ごしてしまいそうです。

この建設工事は、昭和40年前後の時期でした。
古代史ブームよりも6,7年前のことです。
当時としては、この古墳の保存にかけたエネルギーのすごさを感じます。
側道を曲げるために買収用地を増やしただけでなく、もう一つ設計上の尽力の跡を見ることができます。
 
写真は、高速道路の高架の下側と橋脚の様子です。

右が本来の設計通りの造りです。
左は、古墳の位置に橋脚がぶつかるため、橋脚の間隔を長くして、古墳を完全にまたぐように造られています。
長くなった分、強度を高めるために、コンクリートの橋桁の下部にアールを付けて、この部分だけ特別な造りになっています


一部に特別な設計をするということは、当然、余分に手間と費用がかかるということです。
このように手厚く保存の措置がとられた赤面山古墳ですが、本来どのような古墳だったのか、実は、よくわかっていなかったのです。

赤面山古墳は、古市古墳群の現存古墳の中では最も小規模なものの一つですが、そうであるが故に、古墳の保護・保存を考える上で象徴的な存在となっている古墳でもあります。
高速道路という、都市化や現代インフラを象徴する建造物と、見事に共存できた貴重な例として、もっと注目されてよい古墳だと思います。

靴 【赤面山古墳】
近鉄南大阪線・土師ノ里駅から南西へ約1.1km 徒歩約17分
古市古墳群
東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、誉田御廟山古墳(伝応神陵)など墳丘長200メートル以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基)の古墳で構成される古墳群である。
古墳造営には豪族の土師氏などが関与していたと考えられている。

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Last updated  2019.03.13 00:01:09
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2019.03.08
カテゴリ:お出かけ

道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)は、大阪府藤井寺市道明寺にある神社。
そこに、3月2日(土)友人と散策してきた。
道明寺天満宮

もともとは天満宮ではなく、土師神社であった。

隣りの駅が土師ノ里であることからもわかる通り、このあたりは古墳時代に大活躍した「土師氏」の所領であり、土師氏の祖「野見宿禰」が、かつて遠祖であるところの「天穂日命」を祀った氏神「土師神社」(はじ じんじゃ)を創建した。
これが道明寺天満宮のそもそもの始まり。

●「野見宿禰」は相撲の祖とされつつ、垂仁天皇の御代に埴輪を発明して、天皇崩御に際する「殉死」という悪しき慣習をストップさせた人物
道真公死後の947年、道真公が残した木像を安置し、遺品をご神体として祀ったことから、土師寺は道明寺へと寺名を改めた。

道明は道真公の号「道明」に因む。

●道明寺天満宮の門の横には土師氏の窯の跡がある。

この丘の角度が登り窯にピッタリのようだ。

道明寺天満宮は丘の上にあります。

ここから西に高台が続き、その斜面から登り窯跡が発見されています。

▲▼近鉄、道明寺駅から道明寺天満宮への道は、細く、参詣のための道だったのだろう。


道明寺天満宮の石段を登って

広い境内へ。
埴輪を作って殉死の風習を変えた功績で、垂仁天皇32年に野見宿禰は土師臣(はじのおみ)の姓とこの地を与えられた。
そして、その子孫である土師氏は野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社を建立した。

仏教伝来後に土師氏の氏寺である土師寺が土師神社の南側に建立され、やがて神宮寺となった。
この土師氏からはやがて菅原氏や大江氏が分流していく。

平安時代、土師寺には菅原道真のおばに当たる覚寿尼が住んでおり、道真も時々この寺を訪れている。
この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。
901年(延喜元年)、道真は大宰府に左遷される途中に当社に立ち寄って、覚寿尼との別れを惜しみ、和歌を詠んだ。
鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の なからん里の暁もかな
       菅原道真

■意味■鶏が鳴いてつらい別れがきた。
夜明けに、(夜明けを告げる)鶏の声が聞こえない里であればよいのに・・・。

以後、道明寺では、鶏を飼わなくなったとか・・・。

1633年(寛永10年)には石川が氾濫したため、道明寺が天満宮境内に移転し、両者はやがて一体化していく。
1952年(昭和27年)に土師神社は道明寺天満宮と改称する。
現在も学問の神として地元の人々に親しまれている。

