私訳・源氏物語

[古典文学] カテゴリの記事

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• 鬱気分の樋口一葉　-2-

  一葉の作品に、紫式部と清少納言とを比べた短文がある。「ある人の元にて、紫式部と清少納言の善し悪し如何に、など言ふ事の侍りし。人は式部、式部と、ただ褒めに褒めぬ」　一葉は式部の才能は認めながらも、「本当に式部の方が上なのだろうか。式部の才能はともかく、清少納言は世にも気の毒な人ではないか。名家の末に生まれしゆえ、世の評判も軽くはなかっただろう。しかし何事につけ女というものは経済的に頼りない存在だから、しっかりした後ろ盾もなく、世の中に放り出されたような育ち方をした。そのために世の中の哀しさ辛さなどを身に沁みて感じる事が多かったにちがいない」（以上、私訳）といった具合に、清少納言のみじめなおい立ちに想いを馳せ、肩を持っている。ところが式部については、「富裕の家に生まれ、父親や兄からさまざまな事を教わり、素直な娘として幸福に育ち、ほどほどの人に嫁いだと言えよう」とそっけない。「少納言に式部の才なしといふべからず。式部が徳は少納言に勝りたる事もとよりなれど、さりとて少納言を貶しめるは　誤れり。式部は天つちのいとしごにて、少納言は霜降る野辺に捨て子の身の上なるべし。あはれなるはこの君の上や」と同情すると、皆が一葉を嘲笑った、と書いている。私は、一葉の文章には『喜々とした清少納言』よりも、『抑制の利いた式部』の影響が濃く見られるし、それゆえ好きなのだろうと勝手に思いこんでいたので、この内容には驚いた。しかしひょっとすると「式部式部とたゞほめにほめぬ」という学友たちへの反感があったかもしれぬし、あるいは「萩の舎」で共に学ぶ上流家庭の子女たちを式部に、「後見もなくて　はふれけむ」納言を、自分の境遇に重ねていたのかもしれない。★ところで1872年生まれの一葉が、島崎藤村と同い年である事を私は今まで知らなかった。1862年生まれの森鴎外より10歳も後に生まれ、1867年生まれの夏目漱石とは5歳しか違わないと知って、私は何故か不思議な気持ちになった。一葉はもっと古い、幕末あたりの人と思い込んでいたのだ。それはきっと、文語体で書かれた一葉の小説の持つ、王朝文学の香りのせいかもしれない。

  October 5, 2011

• 鬱気分の樋口一葉　-1-

  日ごろ　樋口一葉の著作を読みたる、いと面白し。我が幼き日に読みたるに、いみじうおぼえしが「たけくらべ」の、いにしへには知り難き一葉の諧謔、あるひは文章の奥ゆかしきさまありて、更に面白く読めり。「にごりえ」「うつせみ」は何という事なく、我にてはをかしからざれど、読むにつれ引きこまれぬ。「あきあはせ」の趣向　枕草子に似たりつるが、その風情　清少納言にはあらず。紫式部の抑制もちて鬱々たる憂ひ・嘆きを描くが如し。鬱々たる物語といへば「大つごもり」なれど、読み終えたれば、安堵の心地したる。井上ひさしに「頭痛肩こり樋口一葉」なる戯曲ありきを、さればこそと思ふる短編なり。

  October 2, 2011

• 御伽草子・一寸法師　-8-

  　おじいさんは堀川の中納言と申す人の子でありましたが、人の讒言によって流人となり、田舎でもうけた子だったのです。　おばあさんは伏見の少将と申します人の子でしたが、幼くして両親を失ったのでした。　一寸法師は卑しい身分ではなかったため、めでたくも殿上に召され、堀川の少将という身分をいただき、父母を都へ呼び寄せ、世の常以上に親孝行し大切にもてなしました。　そうしているうちにも少将から中納言に出世なさいました。　一寸法師の心も姿もはじめからすべての人より優れていらっしゃったので、御一門への帝のおぼえもたいそうめでたくいらっしゃたのです。　これを聞き伝えた姫の父君の宰相殿も、たいそうお喜びになりました。　その後、若君が三人お生まれになり、めでたく栄られました。　住吉のお約束どおりに末永い繁昌に栄えられ、世のめでたい例（ためし）としては、これ以上のことはないと申し伝えられているとか。 

