4535484 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

おしゃれ手紙

全91件 (91件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 ... 10 >

八百八橋散歩

2020.11.28
XML
カテゴリ:八百八橋散歩

上大和橋(かみやまとばし)

東横堀川は上大和橋の下流で終わりになり、直角に西へ曲がって道頓堀川になっている。
元和元年(1615)に道頓堀川が開削された後は、この地は物資の集散地として荷車などが集まるところとなったという。
 
堀止め付近に橋が架けられた年代は明確でないが、まず最初に東横堀川西岸道路の延長上に上大和橋が架けられたと考えられる。

この頃までは東横堀に橋を架ける必要性が少なく九之助橋より下流には橋が見当らない。
現在のように上・下大和橋の位置が定まったのは、元禄後期の頃と考えられる。

明治以降も長らく木橋のままで、明治14年の記録では橋長37.8m、幅員3.8mとある。
明治30年(1897)頃に架け替えられ、幅員は6mほどになったが、依然木橋のままで、近代化に及ばなかった。
 
近代橋になったのは第一次都市計画事業の中の橋梁改築事業で、大正14年(1925)10月に完成、橋長35.8m、幅員9.lmの三径間の単純鋼桁橋である。

戦後、橋の東側に川に沿って阪神高速道路のランプが造られ、橋も東側が少し改造された。
なお、明治36年(1903)に東横堀川の堀止付近(上大和橋・下大和橋の付近)に巡航船の乗船場ができ、最盛期には1日2万人もの利用客がある交通機関となったが、市電の拡張に伴い利用客は減り、大正3年(1914)には廃止された。

靴 アクセス:OsakaMetro 日本橋駅 
      7番出口 およそ500m 徒歩8分

■東横堀川の橋■上流から
葭屋橋■ - 土佐堀通
今橋
高麗橋
東横堀川水門
平野橋
大手橋
本町橋と本町の曲がり■ - 本町通
農人橋■-中央大通
久宝寺橋
安堂寺橋
末吉橋 - 長堀通
九之助橋
東堀橋
瓦屋橋

上大和橋

下大和橋(道頓堀)に続く。
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・







Last updated  2020.12.09 00:02:31
コメント(0) | コメントを書く


2020.11.24
カテゴリ:八百八橋散歩
●「島の内」
戦前、それも明治大正の島の内は芸人や役者、水商売の人やお妾さんなどが住む、しっとりと粋な町であった。
船場の南、東西を東横堀川・西横堀川に、南北を長堀川・道頓堀川にかこまれ、風雅で瀟洒な家並みが並ぶ。
(略)
美しい日本髪の女が白い衿足をみせ、派手な浴衣に単衣帯でよく磨かれた金盥(かなだらい)を持って、近所のお風呂屋へ出かけたりしている。
(略)静かでいて花やかで色めいた町。
「浪華の古風を長く残してきた街」(略)
こんな街の、狭いながらに粋な南北居、
「町内に鴈治郎はんがすんではる」というような玉屋町の南北居に若者たちは魅了されて、つどうのであった。
「こんな家の住みたいなぁ」と思ったのは水府だけでななかった。
●*南北(食満南北)*が遊んだ小坊ンさんの頃は、芸妓の「朝迎い」に駕籠が来たと。

大阪の古い地唄に、次のようなものがある。

♪恋の重荷の島の内、
送り迎いにかく駕籠の、
誰であろうと棒鼻に、
くくりつけたる提灯の、
日柄の約束して来たな、
高いも低いも色の道、
立てる立てんの息杖も、
つきぬ楽しみエイサッサ、
さっと押せ押せ夢の通い路・・・


道頓堀の雨に別れて以来なり(上):田辺聖子
*食満 南北(けま なんぼく、1880年(明治13年)7月31日 - 1957年(昭和32年)5月14日)は、*

明治から昭和に活躍した歌舞伎作者、作家。
本名は食満 貞二(けま ていじ)。

大阪府堺市の裕福な酒造家の生まれ。
幼少のころから芝居や落語など芸道に通じ、上京後、早稲田大学に入学し坪内逍遥に師事。
また村上浪六に弟子入りしたり、さまざまな職を経て、明治38年 (1905) 4月、田村成義の紹介で歌舞伎座の福地桜痴の門人となり本名のまま見習い作者となる。

翌年4月に関係者と揉めて帰阪し、三代目片岡我當に招かれて松嶋屋の座付き作者となる。
 明治42年 (1909) からは初代中村鴈治郎の一座に加わり松竹に所属。
鴈治郎の座付き作者として多くの戯曲や随筆を書く傍ら『演劇画報』などの演劇関係の雑誌に関西歌舞伎関係の記事や批評を載せ、戦後に至るまで関西劇壇の重鎮として活躍した。
また大正期には六代目鶴屋南北を名乗っていた。


