九州旅倶楽部
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実家の庭のキーウィフルーツ実家の庭のキーウィフルーツが丸々と実っていました。完熟したキーウィフルーツをジャムにして、ヨーグルトにかけて食べるのも美味しいですね
2011.09.18
ルドベキア・トリロバ実家の庭に大量に咲いていました。とっても強く、繁殖力の強い花の様です。昨日、一昨日と風が強かった影響で、ご近所の倉庫やカーポートの波板の屋根がバタバタとずーーっと音を立てていました。1軒のお宅の屋根は壊れてしまっていて、風の強さを物語っていました。今朝は静かな朝です。今炊飯器で栗ご飯を炊いています。美味しくできるといいな~
2011.09.04
実家の竹垣に生えていた謎のきのこお盆休みに実家に帰った時、庭の竹垣にちっちゃくて黄色いきのこのようなものが生えていました。もう9月になっちゃいました今年もカレンダーがあと4枚。月日の経つのが滅茶苦茶早く感じます。9月はイベントが多いから、一段と早く終わっちゃうような気がします。以前一緒に働いていた「ほ」が付く美人秘書さん。先日久しぶりにお会いできてとっても嬉しかったです彼女は頭の回転が速いし、気が利くし、優しい楽しい同僚でした。彼女はすごく仕事ができて、性格もいいし、一緒に仕事をしていて楽しかったな~。スピードもあるし、ミスもない。仕事も完璧で気配りもピカ一!情報もたくさん持っていて、いろんなお話をするのがすっごく楽しかったな~。やっぱり仕事ができる人が好き
2011.09.01
三府御門佐伯市にて
2011.02.28
三余館の壁面タイル絵
2011.02.27
三余館の門扉
2011.02.26
国木田独歩館資料室2階国木田独歩資料室として利用されています土蔵の1階には、独歩の生い立ちや文学的な特徴を、資料とグラフィックで解説しています。佐伯との出会いやその後の足跡、書簡なども展示されています。土蔵の2階には、独歩の作品を手にとって読書を楽しめるコーナーや、貴重な初版本の展示を行っています。また、一人ずつ椅子に腰かけて閲覧することができる独歩デジタル文庫では、佐伯に関わる作品をわかりやすく説明し、画像や音声が飛び出す電子ブックがあります。独歩ファンにはたまらない空間ですね。
2011.02.25
国木田独歩館(旧坂本邸)の白壁土蔵現在は、国木田独歩資料館として利用しています。
2011.02.24
国木田独歩の写真が載っている幕独歩資料館として利用されている土蔵の入り口に掛かっています。国木田独歩は、明治41年(1908年)6月23日に満36歳で亡くなりました。佐伯の鶴谷学館に、英語と数学の教師として赴任していたのが、1893年10月~1894年6月末の9ヶ月間ですので、この写真はその頃のものでしょうか?
国木田独歩館の前庭独歩が生活をしていた2階の窓からよくみえます。窓際の文机に向かい、何を思いながら筆を運んでいたのでしょうね。国木田独歩館の裏庭の池裏庭園は、城山の麓にあたる地形を活かし、立体的に構成されています。湧水を溜めた池があり、縁側からちょうど池が見えるので和みます。国木田独歩は、裏山にあたる城山の山上まで、散歩することが多かったそうです。
2011.02.23