また境内には80種800本の梅の木があり、梅の名所として知られているとともに大阪みどりの百選に選定されている。


▲道明寺天満宮への道には、梅のデザインのマンホールが。
真ん中の丸の中は、古墳と耳飾り。

▲▼境内には、しゅらのレプリカが置いてあった。


大阪天満宮
靴道明寺天満宮への道
〒583-0012
大阪府藤井寺市道明寺1-16-40

•電車 近鉄南大阪線・道明寺駅から徒歩3分
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Last updated  2019.03.08 00:04:23
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2019.02.27
カテゴリ:お出かけ

天満天神繁昌亭(てんまてんじんはんじょうてい)は、
大阪府大阪市北区天神橋二丁目にある寄席。
上方落語の定席の一つで、落語を中心に、漫才、俗曲などの色物芸の興行が連日執り行われている。通称「繁昌亭」。

繁昌亭は、2003年に上方落語協会会長に就任した桂三枝(後の6代桂文枝)が、天神橋筋商店街で落語会を行える空き店舗の提供を商店街側に依頼したことに始まる。
商店街はこの提案を大阪天満宮に持ち込み、上方落語協会も交えて話し合いを重ねた結果、天満宮用地に落語専門の定席を新設することで合意。
用地は大阪天満宮の寺井種伯宮司の厚意により、無料で提供された。
1957年に戎橋松竹が閉場して以来、半世紀ぶりに大阪に寄席が復活することになった。 座席は1、2階の216席。

昼席の開場時には、若手の落語家が太鼓で一番太鼓(開場を告げる太鼓)を打つ。
劇場内外の天井には、募金をした人々の名前や団体約4,500件分の名前の書かれた提灯が並べられている。

上方落語隆盛の時代の象徴として語り継がれている「赤い人力車」が復活した。
この人力車は、初代桂春團治が多忙のために移動の手段として使用したとされるものを復元しており、多額の借金による「火の車」の洒落になっている。

 春団治の奇行は有名だが、他の芸人も破天荒だったようだ。
 吉本興行の舞台でのこと。
真打の松鶴が舞台に上がったが、十八番(おはこ)の話「天王寺詣り」をやらない。
客は怒って総立ちになっている。
 客の一人の機転でやっと事なきを得たが、
松鶴は、十八番の「天王寺詣り」を二千円で質に入れたのだった。
質入れ中は絶対に語れないのが、この世界の掟だそうだ。
俳優の東出昌大は■『ごちそうさん』■では、慣れない大阪弁での演技に備え、撮影開始1か月前に大阪市へ引っ越し、天満天神繁昌亭や近くの喫茶店でアルバイトしたり、上方落語を聴くなどして役作りに務めた。


繁盛亭のある場所は、もともとは、天満の天神さんの敷地だった所。

天満宮旧敷地という石灯篭がある。
もともと江戸時代の天満宮境内では、
歌舞伎や人形浄瑠璃などあらゆる芸能が上演されていたという記録もあり、明治時代の天満周辺には「天満八軒」といって8軒程の寄席があった。

”芸どころ”として、歴史的にもゆかりのある土地だった。

NHK朝ドラ:わろてんか■は、吉本興行の吉本せいがモデルで、吉本の寄席もここにあった。
吉本せいを描いた山崎豊子の「花のれん」に、天満の寄席を見つけた時の文章がある。
***
「旦那(だん)はん、おました、ええのおましたわ、御寮人(ごりょうん)さんのいいはるとおり風呂屋にでもしたろかいうような寄席見つかりましてん」
「どこや」
天神橋筋をちょっと入ったとこの、ちょうど天満の天神さんの裏でんねん。」***
●■天満の天神さん■とセットで行く、大阪名所だと思う。
●広島出身という若手落語家の言葉が見事に関西弁だった。
靴天満天神繁盛亭
〒530-0041
大阪市北区天神橋2丁目1番8号
地下鉄谷町線・堺筋線「南森町駅」下車4番出口
JR東西線「大阪天満宮駅」下車3番出口
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Last updated  2019.02.27 00:07:13
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2018.09.03
カテゴリ:お出かけ
舞台:コーラスライン

幾つもの涙の先に、輝くひとつの夢がある。

N.Y.ブロードウェイ。
幕が上がると、新作のためのオーディションの真っ最中。
新進演出家ザックの元に集まった大勢のダンサーの中には、ザックの元恋人・キャシーの姿もあった。
彼女はかつてスポットライトを浴びたこともあるもののハリウッドに進出して挫折、一からやり直すつもりで再びブロードウェイに戻ったのだった。