  March 11, 2009

• 御伽草子・一寸法師　-7-

  　一寸法師は鬼の捨てて行ったものの中から、まず打ち出の小槌を取り、「背丈が大きくなれ」と、一生懸命振りました。するとやがて背丈が大きくなりました。　お腹がすいていましたのでご飯を打ち出しますと、いかにもうまそうな飯がどこからともなく出てくるのです。それは不思議な幸運でした。　その後は、金銀を打ち出して姫とともに都へ上り五條あたりに宿をとり、十日ばかり経ったころ、この不思議な出来事が内裏にまで伝わったのでした。一寸法師は急きょ帝に召され参内することになりました。　一寸法師をご覧になった帝は、「まことにうつくしい童である。これは卑しい身分のものではなかろう」と、一寸法師の先祖をお尋ねになりました。

  March 9, 2009

• 御伽草子・一寸法師　-6-

  　舟から上がってあたりを見回してみても、人の住んでいるような気配がありません。風向きが悪いためにこんな島へ流されてきてしまったのですが、ともかく何とかしなくてはなりません。　一寸法師があちこち見まわしていますと、どこからともなく鬼が二人やってきました。一人は打ち出の小槌を持っています。もう一人が「あ奴めを呑みこんで、女房をさらってやろうぞ」と言いました。　一寸法師を口から丸飲みにしましたが、目の中から出てしまいました。鬼は、「これは化け物だぞ。口をふさげば目から出てしまう」と、大慌て。　一寸法師は鬼に呑まれても目から出て飛び歩いたものですから、さすがの鬼も恐れおののき、「これはただ者じゃない。早く地獄に逃げようぞ」と、打ち出の小槌、杖、鞭など何もかもを打ち捨て、極楽浄土の西北の暗い暗い所へと、ようよう逃げて行きました。

  March 8, 2009

• 御伽草子・一寸法師　-5-

  　一寸法師が「早く、早く」と出立を急かしますので、姫は遠い闇へ行くような絶望的な気持ちで都を出て、足にまかせてお歩きになるのでしたが、その御心の内を考えますといかにもお気の毒なのでした。　一寸法師は姫君を先に立て出かけました。　宰相殿はかわいそうに思い、姫を引き留めたいとは思ったのですが、継母に気兼ねして引き留めることができませんでした。　お傍にお付きの女房さえもありません。姫君は情けなく思し召すのですが、どこへ行ったらいいものやら見当もつきません。　とにかく難波の浦へ行こうと、鳥羽の津より舟にお乗りなさいましたが、生憎の強風で波が荒くへんてこりんな嶋に着いてしまいました。

  March 7, 2009

• 御伽草子・一寸法師　-4-

  　さて、この宰相殿には十三にならせ給ふ姫君がいらっしゃいました。たいそう見目麗しくいらっしゃいますれば、一寸法師はこの姫君を一目で好きになってしまいました。そして、何としても自分の女房にしたいものだと思い、謀をめぐらしておりました。　ある時貢物の米を茶袋に入れ、姫君が臥していらっしゃる時に、姫君の御口にその米を塗り、茶袋だけを持って泣いておりました。　宰相殿がこれをご覧になってお尋ねなさいますので、「私が取り集めておきました米を、姫がお取り上げになりました」と申しました。案の定姫君の御口には米がついています。宰相殿はそれをご覧になるとたいそうお怒りになり、「まことにその通りだ。このような者をどうして都に置いておけよう。出て行け」とて、一寸法師におっしゃいました。　一寸法師は宰相殿が「私の米をお取りになったのですから、どうにでも良いように取り計らえ」とおっしゃったのだと、内心限りなく嬉しく思いました。　姫君はただ夢心地で、呆然としていらっしゃるのでした。

