10日間ギリシャ旅行:コリントス運河
4月10日(水)から4月19日(金)の10日間、ギリシャに行ってきた。■4月10日(水)夜11時過ぎというか12時前に関空出発。■ギリシャは、南ヨーロッパに位置する国。■日本語による公式名称はギリシャ共和国で通称はギリシャまたはギリシア。2011年国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人、面積は日本の約1/3である。首都はアテネ。ギリシャの地理はヨーロッパの南東端にありアジア及びアフリカの交差点という戦略的立地にある。だから、飛行機は、エミレイツ航空でドバイ経由。ギリシャの豊富な遺産は17件の世界遺産数にも反映され、ヨーロッパ及び世界有数である。数多くの資格や許認可が政治家に委ねられている構造を背景に賄賂や汚職、脱税が横行しており、汚職指数はヨーロッパの国家の中でもイタリアと並び高いレベルにある。ギリシャ危機に象徴される根深い経済問題に悩む。 国際連合原加盟国であり、欧州連合の前身である欧州諸共同体の10番目の加盟国で、2001年以来ユーロ圏の一部である。ギリシャは世界有数の海運国及び観光立国であり、バルカン半島最大の経済規模を有し、重要な地域投資国である。■4月11日(木)4月10日(水)の夜遅く関空を出た飛行機は、約10時間半の飛行でドバイ空港に着いた。ドバイからアテネまで約5時間10分。日本からだと15時間以上飛行機で飛んでやっと、4月11日(木)の15時にアテネに着いた。アテネからバスでコリントス運河を見に行く。■コリントス運河は、■ギリシャのコリントス郊外にある運河。ペロポネソス半島の根元にあるコリントス地峡に開削されたもので、エーゲ海とコリンティアコス湾を結び、1893年に完成した。 全長6343m、運河の幅は水面部で24.6m、河底部で21m、深さは8m、運河の途中に鉄道橋と道路橋があり桁下は52mとなっている。丘の高いところでは標高約79mほどもあり、丘の区間では両側に高く切り立った崖がせまる細い水路を船が通過する。鉄道橋があるところでは標高60m のところに開口部に長さ約33mほどの鉄橋がかかっている。大きな船はタグボートに曳航されて水路を通る。 (▲赤の航路がが緑の航路に短縮された。)この運河の開通で、従来のペロポネソス半島を大きく迂回するルートに比べて航路が400kmあまり短縮された。しかし、幅が狭いため大型貨物船の通航はできず、現在では主に観光船の通航に利用されている。年間11,000隻あまりの船がこの運河を往来する。 ■歴史■コリントス地峡に運河を掘る考えは古くからあり、古代ギリシア時代、紀元前7世紀末頃のコリントスの統治者ペリアンドロスもその1人だった。その後も幾度か運河開削の構想がおこっていた。紀元前3世紀ごろ、マケドニア王デメトリオス1世ポリオルケテスが建設を試み挫折している。古代ローマ時代にもカエサルやカリグラ帝も関心をもった。 ネロ帝の時代になると、実際に大規模な開削が試みられた。67年にネロ帝は6000人の奴隷を動員して運河の開削を行い、3.3kmあまりを掘ったが、途中、ローマでガルバらの反乱が起こりネロは自殺、彼の死後、帝位についたガルバ帝によって工事は中断された。ネロの時代に計画された運河は現在のコリントス運河があるルートと同じところにあり、古代ローマの土木建設技術の高さがうかがわれる。 時代が下って、1869年にエジプトでスエズ運河が開通すると、これに触発されてギリシアでもコリントス運河建設の機運が高まった。1869年に運河建設のための法律が整備されフランスと工事を契約した。その後、しばらく工事が行われないまま時間が過ぎたが、1881年にハンガリーの Stefan Tyrr らに事業が引き継がれ、1882年4月に本格的に工事がはじまった。途中、出資元のフランスの企業が倒産する災難も起こったが、ギリシアの会社に引き継がれて工事は継続され、1893年に完成にこぎつけ、同年7月25日に開通式が行われた。 コリントス地峡の岩盤はもろいため岩盤が崩落することもあり、大規模な崩落の復旧のため運河が長い間閉鎖されることもあった。また、第二次世界大戦中にはドイツ軍が運河を利用するのを阻止するため、1944年には意図的に運河を破壊せざるを得ないこともあった。この復旧には5年あまりかかった。コリントス運河からバスで2時間ほど行ったところのカラブリタという小さな町で一泊。 ■機中泊&FILOXENIA&SPA(フィロクセニア&スパ)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・