初代独歩碑国木田独歩館の裏庭にありました。短い期間しか佐伯に滞在していなかったにも関わらず、こうして佐伯の方々に愛され続ける独歩。佐伯の方を魅了して止まない独歩とはどのような方だったのでしょう?佐伯の自然を愛していた独歩は、何故短期間で佐伯を離れなければならなかったのでしょう?国木田独歩館に資料がありますので、是非各々の答えをみつけてください。初代独歩碑について(碑文より) 明治の文豪・国木田独歩を称えるこの「独歩碑」は、昭和11年6月に、佐伯独歩会によって城山西の丸の一角に建立されました。 その後、碑は壊れて碑文も読めなくなっていましたが、このたび、碑創建当時の「豊州新報」によって全文が判明し、さらに独歩ゆかりの旧坂本家邸内に、この碑を移設できたことは大変な喜びです。 独歩がこよなく愛した城山を背景にたたずむこの碑を象徴として、今後とも独歩文学を愛する心を佐伯の地に培い育ててゆきたいものです。 平成16年6月吉日 坂本家・佐伯独歩会「独歩碑」の全文は次の通りです。 ◆昭和11年6月25日付「豊州新報」(大分合同新聞社提供)より◆ 國木田獨歩は明治26年23歳の時 鶴谷学館の教師とし佐伯に来り約1年を当地に過ごした、佐伯を題材とした彼の作品は処女作「源をぢ」をはじめ「鹿狩」「春の鳥」等があり当時の生活は「欺かざるの記」に委しい。 彼は佐伯の自然を愛し閑暇ある毎に四辺を跋渉、殊にこの城山は朝夕逍遥して瞑想するところであった。 昭和11年6月23日
旧坂本邸(国木田独歩館)1階この縁側からは、裏庭の池がよくみえます。独歩が過ごした明治時代の佐伯を紹介する写真コーナー、作品に描かれた情景をイメージした映像展示、企画展示室があります。当時の居間を活かした休憩室も利用できます。
2011.02.22
国木田独歩館2階上り口階段を上ってすぐのところです。ここを挟んで右手(通り側)の6畳間を独歩が使い、左手(裏庭側)の3畳間を弟の収二が使っていたそうです。国木田独歩と弟収二の下宿先 (現地案内板より) 2階の6畳間は、国木田独歩が鶴谷顎間に赴任していた10ヶ月間下宿してた部屋になります。 3畳間は、同行していた弟・収二が過ごしました。3畳間には、当時の鶴谷顎間の現金出納帳等の帳簿を展示しています。★天井の低さのヒ・ミ・ツ★ この建物は当初平屋造りだったのですが、こちらに移築した際、中二階として部屋を増築したため、1階の天井と2階の天井が低くなっています。
国木田独歩館2階国木田独歩が下宿していたのは、この部屋です。坂本邸の母屋の2階です。天井は低いですが、窓からの眺めはいいですね。右奥の窓のすぐそばにある小さな机は、独歩が愛用していた文机だそうです。階段を2階へ上ってきたところです。手摺や丸窓に趣がありますね。
2011.02.21
国木田独歩館 外観この建物は、幕末に建てられた旧坂本邸です。築150年以上建っているそうです。所在地:大分県佐伯市城下東町9番37号 国木田独歩は、鶴谷学館の教師として佐伯に招かれ、明治26年10月から明治27年6月末までの10か月余りの間、この坂本邸に滞在していました。 ここの家主であった坂本永年は、鶴谷学館の館長でした。公私ともに独歩の面倒をみてたそうです。
2011.02.20
国木田独歩館所在地:大分県佐伯市城下東町9-37開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は開館し、翌日が休館)入館料:大人¥200-. 小・中学生¥100-.国木田独歩と弟の収二が下宿していた坂本邸を修復して公開しています。館内には作品や関連品が展示されています。
2011.02.19
養賢寺の浴室禅僧にとってもお風呂も修行の一環だそうです。
2011.02.18
養賢寺飾り瓦に亀巴瓦が使われていました。亀の縁起瓦とも呼ばれています。亀というより、玄武(げんぶ)のような感じですね。こちらの亀巴瓦は、少しデザインが違いますね。
2011.02.17
養賢寺迫力がある鬼瓦が二つ並んでいます。大きな鬼瓦が二つ並んでいるのは珍しいですね。
2011.02.16
養賢寺迫力満点の鬼瓦が並び、立派な懸魚が格式を感じさせます。「普月院」と書いているのでしょうか?