厳しいオーディションに合格したとしても手に入るのは「コーラス」、つまり無名の脇役。
「君たちはスターを彩る額縁、誰も僕の目を惹いてはいけない」とザックに宣告され、それでもダンサーたちはたった8人の採用枠に残るために自分のすべてを賭ける。
「君たち自身を知りたい」というザックの問いかけに、躊躇しながらも赤裸々に自分の人生について語り始める。

 ミュージカルといえば、「ライオンキング」、■「美女と野獣」、
キャッツ■など、背景や役者のメイクなど華やかなものが多い。

「コーラスライン」は、「ライオンキング」や「美女と野獣」と違って、豪華なセットはない。

内容も主役ではなく”その他大勢のキャスト”のオーディション会場での物語。

なんにもないただ、白い線が一本だけの舞台と稽古着の出演者たち。
コーラスラインというのは、舞台後方に引いてある”線”のこと。

主役と違って”そのた大勢”の出演者は、コーラスラインから前に出てはいけない。
 冒頭のダンスシーンが終わると、長い単調な舞台が続く。
音楽も、聞き覚えのあるのは、「ワン」のみ。

この作品は、舞台上では目立たない、その他大勢組のダンサーたちの物語。
仕事を得るために整形した人、 同性愛者、
身長が低い悩みの人、バレエだけが自分の支えだという人、
さまざまな悩みや不安を持って、オーディションに集まってきた
ダンサーたちが自分の人生を赤裸々に語っていきます。

いろんな悩みがあるが、思春期の悩みは共通。

地味な舞台だけに、
フィナーレの、金色のえんび服とシルクハット姿が華やかで素晴らしい!!

英語の舞台だったので、舞台のそでの両側に字幕がついていた。

オリックス劇場のそばの公園で娘のレイと待っていたら舞台の役者さんたちと見られる人が数人歩いていた。
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Last updated  2018.09.03 00:10:39
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2018.06.01
カテゴリ:お出かけ

江戸の戯画-鳥羽絵から北斎・国芳・暁斎まで

太平の世が続いた江戸時代には、多くの戯画(ぎが)が描かれました。
一口に戯画といっても多種多様なものがありますが、本展では「鳥羽絵」をキーワードに江戸時代の戯画をご紹介します。

鳥羽絵は、広く戯画や漫画を指す言葉として使われることもありますが、より限られた意味では、18世紀に大坂を中心に流行した軽妙な筆致の戯画を指します。
そこに描かれる人物は、目が小さく、鼻が低く、口が大きく、極端に手足が細長いという特徴を持ち、その名は国宝「鳥獣人物戯画」の筆者と伝えられてきた鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)に由来するものとされます。

鳥羽絵は、18世紀の大坂で鳥羽絵本として出版され、その人気は明治にまで及びました
また、上方に留まらず、江戸の浮世絵などにも影響を与えています。
鳥羽絵を洗練させたとされる大坂の「耳鳥斎(にちょうさい)」はもちろん、鳥羽絵本の影響を受けたと考えられる江戸の「北斎(ほくさい)」や「国芳(くによし)」、そしてその流れをくむ「暁斎(きょうさい)」など、時代や地域により変化しながらも、笑いの感覚は脈々と受け継がれてきました。


本展では、そのような流れを追いつつ江戸時代の戯画のエッセンスをご覧いただきます。
また、歌川国芳の「金魚づくしシリーズ」全9点がそろうのも見どころの一つです(前期のみ)。
笑いを文化として発展させてきた大阪の地で、多彩な笑いの世界をご紹介します。(出品予定作品:約280点)


■場所:大阪市立美術館 所在地
〒543-0063
大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1-82
電話 06-6771-4874

■会期:【後期】5月15日(火)~6月10日(日)
※会期中展示替えあり。

■時間:午前9時30分〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日月曜日(ただし、4月30日(月)は開館)。

■料金:
一般 1,400円(1,200円)、高大生1,000円(800円)
※( )内は、20名以上の団体料金
※中学生以下、障がい者手帳などをお持ちの方(介護者1名を含む)は無料(要証明)。
※本展は、大阪市内在住の65歳以上の方も一般料金が必要です。

この日は雨で、雨上がりの緑が美しかった。
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Last updated  2018.06.01 00:25:58
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