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おしゃれ手紙

全19件 (19件中 1-10件目)

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詩歌・名文

2020.11.21
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カテゴリ:詩歌・名文
 奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき
      猿丸太夫
●鑑賞●
人の住む村里から遠く離れた、人の来ない山奥に、絢爛たる紅葉がびっしり敷きつめられたように散っている。
赤や黄色の絨毯のような情景の中から、紅葉を踏みながら鹿が現れる。
角の長い雄の鹿が、天を仰いで一声寂しく高く鳴く。
おそらくどこへ行ったのか分からない連れ合いの雌の鹿を求めて鳴いているのであろう。
その声を聞いていると、秋はなんて悲しい季節なのだろうと思えてくるのだよ。
●作者●猿丸太夫(さるまるだゆう。生没年不詳)
伝説の歌人で、三十六歌仙の一人。
元明天皇の頃の人など諸説ありますが実際には不明です。
この歌も、古今集では「詠み人知らず」として紹介されています。■ちょっと差がつく百人一首■より。

歌の内容からいって今が一番ピッタリくる私の大好きな歌だ。
ところで、「鹿の鳴き声」といえば「鹿鳴館(ろくめいかん)」。

鹿鳴館といえば、明治16年欧化政策のひとつとして建てられた西洋館。
当時の皇族や上流階級の人々によって夜な夜な舞踏会を行い「鹿鳴館外交」が繰り広げられる。
では、なぜ「鹿鳴館」と名づけられたのか?
鹿鳴の宴■という言葉がある。

1 群臣や賓客をもてなす酒宴。
2 中国で唐代、州県の官吏登用試験に合格して都に上る人を送るための宴。


なるほど・・・。
宴をする「館」というわけだったのか・・・。
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Last updated  2020.11.21 00:00:20
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2020.08.07
カテゴリ:詩歌・名文

秋来(き)ぬと目にさや豆のふとりかな  
大伴大江丸       
江戸時代後期の俳人。本名安井正胤(まさたね)。
大坂で飛脚問屋を業とした。職業柄旅をよくし交友も広かった。
古典詩歌のパロディに長じ、この句もそれである。
「古今集」秋の歌、
秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行」を踏む。
「さやか」にかけて「さや豆」とよび出し、
「ふとりかな」で、「風だけではないよ。畑を見ればさや豆が、ほら、ふっくらとふくらんで、ここにも秋が・・・」と俳諧に一転した。「折々のうた」より。
●月見の枝豆
大坂では、枝から外して鞘だけにして売るので「鞘豆」と言うが、
江戸では枝ごと売るので「枝豆」と呼ぶ。
あきない世伝金と銀
 8月7日は、立秋。
「秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
は、立秋の歌。

 模倣から滑稽を産む文化は、江戸期に花開いた。
狂歌百人一首■◎は元歌。

●いかほどの洗濯なればかぐ山で衣ほすてふ持統天皇
◎春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香久山

●山里は冬ぞさびしさまさりける矢張(やはり)市中がにぎやかでよい
◎山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば

●春のよの夢ばかりなるうたた寝にねちがひしたるくびぞいたけれ
◎春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそ惜しけれ

続パロディ「おんな城主直虎」
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Last updated  2020.08.07 00:12:16
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2020.05.04
テーマ:つぶやき(6615)
カテゴリ:詩歌・名文
 悟りといふ事は如何(いか)なる場合にも平気で生きて居る事であった。   正岡子規
 俳人にとって悟りとはいつでも平気で死ねることではなく、生をひたすら愛(め)でることであった。
激痛にのたうちまわるなかでも、弟子たちを頻繁に迎えた。
 薬や麻痺剤を服用する一方で、パン、スープ、鶏卵、刺身、焼き物、飯と三食しっかり食べ、間に牛乳や菓子パンも。
死の直前まで床で画譜画帖(がじょう)を楽しみ、絵筆をとり、料理や社会情勢・教育を論じた。
「病床(びょうしょう)六尺」から。
2016.3.16朝日新聞 「折々のことば」341
病牀六尺 正岡子規 二十一