2011.02.15
養賢寺の鐘楼
2011.02.14
龍鼎山 養賢寺専門道場残念ながらこちらは立ち入り禁止になっていました。龍鼎山養賢寺専門道場(りゅうていざんようけんじせんもんどうじょう)(以下現地案内板より) この寺は、慶長10年(1605年)佐伯藩初代毛利高政公が鶴屋城の創築及び城下町づくりと時を同じくして、毛利家の香華院(菩提寺)として創建したもので、開山第一祖は京都妙心寺から大観慈光禅師を招き、臨済宗妙心寺派に属する。 虚空高々と銅瓦葺きの大屋根がそびえる本堂、その須弥壇には本尊釈迦牟尼仏が拝され、その隣には藩祖高政公をはじめ、歴代藩主の位牌が並び、大名の香華院としての森厳さを示している。 本堂につづく閑静な大書院、大屋根そそり建つ古風な庫裡、方桁造りの位牌堂、江湖専門道場としての禅堂、白堊塗込めの経堂など伽藍うち並び、四百年近い歴史のたたずまいを深々と示している。 本堂の裏手一段高いところに、藩祖高政の霊廟をはじめ、歴代藩主の墓塔立ち並ぶ毛利家の墓所がある。 なお、この山際通り一帯は「歴史と文学のみち」として整備し、歴史的環境保存地区に指定されています。 佐伯市教育委員会
2011.02.13
養賢寺の大屋根本堂に続く閑静な大書院と大屋根がそそり立つ古風な庫裡と、方桁造りの位牌堂、江湖専門道場としての禅堂、白亜塗り込めの経堂など伽藍うち並び、背後には城山があり、歴史を感じる佇まいとなっています。養賢禅寺の寺号額
2011.02.12
臨済宗 龍鼎山 養賢寺 (りんざいしゅう りゅうていざん ようけんじ)養賢寺は毛利藩主の菩提寺です。開山:慶長10年(1605年)所在地:大分県佐伯市城下東町本堂の裏には毛利家歴代藩主たちの見事な五輪塔が佇んでいます。
2011.02.11
佐伯市のマンホールの蓋「佐伯の春 先ず城山に来り」 独歩国木田独歩の「豊後の国佐伯」の一節が書かれています。三の丸櫓門とサザンカも描かれています。佐伯市の市花はヤマザクラなのですが、この花は山茶花(サザンカ)のようです。佐伯の春先づ城山に来り、夏先づ城山に来り、秋又早く城山に来り、冬はうそ寒き風の音を先ず城山の林にきく也。城山寂たる時、佐伯寂たり。城山鳴る時、佐伯鳴る。佐伯は城山のものなればなり。(国木田独歩 豊後の国佐伯より)小さいマンホールの蓋もありました。
2011.02.10
馬場広場のヤクタネゴヨウ松観音像がある馬場広場に立派なヤクタネゴヨウマツがありました。鹿児島の磯庭園の屋久種五葉松と一緒のものだそうです。鹿児島と佐伯、繋がりがあったのですね。ヤクタネゴヨウマツ (以下現地案内板より) この松は、昭和49年10月、31代島津家当主・故島津忠秀氏より贈られたものである。島津忠秀氏は、薩摩藩主・島津氏の直系。 この松は、島津家の別邸・磯庭園にある屋久種五葉松であり、昭和47年、鹿児島で開催された国民体育大会に昭和天皇・皇后両陛下が磯庭園を行幸の際に島津忠秀が献上した松と一緒のものであるという。 佐伯市
2011.02.09
馬場広場の観音様 馬場広場に、優しくて可愛らしい観音像がありました。観音様の下に刻まれている、「慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)」とは、観音経の中にある言葉で、「観音様は何時も優しく慈愛の(思いやりの)眼をもって、私達生きとし生ける衆生を見て下さっています。」というような意味だそうです。馬場広場にて所在地:大分県佐伯市城下東町(普賢寺の近くです) 馬場広場 (現地案内板より) この広場の中にある忠魂碑は、旧佐伯藩時代の馬場先御番所跡地(関所)に、昭和10年(1935年)旧佐伯藩、日清、日露戦争で亡くなった人達の魂を鎮めるために建立した。その忠魂碑を取り入れ、以前よりあった松の古木を中心として新たに樹木等を植栽して、馬場土手と一体化し、和風庭園に整備した。 佐伯市
2011.02.08
豊日神楽面工房にて豊日神楽面工房では、神楽用の神楽面のみならず、家庭用や贈答用の神楽面なども販売しています。魔よけや開運などの目的で飾るのもいいそうです。魔よけにはよさそうですね。