道頓堀・相合橋の食満南北の川柳の碑
岸本水府と露の五郎の川柳

・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   






Last updated  2020.12.07 00:02:14
コメント(0) | コメントを書く
2020.11.19
カテゴリ:八百八橋散歩

瓦屋橋は
元禄時代の中期以降に初めて架けられたものと考えられる。
この地は徳川幕府から瓦の土取場として上町台地西辺の地、約46,000坪を借り請けた御用瓦師寺島藤右衛門の請地である。

このあたりは古代より良質の粘土が取れ、江戸時代には大坂市街における瓦生産の中心地だった。

(▲鬼瓦ににている。)
当時橋の東詰め一帯は南瓦屋町と呼ばれ、付近は積み出しの船で賑わっていた。
江戸時代は橋長約38メートル、幅員約3.8メートルの木橋で、約15年おきという周期の早い架け替えが行われており、橋筋の町々により維持されてきた。 

近代橋になったのは、昭和7年で橋長37.7メートル、幅員6.5メートルの鋼桁橋である。

昭和41年3月架け替え、昭和45年3月歩道部拡幅され、平成10年橋面改装し現在に至る。

靴 アクセス:OsakaMetro長堀鶴見緑地線松屋町駅 
      4番出口 およそ500m 徒歩9分

■東横堀川の橋■上流から
葭屋橋■ - 土佐堀通
今橋
高麗橋
東横堀川水門
平野橋
大手橋
本町橋と本町の曲がり■ - 本町通
農人橋■-中央大通
久宝寺橋
安堂寺橋
末吉橋 - 長堀通
九之助橋
東堀橋
瓦屋橋
上大和橋
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・
      






Last updated  2020.12.01 00:02:06
コメント(0) | コメントを書く
2020.11.16
テーマ:読書(4599)
カテゴリ:八百八橋散歩

(■淀屋橋■で今も営業している牡蠣船。)

牡蠣船は貸しを残して国へ立ち  水府

これも明治44年、水府、数え二十歳の頃の句である。
いうまでもなく牡蠣船は大阪独特の情緒ある料理屋である。
道頓堀川、土佐堀川、堂島川河畔などにふねをもやい、広島の牡蠣をさまざまに料理して供する。
川岸の船に灯のつく風情も面白く、秋冬の大阪の風物詩となっていた。
現代では年中、船を据えているが、明治頃までは秋になると広島から船でやってきて、季節が終わるとまた船をたたんで帰って行ったという。

(☝淀屋橋)
水府のこの句は貸しをそのままに船は去ったというのだが、どうせまた晩秋になれば馴染みの河岸(はま)へ船を着けて商売
すりのだし、貸した相手もお馴染みさんなれば、
「また寒うなったらまいりますよってそのときに」というのであろうか、おおどかなものだ。
この牡蠣船は宝永五年(1708)頃からはじまったというから古い。(略)
 この明治の頃はまた、牡蠣船の出前小女郎(でまえこめろ)というのがあったらしい。(略)
牡蠣船の中は小さい料理屋の座敷風に仕立てられ、衝立で間仕切りをして牡蠣料理で飲ませるのであるが、船に来るより出前が多かったという。
(略)お煙草盆に結った十三、四の少女が白前垂の高下駄ばき、黒の引っ張りに黒足袋といういでたち、(略)右手に釜を下げ、左手に岡持という姿で道を急いでいる。


牡蠣船の 一艘残れる 淀屋橋  はるな
道頓堀の雨に別れて以来なり
道頓堀の雨に別れて以来なり(下)
 牡蠣が美味しい季節である。
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   






Last updated  2020.11.16 00:09:57
コメント(0) | コメントを書く
2020.11.06
カテゴリ:八百八橋散歩
 
東堀橋は、
東横堀川の下流付近の瓦屋橋の北側に架かる橋である。
この橋の歴史は東横堀川に架かる橋の中ではかなり新しく、第一次都市計画事業に基づき、周防町通(現在はアメリカ村のメイン通りやヨーロッパ通りとしても知名度がある)が市道堀江玉造線として拡幅整備された際の、昭和11年(1936)に鋼製アーチ橋として架けられた。

この橋が架かったことにより玉造と九条が一本の道路で結ばれた。
現在の橋は、平成6年(1994)に改修整備されたもので、東横堀川全体の景観に配慮した造りになっており、