 俳句や短歌、文章の革新運動を進めた正岡子規は脊椎カリエスに侵され、34歳の若さで世を去った。
その最晩年の随筆『病牀(びょうしょう)六尺』は、明治35(1902)年の5月5日から亡くなる2日前の9月17日まで計127回、新聞「日本」に連載された。
不治の病で床に伏し、激痛と闘いながらも森羅万象への好奇心を持ち続けた日々の記録は、今も読み手の心を揺さぶる。

病床六尺、これが我世界である。
しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。■

6尺は約1・8メートル。
その狭い床からほとんど動けない生活がもう何年も続く。
そんな厳しい病状から書き起こされる日記形式の随筆は、6月以降一日も休まず掲載された。

コロナウィルスで毎日、家に閉じこもる日々。
けれど、買い物くらいは行くことができる。
体力が落ちないように家の周りをウロウロと歩く自由はある。

台所でご飯を作り、食べる楽しみがある。
ネットがあるから、家に居ながらにして、世界の様子が分かる。
ブログだって書くことができる。
なにより、子規のような激痛がない。

子規に比べてなんと自由だ!!
そう思って、もう少しこの時期を耐えようと思う。

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Last updated  2020.05.04 18:09:38
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2020.05.01
テーマ:俳句(503)
カテゴリ:詩歌・名文

春風や鼠のなめる墨田川         小林一茶

上五を「春雨や」「長閑(のどか)さや」とする句稿もある。
墨田川の川べりに並ぶ家から慣れれだす残飯、残菓のたぐいをあさる鼠だろう。
しかしそのことはいわず、鼠が墨田川をなめていると大きくとらえたところに、江戸の春の情感が一気に溢れた。
 一茶は生涯に二万句前後詠んだという多作家で、駄作も少なくないが、この句のように「奇々妙々」(江戸における一茶の後援者で、自らもすぐれた俳人だった夏目成美の評)の作がああるのはさすがだ。 朝日新聞・「折々のうた」大岡信著
■折々のうた■
過ぎてゆく四季の折々に自然の輝きをとらえ、愛する人を想いながら、人びとはその心を凝縮された表現にこめてうたい続けてきた。
「日本詩歌の常識づくり」を目ざす著者は、俳句・短歌から漢詩・現代詩に至るまで、日本人の心のふるさとともいうべき言葉の宝庫から秀作を選び、その豊かな光沢と香りを鑑賞する。
朝日新聞連載一年分に加筆。
小林一茶
信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。

明治25年(1892年)頃から、俳句改革の旗手であった正岡子規が一茶のことを注目し始めたと考えられている。
子規が新聞日本紙上で連載していた「獺祭書屋俳話」の中で、一茶について紹介していたことが確認できる。更に子規は明治30年(1897年)刊行の「俳人一茶」の中で、
 一茶の句の特徴は滑稽、風刺、慈愛の3要素にあるとして、中でも滑稽は一茶の独壇場であり、その軽妙な作風は俳句数百年の歴史の中で肩を並べる者が見当たらないと賞賛した。

一茶の有名な句。

我と来て遊べや親のない雀
 一茶の親友ともいうべき夏目成美は、
「しなのの国にひとりの隠士あり。
はやくその心ざしありて、森羅万象を一椀の茶に放下し、みづから一茶と名乗り」
と、一茶のことを紹介している。
このことから一茶とは、一椀の茶や泡沫のごとき人生を表す無常観に基づく命名であると考えられる。
 ところで、大ヒットした「USA」という歌を歌うのは、DA PUMPのISSA(いっさ)=一茶。

「一茶」という名前は、お茶が沖縄では健康や長寿のために愛され、縁起を運ぶものとして飲まれること、求(ISSAの父)が小林一茶が好きだったことで名づけられ、兄弟は全員「茶」が付いている。

コロナ騒ぎで3月、4月と休みだった句会は、5月も休み。
( ;∀;)
上の写真は、2月10日から3泊4日で行った東京でうつした墨田川。
猪のバトン受け取る鼠かな
昭和のこども茶碗(ねずみ)
必殺、ねずみ返し!
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Last updated  2020.05.01 00:12:53
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2020.04.04
テーマ:短歌(1804)
カテゴリ:詩歌・名文

いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重に にほいぬるかな 
 61番 伊勢大輔(いせのたいふ)

<その昔、奈良の古き都に咲き匂った八重桜
それが今日は九重の宮中に美しく咲き誇っているのです>
 「いにしへ」と「今日」、「八重桜」と「九重」を対応させ、たくみにまとめている。
「九重」は宮中をさす。
昔の中国で宮門を九重にめぐらせたことから
、いった。

「田辺聖子の小倉百人一首(続)」より

田辺聖子の小倉百人一首(上)
田辺聖子の小倉百人一首(続)
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Last updated  2020.04.04 00:46:14
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2020.03.24
テーマ:読書(4335)
カテゴリ:詩歌・名文
桜 ●「願わくは 花の下(もと)にて 春死なむ 
そのきさらぎの 望月のころ」
 西行法師

歌というものは時として、「いかに詠んだか」よりも「だれが詠んだか」の方が重要になる。
『願わくば桜の下で死にたい。
花咲き初める二月の満月の桜の木の下で』。
桜と満月の取り合わせに、今の人は理想的な美の風景を思うかもしれない。
しかし、伝統的な和歌でこれらを合わせて詠むことはない。
過剰なのだ!
盆と正月、寿司とステーキ、山盛りの宝石!!
今日の歌は優雅を遥かに超えて下品なのである。
しかしこれが許される場合がある、詠み人だ。
まあご存知だとは思うが西行である。
西行は花と月という色の極みを求めて仏の道を歩んだ、支離滅裂、むちゃくちゃである。
その人だからこそ成り立つ一首、稀代の作品だ。
今日今宵はまさに如月(旧暦二月)の望月、隈なき月下の桜に出会えたら、彼の狂気を一寸感じられるかもしれない。
●「われ死なば 焼くな埋めるな 野に捨てて
飢えたる犬の 腹を肥やせよ
」(歌川広重)
●「生き過ぎて 七十五年 くいつぶし
限り知られぬ 天地(あめつち)の恩」
(大田南畝)

「この世をば どりゃお暇(いとま)を せん香の
煙とともに 灰さようなら」
(十返舎一九)


石の上3年たったら次の石
 「昭和よ、」より
昔の人の死生観を詠んだ歌。


つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
  古今集 在原業平
(ありわらのなりひら)
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Last updated  2020.03.24 00:02:00
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2019.12.30
テーマ:俳句(503)
カテゴリ:詩歌・名文
夜の雪
降る雪や 明治は遠く なりにけり

中村草田男

草田男がこの句を発したのは昭和になってからでした。
当初は、随分と時間をかけたんだなぁと感じましたが、後年になってその意がわかりかけました。
思いを芸術に高めるには、「発酵」の時間が必要だったのだと。
(略)
濃密な明治を際立たせるために、大正は無視しようと。

「昭和よ、」と平成を切り捨てた着想は中村草田男先生からの流れなのです。(略)