  March 6, 2009

• 御伽草子・一寸法師　-3-

  　かくて鳥羽の津に着きましたらば、そこにお椀を乗り捨てて都へ上り、「こゝやかしこと見る程に、四條五條の有様、心もことばにも及ばれず」あちらこちらと眺めて行くほどに、四條や五條のありさまの珍しさ、すばらしさはとても言葉に表せないほどでした。　さて三條の宰相殿と申し上げる人のもとに立ち寄り「物申さん」と言いますと、宰相殿はこの声を「可愛い声だな」とお聞きになって、縁側の先へ立ち出でてみたのですが、誰もいないのです。　一寸法師は人に踏み殺されそうになるものですから、そこに置いてあった足駄の下で「物申さん」と申し上げたのでした。　誰もいないのに可愛い声で呼ばわるものですから、宰相殿は不思議に思い、外に出ようとして足駄を履こうとしますと、足駄の下から「人をお踏みなさいますな」と言う声がしました。不思議に思って見れば、奇妙なものがいるではありませんか。宰相殿は一目見て、実に可愛い者だと大笑いなさいました。　かくして年月が過ぎ、一寸法師は十六歳になりましたが、背丈はもとのままでした。

  March 5, 2009

• 御伽草子・一寸法師　-2-

  　おじいさんとおばあさんは「あの一寸法師めを、どこかへ遣ってしまおう」と思い、それを一寸法師に言いますと、一寸法師は素直にそれを承諾したのでした。「親にさえ、こんなに疎まれるのは口惜しいことだ。もう、どこへでも行ってしまおう」と思いましたが、刀もなくては致し方がありません。それで針を一つおばあさんにもらい、麦わらで柄と鞘をこしらえ、都へ上ろうとしますが、舟がなくては仕方がないので、またおばあさんにお椀と箸を申し受け、なごりを惜しみながら立ち出でました。　住吉の浦からお椀を舟としてそれに乗り、「都へぞ上りける」のでした。住みなれし　難波の浦を立ち出でゝ　都へ急ぐ　わが心かな

  March 4, 2009

• 御伽草子・一寸法師　-1-

  　摂津の国難波の里に、おじいさん（老翁）とおばあさん（老婆）がおりました。　おばあさんは四十歳になるまで子供のないことを悲しみ、住吉にお参りをしていました。すると住吉の大明神がこれを憐れに思し召して、四十一歳という年齢のときにお子ができたのです。おじいさんの喜びはたいへんなものでした。　やがて十月経って、かわいらしい男の子が生まれました。　しかし生まれ落ちてからずっと、背丈が一寸しかなかったものですから、やがて一寸法師と名付けられました。年月が経って、早十二三歳になるまで育てたのですが、背丈は伸びず生まれた時のままでした。　おじいさんとおばあさんがよくよく考えるに、「これはただ者ではない。きっと化け物の類にちがいない。私たちがどんな罪の報いでこんな化け物を住吉からいただいたものかのう。全く、情けないことよ」と、その嘆くさまは傍から見ても気の毒なほどなのでした。

  March 3, 2009

• 御伽草子・浦嶋太郎　-10-

  　御伽草子は、いつ誰がどのようにして書き遺したものかはっきりしていないようです。しかし、現代に生きる私たちが読み、広く世間に知られている「浦島太郎」の物語内容とは多少違っており、本来のお話がどんなものであったのかが分かって、私は読んでいて楽しいのです。　原文には「空にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝」、「鴛鴦の契り浅からずして」、「偕老同穴の語らひ」などの慣用句が多く用いられ、その分だけ平板になっておもしろみに欠けますが、龍宮城での四季の描写には弾むようなリズム感があって、音読して読み聞かせるには楽しいものがあります。　母親が幼いわが子に、また文盲の女性たちが文字の読める人の周りに集まって耳を傾けたのではないかと想像すると、当時の人々の「物語」に寄せるときめきが感じられ、心暖まる思いがします。　挿絵も８枚ほどあって、原文では太郎が「おじいさんになってしまった」という、はっきりした記載はないものの、蓋を開けた玉手箱から煙が立ち上り、つるんとした若い太郎の顔には、それまでなかった長い髭が描かれていて、「二十四五の齢も、忽ちにかはりはてにける」とありますから、挿絵を見ながら「おじいさんになってしまった」ことを想像したのでしょう。　次回からは同じ岩波書店・古典文学大系新装版の「御伽草子」から「一寸法師」を、原文になるべく忠実に現代語訳してみたいと思います。