2011.02.07
豊日神楽面工房(ほうにちかぐらめんこうぼう)佐伯の城下町に神楽面工房がありました。詳しくは、下記のホームページをご覧ください。豊日神楽麺工房のホームページ
汲心亭 客室の床の間汲心亭の客室 汲心亭(きゅうしんてい)のパンフレットよりお茶を汲むといことは、お客様に心を汲んで接待するということから命名されました。日本の道百選の「歴史と文学の見寺・武家屋敷通り」の半途にあって、毛利氏の居城 鶴屋城址「城山」を背景に、正門は同藩の「薬医門」を復元、周囲の歴史的景観に調和した閑静な佇まいは散策の憩いの場としてどなたでも気軽に立ち寄られ、親しまれています。本館の「更深軒」は、茶道の本元、大徳寺「福富雪底」館長より命名していただきまいsた。路入桃源深更深(路は桃源に入りて深くして更に深し)との意味です。木造平屋建、屋根は銅板葺、客室は8畳(2室)6畳(1室)他、付帯設備からなり(定員30名)。茶庭は、城山の借景を利用し修め景を施した枯山水。心おちつく空間となっています。
2011.02.06
佐伯むすめ汲心亭の抹茶セットのお菓子です。佐伯むすめは、甘さ控えめでいい塩梅のお菓子です。2年前の秋に汲心亭に伺った時もこのお饅頭が印象的でした。今回も変わらず同じお饅頭「佐伯むすめ」を頂けて嬉しかったです。汲心亭のお抹茶セットのお菓子は佐伯むすめが定番だそうです。 佐伯むすめは、お菓子のうめだの自家製の餡を使ったお饅頭です。一口サイズの小ぶりで可愛いお饅頭です。上品な小豆の餡は、小豆の皮をとって練りこんでいて、なめらかで口当たりがとってもいいです。皮には味噌を練りこんでいますので、ほどよい塩味がアクセントになっています。
汲心亭にて抹茶とお菓子のセット¥300-.庭を眺めながらゆっくりとお菓子とお茶を頂きました。
草庵五味庵汲心亭の庭の中にある茶室です。五味庵(ごみあん) (以下 汲心亭のパンフレットより)人の心のあり方によって、お茶の味がさまざま(五味・五つの味「甘い・辛い・すっぱい・苦い・塩からい」に変化します。その五つの味を味わうことのできる場ということから「五味庵」と命名されました。木造平屋建、屋根は茅葺き、銅板葺、外壁は土壁塗りの草庵が風格を醸し出しています。
2011.02.05
汲心亭の庭城山を背景に、ホウキ目が美しい白砂と庭石。初夏にはヤマボウシの白い花がたくさん咲くそうです。
2011.02.04
茶室 汲心亭所在地:大分県佐伯市城下西町3番13号利用可能時間:9:00~17:00城山(鶴屋城址)を背景に、正門は同藩の「薬医門」を復元したものです。お茶を汲むということは、お客様に心を汲んで接待するということから「汲心亭」と命名されたそうです。
2011.02.03
山中家屋敷跡文政9年(1826年)の絵図に「山中加左衛門」の名前が書かれていました。以降、ここは現代まで山中家の屋敷地でした。平成8年までは屋敷も残されていました。屋敷跡には、建物の礎石や縁石、庭石などが残されていました。建物の間取りや庭園のデザインに江戸時代の特徴が見られます。 山中家屋敷跡(現地案内板より) 鶴屋城(佐伯城)の麓にあたるこの地区は、江戸時代には佐伯藩の上級武士の住む屋敷が建ち並んでおり、今でも当時の景観が残されています。 山中家屋敷跡はその一角に位置します。平成22年に、残されていた建物の礎石などを活かして広場として整備しました。 平成22年3月 平成21年の発掘調査で、江戸時代後半から明治にかけての陶磁器や金属製品、ガラス製品などの日常生活品が出土しました。
2011.01.27
山際史跡広場所在地:大分県佐伯市城下東町779番地開園時間:8:30~17:00閉園日:毎週月曜日(但し月曜が休日の場合は、翌日)・年末年始(12/29~1/3)山際通り山際通りは、江戸時代に佐伯藩の上級武士屋敷が建ち並んでいたところです。今でも当時の景観が残されています。山際史跡広場は、その一角に位置しています。建物の礎石や縁石、庭石などを活かして整備された広場です。ベンチがありますので、城下町の散策途中の休憩にぴったりです。