橋柱の照明灯などもレトロな雰囲気の趣ある橋になっている。

靴 アクセス:OsakaMetro長堀鶴見緑地線 松屋町駅 
      4番出口 およそ400m 徒歩7分

■東横堀川の橋■上流から
葭屋橋■ - 土佐堀通
今橋
高麗橋
東横堀川水門
平野橋
大手橋
本町橋と本町の曲がり■ - 本町通
農人橋■-中央大通
久宝寺橋
安堂寺橋
末吉橋 - 長堀通
九之助橋

東堀橋
瓦屋橋
上大和橋
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   
   






Last updated  2020.11.06 00:32:49
コメント(0) | コメントを書く
2020.10.23
カテゴリ:八百八橋散歩

九之助橋の■架かる東横堀川は、大坂城外堀として豊臣秀吉により、天正13年(1585)に、開削されたものといわれている。

江戸時代初期の慶安~万治年間(1648~1660)の絵図には、既に九ノ介橋として記載されていることから、最初の橋は東横堀川の開削後しばらくのちに架橋されたものと考えられる。

橋名は、何らかの関係者の人名に、つながりそうに思えるが、その由来は不明である。
本橋の西詰北側には、住友家の銅吹所(銅の精錬所)があり、鋳物屋、鍛冶屋などの工業の町であった。

対岸の東詰は、幕府御用瓦師、寺島家の請地で多くの瓦ふき職人や瓦仲仕が住んでいた。
木橋であった九之助橋は、第1次都市計画事業により大正15年(1926)上路アーチ形式の永久橋に架け替え、今回の改修ではアーチ形式や御影石積みの 親柱など旧来の景観を保全するよう配慮し、

また照明灯は大正15年当時のものをモチーフとしてデザインした。

靴 ■アクセス:OsakaMetro長堀鶴見緑地線 松屋町駅 
      4番出口 およそ250m 徒歩4分

■東横堀川の橋■上流から
葭屋橋■ - 土佐堀通
今橋
高麗橋
東横堀川水門
平野橋
大手橋
本町橋と本町の曲がり■ - 本町通
農人橋■-中央大通
久宝寺橋
安堂寺橋
末吉橋 - 長堀通
九之助橋
東堀橋
瓦屋橋
上大和橋
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・
        






Last updated  2020.10.23 12:16:50
コメント(0) | コメントを書く
2020.10.16
カテゴリ:八百八橋散歩
末吉橋
末吉橋は、南蛮貿易で活躍した平野の豪商末吉孫左衛門が架けたと言い伝えられている。
その末吉家の別邸が橋の西詰にあったとも言われている。

江戸時代の末吉橋は町橋で、橋筋の町々の醵金によって維持されていた。
 
末吉橋は明治43年、市電第3期線の事業で、鋼橋になり、その後、第一次都市計画事業によってコンクリート製のアーチ橋が架けられた。

隣接した長堀川の安綿橋と同じデザインになっており、統一性のある風景を作っていた。

戦後、長堀川が埋め立てられとき、拡幅されて今日に至っている。
以上、転載終わり


▲西側の建物はカフェになっている。
川に降りるための石段が残っていた。

■東横堀川の橋■上流から
葭屋橋■ - 土佐堀通
今橋
高麗橋
東横堀川水門
平野橋
大手橋
本町橋と本町の曲がり■ - 本町通
農人橋■-中央大通
久宝寺橋
安堂寺橋■大

末吉橋 - 長堀通
九之助橋
東堀橋
瓦屋橋
上大和橋
靴 ■アクセス:OsakaMetro長堀鶴見緑地線 松屋町駅 
1番出口 およそ50m 徒歩1分
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   
   






Last updated  2020.10.16 01:23:52
コメント(0) | コメントを書く
2020.10.05
カテゴリ:八百八橋散歩

安堂寺橋(あんどうじばし)
橋の名は、伝説的な寺の名前から由来し、安曇寺から転訛したものといわれたが現在では否定されている。
安曇寺は、『日本書紀』に記述されている安曇寺のことであるといわれ、古代海人族の阿曇氏の拠点が上町台地側」にあったとも推定されている。
また、聖武天皇が遊覧したとされる安曇江は東横堀の前身となる入江であったともいわれる。

江戸時代の橋通りは、玉造から生駒の暗峠に達する奈良街道に通じる重要な道筋に当り、この時代初期には架設されていた。
橋の東側は東堀の材木浜で、材木をはじめ竹や竹皮の取引も行われていた。