  March 2, 2009

• 御伽草子・浦嶋太郎　-9-

  　浦嶋太郎は一本の松の木陰に、呆然としておりました。　そこで太郎は、「そうだ。亀がくれたかたみの箱がある。決して開けるなと十分に注意されたけれども、今になってはもう、構うものか。開けてみよう」　すると、中から紫の雲が三筋立ち上りました。これを見ると二十四・五の太郎も、たちまち変わり果てた姿になってしまいました。　さてさて、浦嶋は鶴になって虚空に飛び上ってしまいました。　それはさておきこの浦嶋の年を、亀の計らいで箱の中に畳み入れたのでした。　そうしてこそ七百年の齢を保ったのです。開けてみるなと言われたものを、開けてしまったことこそつまらないことでありました。君にあふ　夜は浦嶋が玉手箱　あけてくやしき　わが涙かなと、歌にもよまれてしまったほどです。　いのちあるものは皆、情けを知らぬということがありません。いわんや人間の身として生まれながら恩を知らぬのは、木石にたとえられましょう。　情け深い夫婦は二世（現在・未来）の契りと申しますが、まことに珍しいことでありました。　浦嶋は鶴になり、蓬莱の山にいるそうです。亀はその甲に祝福をそなえ、よろず世を生きたそうです。そのため鶴と亀は、おめでたい例（ためし）とされています。　このように情のある人の行く末はめでたいものであるから、凡人には情けあるべしと申し伝えられています。　その後浦嶋太郎は、丹後の国の浦嶋の明神として顕れ衆生に済度をお与えになり、亀も同じところに神としてあらわれ、夫婦の明神になりました。　おめでたい例でございました。

  March 1, 2009

• 御伽草子・浦嶋太郎　-8-

  　 さて浦嶋が故郷へ帰ってみますと、「人跡絶えはてゝ、虎ふす野辺となりにけり。浦嶋これを見て、こはいかなる事やあらんと思ひ」ふと傍を見ると柴の庵がありました。そこへ行って「物を訪ねるが」と言いますと、内から八十ばかりのおじいさんが「どなたがおいでになったのかな」と言って、出てきました。　 浦嶋が「ここに浦嶋という人がいたはずだが、行方を知らぬか」と尋ねますと、翁が申しますには「浦嶋の行方をお尋ねになるとは、不思議なことでございますれば、あなたさまはどういうお人でございましょう。その浦嶋とやらは、もう七百年も昔の事と言い伝えられております」  太郎は、これは一体どうしたことだとたいそう驚き、今までのことをありのままに語りましたところ、その翁も不思議に思い涙を流したのでした。そして、「あそこに見える古い塚、古い石塔こそ、浦嶋という人の墓所であると伝わっております」と言って指さし、教えてくれました。　 太郎は泣く泣く、草深く露しげき野辺を分け入り、古き塚にお参りし、涙を流しながらこう歌いました。かりそめに　出でにし跡を来てみれば　虎ふす野辺と　なるぞ悲しき