佐伯の城下町にて 波付き亀巴蓋佐伯の城下町を散策中、亀巴蓋をあちこちでみかけました。亀巴蓋は飾りだけではなく、火災などから守る、お守りの意味もあるそうです。この亀さんは、首も尾も長いですね。いい波に乗っていますね。
2011.01.26
佐伯の城下町にて城下町を散策していると、屋根の上に大きな鬼瓦が睨みを効かしていました。ちょっと出っ歯気味の鬼さんですね。こちらの鬼瓦の鬼さんの方が顔が厳ついですね。
2011.01.25
佐伯の城下町にて菊の巴蓋が上がっていました。巴蓋(ともえふた)とか留蓋(とめふた)とも呼ばれています。従来は、屋根の四方の重なり部分からの雨漏りを防ぐために置かれたものだそうです。お椀を伏せたような瓦が多いのですが、獅子、菊、ボタン、波、恵比須さん、大黒さん、亀、鶴など装飾性が高い巴蓋もあちこちで見かけます。「巴蓋」と変換したいのに「巴豚」と出てきてしまいました。ぬ
佐伯の城下町にて 佐伯の城下町には、趣があるお屋敷がたくさんあります。 佐伯市史には、「佐伯の城下町には、文化7年(1810年)の人口調査によると、219戸、1,004人と藩士339戸、1,762人を加えた約2,700余りの人々が生活していた。また、文政9年(1826年)の商家の数は 129軒であった。」と書かれています。 江戸時代の人口調査って、どのようにして行われていたのでしょうね?現代のようにインターネットも電話もパソコンもないから大変な作業だったでしょうね。
2011.01.24
佐伯の城下町にて赤いポストが城下町にぴったりですね。 今日、会社の給湯室のガス湯沸かし器が壊れてしまいました。すっごくガス臭くなって、お湯もでなくなってびっくり急いでメンテナンスさんを呼びました。「修理するから1週間位使用禁止です。」え~、なんてことを!お茶わんや布巾を洗うのが大変。手が冷たくてちぎれそうです。困ったものです
安井(あんせい)の井戸城下町の町並みに、古い井戸がありました。昭和初期まで生活用水として使われていたそうです。このまま保存されているのが素晴らしいですね。 安井の井戸 (佐伯市指定文化財)(以下現地案内板より) この井戸は藩井今泉元甫(げんぽ)が飲用水に苦しむ城下町の人々のために私財を投じて掘った。三つの井戸(今泉元甫の三義井(さんぎせい))、安井(あんせい)・?泉(あせん)・甘泉(かんせん)の一つである。 寒い日が続きますね。インフルエンザも流行っているとか。お体にはくれぐれも気をつけてくださいね。
2011.01.23
佐伯藩三泉の一 ?泉 の平成塔佐伯市藩の城下町は元々は干潟だった為、飲料水に困っていたそうです。当時の藩医・今泉元甫が私財を投じて井戸を掘ったそうです。?泉と安井と甘泉の三つの井戸は、「今泉元甫の三義井」と呼ばれています。これらの井戸は昭和初期まで、生活用水として使われていたそうです。佐伯藩三泉の一 安井戸 の平成塔
佐伯の城下町佐伯の城下町は、白壁土塀が続く、趣がある町並みです。国木田独歩によって、小説の中に描かれいる佐伯の城下町。国木田独歩の小説の一節を諳んじながら、佐伯の城下町をのんびりと散策しました。城下町佐伯の昔と今明治4年頃の佐伯藩時代屋敷図 城山の文学 (現地案内板より) 城跡には国木田独歩文学碑がある。 国木田独歩の「春の鳥の一節」 頂上には城跡が残っています。高い石垣に蔦葛(つたかずら)がからみついて、それが真紅に染まっている塩梅など得も言われぬ趣でした。昔は天守閣の建っていたところが平地になって、何時しか姫小松疎らに生いたち、夏草が隙間なく茂り見るからに昔を偲ばす哀れな様となっています。 私は草を敷いて身を構えた数百年の斧の入れた事のない鬱たる深林の上を見越しに、近郊の田園を望んで楽しんだことも幾度であるか解りませんほどでした。
2011.01.22