なぜ平成を飛ばしたのかと問われると、平成には「匂い」がなかったからと言うしかない。
30年間という短くない歳月であったが、平成には特別な感慨がない。
(「昭和よ、」より)
昭和よ、
「さらば、平成」と、惜別の思いを綴ろうとしたら、脳裏に浮かぶのは昭和の出来事ばかり。
戦争、復興からバブル景気まで、著者が生きた昭和は激動の時代だった。
本書では、昭和を振り返りながら、82歳のいま思うことを、一人語り調文体で自由奔放に綴る。
世相・文化・芸術・社会について愉快・痛快に論じるエッセイ集。
 「草田男」という号は、父親の急逝後も神経衰弱で東大を休学する草田男に業を煮やした親戚が、
「お前は腐った男」と面罵(めんば)したことに由来する。
無垢な魂がもたらす激しい精神的葛藤に苦しむ草田男が、そこから「逃避行」するために探り当てたのが俳句であり、昭和3年、27歳で本格的に句作を始め、虚子に師事した。
 ■いとおしさ覚える時代
 〈降る雪や 明治は遠くなりにけり〉は昭和6年、中村草田男の句だが、本書を読むと、昭和もまた、歴史になりつつあることがしみじみと感じられる。
 昭和10年生まれの芸能・演劇評論家の著者が、交流のあった文人、芸人たちを描いた近年のエッセーを収めた。
俳優の小沢昭一は「生きてきた昭和という時代の記憶だけで充分商売していける」と言ったそうだが、ひとつの時代を生きた矜持なのだろう。
著者が描くのも、デジタルでは割り切れない、アナログな手触りのある世界だ。
 銀行振り込みどころか〈いつもピン札の原稿料が現金書留で送られてきた〉時代が、生き生きと語られる。現代人が「電子マネーでキャッシュレスに」何でも手に入れることへの違和感を示唆するようだ。
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Last updated  2019.12.30 00:17:44
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2019.09.16
カテゴリ:詩歌・名文
おじいちゃん、おばあちゃんの最後のつとめは、孫や家族に自分が死ぬところを見せることではないか。
池田清彦

死がベールの向こうに置かれる。
街には犬の死骸すらない。
延命処置で、「いまわの際」をしかと看取(みと)るのも難しくなった。
生と死は一続きなのに、死は見えにくくされる。
死を特別扱いせずに、死骸が鳥たちに啄(ついば)まれ、きれいな白骨になって「土に還る」という自然のサイクルを心に留めるべしと、生物学者は言う。
「ほどほどのすすめ」から。
2019.1.31朝日新聞「折々のことば」

「子どものために犬を飼うといい」という一文を読んだことがある。
犬は、子どもが小さいうちには、よき遊び相手となる。
子どもが少し大きくなると、人間より寿命が短い犬は、死ぬことによって、子どもに命は永遠ではないということを教える。
核家族や医療の発達によって、人間の「いまわの際」を見ることが出来ないので犬に求めたのだと「折々のことば」を読みながら思った。
今日、9月第3月曜は、敬老の日。
折々のうた:塩田
折々のうた:蝉と蛍
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Last updated  2019.09.16 00:02:51
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2019.08.19
カテゴリ:詩歌・名文
石狩挽歌(いしかりばんか)
作詞:なかにし礼
作曲:浜 圭介
歌唱:北原ミレイ

(一)
海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ
雪に埋もれた 番屋の隅で
わたしゃ夜通し 飯を炊く
あれからニシンは どこへ行ったやら
破れた網は 問(と)い刺し網か
今じゃ浜辺で オンボロロ
オンボロボロロー
沖を通るは 笠戸丸
わたしゃ涙で ニシン曇りの 空を見る


(二)
燃えろ篝火 朝里(あさり)の浜に
海は銀色 ニシンの色よ
ソーラン節で 頬そめながら
わたしゃ大漁の 網を曳く
あれからニシンは どこへ行ったやら
オタモイ岬の ニシン御殿も
今じゃさびれて オンボロロ
オンボロボロロー
かわらぬものは 古代文字
わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る

 1975年7月に発表された「石狩挽歌」の挽歌とはエレジー、つまり悲しみを表現した歌のことである。
石狩の海の鰊漁を舞台に、大きな夢を見て それをつかめないままに終わってしまう男、そんな男と人生をともにする女の気持ちが、鮮やかな情景とともにうたわれている。
 なかにし礼自身の幼少時の体験、兄に対する複雑な気持ち、人生に対する想いが織り込まれている。
なかにし礼には、15歳年上の、破滅傾向で疫病神のような兄・正一がおり、その兄が引き起こすトラブルや葛藤が人生にしつこくつきまとった。
幼少時、なかにし家は貧困の中にあり、兄はバクチのような鰊漁を行ったことがあり、せっかく大漁に恵まれたのに、それで満足せず、わざわざ本州まで運んで高く売ろうとしたために、結局せっかくの鰊も腐らせてしまい、全てを失い膨大な借金だけが残ってしまった。
そして一家は離散することになった。
なかにしの内にある、そうした原体験とでも呼べるようなものがこの歌には込められているのである。
ある時期、なかにし礼は作詞に行き詰まっていたが、そこに兄が現れ、兄自身が「鰊のことを書けばいいじゃないか」と言ったという。
そうしてこの作品は生まれた。
ただし、こうした体験をただそのまま表現しただけでは なかにしの体験をしていない人の心にはすんなり響かないだろうから、聞く人と気持ちを共有できる言葉を詩に織り込んだ、といった主旨のことを なかにし礼はあるテレビ番組のカメラに向かい語っていたことがある。