  February 28, 2009

• 御伽草子・浦嶋太郎　-7-

  　また女房は「今はもう、すべてをお話いたしましょう。実は私はこの龍宮城のおと姫でございます。亀に姿を変じて海上に遊んでおりましたが、ゑしまが磯にてあなたさまに命をお助けいただいたのでございます。その御恩に報い申そうと、このように夫婦となりましてございます。またこれは、私のかたみとしてご覧くださいませ」と、左の脇から美しい箱を一つ取り出し、「決してこの箱を、お開けくださいますな」と言って、浦嶋太郎に渡しました。　会者定離のならい通りに、会うものには必ず別れがくるとは知りながら、それを抑えがたくておと姫の歌日数へて  かさねし夜半の旅衣  たち別れつゝ　いつかきて見ん浦嶋の返歌、別れ行く　うはの空なるから衣　ちぎり深くは　又もきて見ん　互いに名残を惜しみつつ、しかし浦嶋太郎はいつまでもこうしてはいられませんから、かたみの箱を携え、遥かな波路を帰るのでした。忘れられない来し方や行く末のことを思いつつ、遥かな波路を帰る時に、こう歌いました。かりそめに　契りし人のおもかげを　忘れもやらぬ　身をいかゞせん

  February 27, 2009

• 御伽草子・浦嶋太郎　-6-

  　かくして面白いことばかりに心を慰められ、好き放題に明かし暮らして、三年はあっというまに過ぎました。　浦嶋太郎が申しますには「私に三十日の暇（いとま）をくださいませんか。故郷の父母を残したまま、軽い気持ちで出てきたのですが、もう三年もたってしまいました。父母のことが心配ですので、会い申して、心残りのないようにして参りたいと思います」　すると女房は「この三年の間は夫婦としての契りをなし、少しの間でもお姿が見えないと、何かあったのではないだろうか、どうしたのだろうと心配いたしたものですのに、今お別れするならば、またいつの世にお逢いすることができましょうや。夫婦とは、現在・未来の縁（えにし）と申しますから、たとえこの世では夢幻の契りとしましても、必ず来世にては私と一つ蓮の縁として、お生まれになってくださいませね」と言って、さめざめと泣きなさるのでした。

  February 26, 2009

• 御伽草子・浦嶋太郎　-5-

  　女房が申しますには、「ここは龍宮城と申すところでございます。ここには四方の草木で、四季を表現してございます。どうぞお入りください、お見せいたしましょう」と、手を取って連れて行きました。　最初に東の戸を開けてみますと、春の景色らしく「梅や桜の咲き乱れ、柳の糸も春風に、なびく霞のうちよりも、鶯の音も軒近く、いづれの梢も花なれや」「南面を見てあれば、夏の景色とうち見えて、春をへだつる垣穂には、卯の花や、まづ咲きぬらん、池の蓮は露かけて、汀涼しきさゞなみに、水鳥あまた遊びけり。木々の梢も茂りつゝ、空に鳴きぬる蝉の声、夕立ち過ぐる雲間より、声たて通るほとゝぎす、鳴きて夏とや知らせけり」「西は秋とうち見えて、四方の梢も紅葉して、ませの内なる白菊や、霧たちこむる野辺の末、まがきが露を分けわけて、声ものすごき鹿の音に、秋とのみこそ知られけれ」「さてまた北をながむれば、冬の景色とうち見えて、四方の梢も冬枯れて、枯葉に置ける初霜や、山々やたゞ白妙の、雪に埋るゝ谷の戸に、心細くも炭竈の煙にしるき賤がわざ、冬と知らする気色哉」

  February 25, 2009

• 御伽草子・浦嶋太郎　-4-

  　さて女房が申しますには、「一本の木の下で宿をとり、同じ川の水をすくって飲む......そんなちょっとしたことも、すべて前世からの縁と申します。ましてやはるかな波路を、はるばるとお送りくださいました事は、ひとえにご縁としか思えません。私と夫婦となってくださいましても、何の差しさわりがございましょう。どうか私と一緒に暮らしてくださいませんか」と、こまごまと語りかけるのでした。　浦嶋太郎は、「ともかくも、おっしゃる通りにいたしましょう」といいました。　さて二人は夫婦として「天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝とならん」と、死ぬまで仲良く連れ添うという堅い約束を交わして、暮らすことになりました。