城山周辺案内図鶴屋城の沿革 (現地案内板より)慶長11年(1606年)築城・竣工元和3年(1617年)二の丸失火炎上寛永14年(1637年)三の丸築城明治2年(1869年)版籍奉還廃城鶴屋城(山城)鳥瞰図豊後佐伯城 別名・鶴谷城 鶴屋城の規模 (現地案内板より) 御城直高(三の丸より):60間(約110m) 御城台地形・長さ:80間(約160m) 御城台地形・幅:13間~20間 御天守台石垣:7間半×8間半 御城地形総廻り:333間余(1055m) 御城山廻り:27町30間(3km) 三の丸より山城まで:390間(527m) 鶴屋城の建物 天守閣:三層 二十櫓:五か所 櫓門:四か所 平櫓:一か所 冠水門:八か所明治時代に城を壊してしまったのは、本当にもったいなかったですね。日本中にどれだけの立派なお城があったかと思うと残念です。奇跡的に残っているお城が、これからも保存され続けますように。
2011.01.21
佐伯文庫跡大分県佐伯市大手町 三の丸公園内佐伯文庫は、八代藩主高標(たかすえ)が創設しました。和漢洋書八幡巻を二棟の書庫に納め、書物奉行所を置いて管理させました。十代高翰(たかなか)は約二万巻を幕府に献上しました。佐伯文庫の蔵書には「御禁書」十数冊も含まれていたそうです。図書館が大好きな私にとっては、身近に充実した図書館があるととっても嬉しいです。江戸時代に既にこのような文庫があったのは、佐伯の文化や教育の質の高さを感じます。すばらしいですね。図書館って夢と希望がいっぱい詰まっている気がします。 佐伯文庫 (以下現地案内板より)〇佐伯藩八代藩主毛利高標は学問を奨励し、安永6年(1777年)城内に藩校「四教堂」を創立、天明元年(1781年)三の丸に「佐伯文庫」を創設し、書物奉行を任命した。〇高標の収集した蔵書は八万巻にもおよび、大部分は中国(宗・元・明・清)の本であり、分野は儒教の四書五教をはじめ歴史書・詩文・仏典・医学書・数学書・天文・生物学と多岐にわたる。またオランダ語やフランス語で書かれた植物書や医学書・世界地図など西洋の本も含まれていた。〇文政7年(1824年)十代高翰のとき二万巻余りが幕府に献本され、現在は、宮内庁書陵部・国立公文書館・内閣文庫・国立国会図書館に保管されている。佐伯に残された書物は明治以降に散逸し、毛利家から寄贈された二千九百余冊が佐伯市に保管されている。 平成18年4月吉日 四教堂塾建立 気が付くと昨夜(1/19)、300,000アクセスを超えていました。いつも御来訪くださる皆様、ほんとうにありがとうございます。細々とですが、これまでブログを続けることができたのは、本当に皆様のお蔭です。感謝しています。これからも九州の情報を写真満載で紹介していきたいと思っています。どうぞ今後もよろしくお願いします。
2011.01.20
野村先生像昭和35年1月再建大分県佐伯市大手町 三の丸公園内 野村越三 (1884.6~1925.4.29) 佐伯市山際出身 佐伯小学校の教師だった野村越三は、大変優秀で人柄も素晴らしいのみならず、スポーツの重要性を認識し、スポーツ教育指導にも力を注ぎ、スポーツ振興にも力を注いだ方です。当時、佐伯小学校は優秀校として文部省から表彰されるほどの実績をあげています。文武両道、人間性も素晴らしい野村先生は、生徒にも父兄にも教師にも尊敬されていました。 すばらしい先生、師との出会いは、人生をも大きく変えてくれます。佐伯市の方々に今でも尊敬し続けられている野村先生は、本当に素晴らしい方だったのでしょうね。そして、その恩義を忘れず、語り続けている佐伯市の方も素敵だと思います。
村上勇先生の銅像大分県佐伯市大手町の三の丸公園にて 村上勇(むらかみいさむ)1902.4.7~1991.1.28 佐伯市出身(旧・南海部郡大入島村) 元自由民主党衆議院議員、第三次鳩山内閣で郵政大臣、第二次岸内閣改造内閣で建設大臣、三木内閣でも郵政大臣を務めました。 初期の村上派には、稲村左近四郎(石川県羽咋市出身)、大野明(岐阜県出身・出生地は東京都)、神田博(新潟県東蒲原郡阿賀町)、佐藤文生(大分県別府市出身)、田村元(三重県松阪市出身)、徳安実蔵(鳥取県出身)、原田憲(大阪市出身)、福田篤泰(東京都出身)、三原朝雄(福岡県遠賀郡遠賀町)がいました。 1983年に引退し、衛藤征士郎(大分県玖珠郡玖珠町出身)が地盤を引き継ぎました。
2011.01.19