小樽市の西北に位置する祝津岬にある

鰊御殿の旧青山別邸(小樽市祝津3丁目63)には、
 
▲石狩挽歌の記念石碑と なかにし礼直筆の歌碑がある。▼
 
石狩挽歌は
ニシンの群来を願う漁師の切ない心を歌った曲。
では、この歌は、いつ頃の小樽をイメージしてできた歌なのでしょう?
歌ができた当時は昭和50年ですから、日本海側のニシン漁はサッパリで、ニシン御殿も「オンボロロ・・・♫」の時代です。
ヒントは2番の歌詞の「沖を通るは 笠戸丸」にありました。

「笠戸丸」は、明治33年に造船。
太平洋航路、南米航路、台湾航路の貨客船、豪華客船としての活躍後、漁船となった。

昭和20年8月9日(ソ連参戦の日)、カムチャツカ半島西岸の日魯漁業ウトカ工場沖に停泊中にソ連軍に接収され爆沈。

8歳のなかにし礼は、兄の中西政之が増毛でニシン漁を行なったのを見ているのです。
結論としていえば、第二次大戦中末期の北千島ホロムシロ島への輸送船のときの光景と考えるのが自然ではないでしょうか・・・。
いずれにせよ、中西少年は実際にその姿を見てはいません。
しかし、チラリと「笠戸丸」を歌詞に挟むところは、さすがに、阿久悠と並ぶ2大作詞家の面目躍如! ですね。

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Last updated  2019.08.19 08:42:02
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2018.04.02
テーマ:俳句(503)
カテゴリ:詩歌・名文
花衣(はなごろも)ぬぐやまつはる紐(ひも)いろいろ

杉田 久女(ひさじょ)

『杉田久女句集』(昭27)所収。
大正時代は虚子門下に女流俳人が輩出したが、久女の情熱的で大胆な作風はひときわ目立った。
美貌をうたわれたが実生活では悲劇の人で、句集も没後七周忌に初刊行。
花衣は花見の衣装。
花見帰りの軽い疲れに体をほてらした女が、
一本一本着物を紐をほどき捨てていきながら、あらためて紐の多さにわれと驚いている風だが、そこにこそ女の知る愉悦も快感もあったし、またみずから桜となって花びらを散らす思いもあった。

 なんともはんなりした句だろうとうっとりしてしまう。
こんな句が作れたらいいなと熱心に
 「プレバト」で夏井先生の俳句の評を見ている私は思う。
 この句を見ながら思ったのは、■細雪■。
「細雪」では、次女、三女、四女の三姉妹と、次女の夫、娘が花見に行く。
行先は京都で、必ず一泊。
次女と夫はもう一泊することもある。

もちろん、姉妹と次女の娘は着物で行くのである。
今でいうところの、「インスタばえ」する美しい彼女たちは、何度も知らない人からカメラを向けられる。
★で、常例としては、土曜日の午後から出かけて、南禅寺の瓢亭で早めに夜食をしたため、これも毎年欠かしたことのない都踊を見物してから帰りに祇園の夜桜を見、その晩は麩屋町の旅館に泊って、明くる日嵯峨から嵐山へ行き、中の島の掛茶屋あたりで持って来た弁当の折を開き、午後には市中に戻って来て、平安神官の神苑の花を見る。

 「花衣ぬぐやまつわる紐いろいろ」は、京都であちこち回って高揚した気持ちで着物を脱ぐ「細雪」の姉妹を思い浮かべる俳句だ。

さあ、私も桜を見に行こう。
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Last updated  2018.04.02 00:13:02
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