  February 24, 2009

• 御伽草子・浦嶋太郎　-3-

  　浦嶋太郎もさすがに岩木のように非情ではありませんから、かわいそうに思って船の綱を取り、ひき寄せてあげました。　さてその女房の申しますには「どうぞ私を本の国へお送りくださいませ。このまま置かれましても、私はどうしたらいいいものか分かりませぬ。ここであなたさまに見捨てられましたならば、海の上での恐ろしい思いと同じことでございます」と、かき口説いてさめざめと泣くものですから、浦嶋太郎も憐れに思い、女房の乗ってきた船に乗り、沖へと漕ぎ出るのでした。　太郎はかの女房の指示に従ってはるか10日あまりの船路を送り、ようやく女房の故郷に着きました。　船から降りてどんな所かと見れば、銀の塀に金の甍をならべ、門をたて、どんなにすばらしい天上の住まいもこれには勝るまいと思われるほどなのでした。この女房の住まいの豪華さは、とても言い尽くすことができません。

  February 23, 2009

• 御伽草子・浦嶋太郎　-2-

    次の日、また浦の方へ出て釣りをしようと思って海を見ると、はるか彼方に小船が一艘浮かんでいるのが見えました。怪しく思って立ち止まって見ていると、美しい女房がたった一人乗って、波にゆられて次第に太郎のいる浜辺に向ってやって来るのでした。　太郎が、「このような恐ろしい海原を、たった一人船に乗ってやってくるとは、いったい御身はいかなる人なのか」と、申しますと、この女房の言いますには「はい。ある所へ行こうと思い、ちょうど都合のよい船がありましたので、それに乗っておりましたところ、運悪く途中で波風が荒くなり、たくさんの人が海の中へ投げ入れられたのですが、情け深いお人が私をこの船に乗せて、助けてくださったのでございます。けれど、どこへ行くものか、鬼の島へ行ってしまうのだろうかと悲しく思っておりましたところ、ちょうどあなたさまにお目にかかったのでございます。これは前世からのご縁というものでございましょう。されば虎や狼でありましても、人のご縁とお思いくださいませ」と、さめざめと泣くのでした。

  February 22, 2009

• 御伽草子・浦嶋太郎　-1-

  　昔、丹後の国に浦嶋というものが住んでおりました。その子に浦嶋太郎と申して、年の頃二十四五の男がおりました。太郎は朝から晩まで海に出ては魚を獲り、そうして両親を養っていました。　その日も釣りをしようと海に出かけて行きました。浦浦島島を渡り、あらゆる入江で釣りをし、貝を拾い、海藻を刈ったりしておりましたが、ゑしまが磯というところで亀をひとつ釣り上げました。　浦嶋太郎はこの亀に、「お前たちは、命あるものの中でも鶴は千年、亀は万年といって寿命の長い生き物だ。ここですぐ殺してしまうのはかわいそうだから、助けてやろう。いつもこの恩を忘れるなよ」と言って、この亀をもとの海に帰してやりました。

  February 21, 2009

• 木曾義仲 と ともゑ　-8-

  　気弱になった義仲を叱咤した兼平でしたが、ここでは正反対に「御身は疲れさせ給ひて候」あなた様はもう、精一杯闘われたではございませんか。もう、お疲れなのでございますと、まるで義仲の背中を優しくさするが如く労をねぎらい、慰撫しています。　　義仲の最期は悲しいものではありますが、彼の一生を思うとき、幼い頃から共に育った戦友・今井四郎兼平との厚い友情と、妻でありまた戦友でもあったともゑとの深い愛情に包まれた、豊かな人生であったことを感じさせます。　私は死んだ義仲よりも、愛する人と別れて一人生き残ったともゑのその後を知りたいと思うのですが、残念ながら平家物語では、それ以上の消息を記してはいないのです。