西側は南船場につながり、金物問屋や砂糖商の密集する町であった。
明治中期になると鉄柱で支えられた木桁橋となり、大正3年(1914)に鋼鈑桁に架け替えられたが、幅員は6.1mで従前のものと殆ど同じであった。

戦後昭和42年(1967)に幅員6mで三径間の鋼鈑桁橋に架け替えられ、交通量の増加に伴い同49年(1974)に両側へ1.5mすつの歩道が拡張されて現在に至っている。
以上■安堂寺橋(あんどうじばし)■より転載

靴  Osaka Metro 松屋町駅4番出口 およそ200m 徒歩4分

■東横堀川の橋■上流から
葭屋橋■ - 土佐堀通
今橋
高麗橋
東横堀川水門
平野橋
平野橋
大手橋
本町橋と本町の曲がり■ - 本町通
農人橋■-中央大通
久宝寺橋

安堂寺橋
末吉橋 - 長堀通
九之助橋
東堀橋
瓦屋橋
上大和橋
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・
       






Last updated  2020.10.05 00:14:50
コメント(0) | コメントを書く
2020.09.23
カテゴリ:八百八橋散歩
久宝寺橋

橋名は伝説的な寺の名前に由来する。
久宝寺は同盟の寺が船場の側にあったと言い伝えられている。
しかしその位置は定かではなく、『浪華百事談』にも「往昔此地に久宝寺といえる寺院有りし故に、其名ののこれるものとは碑に伝うれども、何れの地に有りしや、浪花の古図にも証すべきものを見ず」とある。


久宝寺の由来には他説があって、道頓堀川が開削されたとき、河内の久宝寺から多くの人夫が来て、この地に集落ができたためともいわれている。
久宝寺橋は豊臣時代から架けられていたらしい。
久宝寺橋は町橋で、近隣の町々で維持管理が行われていた。

江戸時代の規模は、橋長が二四間三尺一寸三分(49.2m)となっており、幅員は二間(3.9m)であった。
このあたりは人家の密集地であり、しばしば大火に見舞われている。その際、橋の被災はまぬがれなかった。


江戸時代から明治の初めにかけては、橋の構造にはほとんど変化はなかった。
久宝寺橋は五径間の木橋であったが、約6mと幅がかなり拡げられた。
久宝寺橋が永久化されたのは、昭和14年で、橋長41.5m、幅員12.6mとなり、三径間のゲルバー式の鉄筋コンクリート桁が適用された。


■東横堀川の橋■上流から
葭屋橋■ - 土佐堀通
今橋
高麗橋
東横堀川水門
平野橋
大手橋
本町橋と本町の曲がり■ - 本町通
農人橋■-中央大通
 久宝寺橋
安堂寺橋
末吉橋 - 長堀通
九之助橋
東堀橋
瓦屋橋
上大和橋
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   
   






Last updated  2020.09.23 00:39:38
コメント(0) | コメントを書く
2020.09.19
カテゴリ:八百八橋散歩

農人橋(のうにんばし)

1600年(慶長5年)の記録に久太郎町橋と記されている橋が最初の農人橋といわれている。
江戸時代後期に刊行された『摂津名所図会』に
「いにしへ川西船場に田圃多くして、上町より農民かよひて耕作をなす」と記載され、豊臣期に市街化していた上町側(東側)から市街化する以前の船場側(西側)の農地へ渡るために架橋された。
江戸時代には谷町筋以東に大坂城代下屋敷・京橋口定番与力屋敷・大坂町奉行御金蔵などが立地し、公儀橋の一つだったが、日常の維持管理は橋周辺の町々に課せられ、東は谷町筋から西は御堂筋あたりの橋筋が橋掛かり町の範囲だった。

明治時代の半ばに鉄柱木橋に架け替えられ、大阪市第1次都市計画事業により1926年(大正15年)に鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け換えられた。

現在の橋は1969年(昭和44年)に中央大通の敷設に伴い架け換えられたもので、このとき初めて上流側(北側)の橋が架橋された。


■東横堀川の橋■上流から
葭屋橋■ - 土佐堀通
今橋
高麗橋
東横堀川水門
平野橋
大手橋
本町橋と本町の曲がり■ - 本町通

農人橋 - 中央大通
久宝寺橋
安堂寺橋
末吉橋 - 長堀通
九之助橋
東堀橋
瓦屋橋
上大和橋
・・・・・・・・・・・・・・・・
バナー ボタン

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   
   






Last updated  2020.09.19 04:42:50
コメント(0) | コメントを書く

全91件 (91件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 ... 10 >

PR


Copyright (c) 1997-2021 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.