  October 11, 2008

• 木曾義仲 と ともゑ　-7-

  　「あなた様は、あそこに見える粟津の松原で自害なさいませ。その間兼平が、敵からお守りいたしますゆえ。」　すると義仲は「我は都で死ぬべきであったのだ。しかし兼平、おまえと一所に死にたいがため、ここまで逃れてきたのだぞ。」と言って、兼平と馬を並べて一緒に敵中に駆けようとします。兼平はあわてて馬から飛び降り、「主の馬の口にとりつゐて申しけるは」、　「弓矢とりは年来日来いかなる高名候へども、最後の時不覚しつればながき疵にて候也。御身は疲れさせ給ひて候。つゞく勢は候はず。敵（かたき）にをしへだてられ、いふかひなき人の郎等に組み落とされさせ給て、討たれさせ給ひなば、『さばかり日本国にきこえさせ給ひつる木曾殿をば、それがしが郎等のうちたてま（ッ）たる』なんど申さん事こそ口惜う候へ。ただあの松原へいらせ給へ」　「弓矢を取って戦う武士たるものは、日頃いかに高名がありましょうとも、死に際の不覚が死後の汚点となりまする。あなた様の後に続く味方は、もはやございません。敵に押し隔てられ、お守りすることもかなわず、下賤な郎党などに討たれ『日本国に名を馳せた木曾殿を、我らが討ち申したぞ』などと自慢げに言われるのは、耐え難うございます。さあ、あの松原で、どうかご自害なされませ。」と、必死で申し上げるのです。

  October 10, 2008

• 木曽義仲 と ともゑ　-6-

  　今やもう木曽殿は、乳母子・今井四郎兼平と、主従ただニ騎になってしまいました。この時義仲は思わず、「鎧が重く感じる」と弱音を吐いてしまいます。　「日頃はなにともおぼえぬ鎧が、けふはおもうな（ッ）たるぞや」　すると今井四郎兼平が、そんな主君を叱咤激励します。　「御身も未だ疲れさせ給はず、御馬も弱り候はず。なにによ（ッ）てか一両の御着背長（おんきせなが）を重うは思し召し候べき。それは御方（みかた）に御勢が候はねば、臆病でこそさは思し召し候へ。兼平一人候とも、余の武者千騎と思し召せ。」　あなたさまのお体は、まだまだお疲れではございませぬ。御馬も、弱ってはおりませぬ。それなのに、どうして一両ほどの御着背長を重いなどとおっしゃるのでしょうか。もしやあなた様が、臆病になっているからではございませんか。味方の御勢はなくとも、兼平がいるではありませんか。私一人であっても、武者千騎ありと思し召せ。　　　　　　　　　　　　　～～～～～～～～～～　兼平の健気なこの一言は胸に迫りますが、また義仲の本音にも涙を誘うものがあります。義仲は、ともゑを愛していたからこそ「いづちへもゆけ」と言ったのであり、自分の大切な存在が去ったからこそ、今まで生きるために張りつめていた力が、一度に抜けたのだと思います。　この時の義仲の心境は、「誰がために鐘は鳴る」でロバートが、愛するマリアと別れた時の気持ちに似ているのではないでしょうか。

  October 9, 2008

• 木曽義仲 と ともゑ　-5-

  　「武蔵国に、聞えたる大力、をん田の八郎師重、三十騎ばかりで出で来たり。ともゑその中へ駆け入り、をん田の八郎に押し並べ、むずとと（ッ）て引き落とし、我がの（ッ）たる鞍の前輪に押し付けて、ち（ッ）ともはたらかさず、頸ねぢき（ッ）て捨てて（ン）げり。其の後物具ぬぎすて、東国の方（かた）へぞ落ちゆく。」　ともゑは大力の男・八郎師重に馬を並べ、むんずと捕まえて馬から引き落とし、自分の乗っている馬の前輪に押し付けて、有無を言わせず首をねじ切りました。　女ながらともゑは義仲の右腕として、勇猛果敢な働きをしてきました。それが武具を脱ぎ捨て、義仲と別れ、東国へ馬を走らせた時の心中は、いかばかり悲しく無念だったことでしょう。

  October 8, 2008

• 木曽義仲 と ともゑ　-4-

  　しかし彼はともゑに、こう言います。　「おのれは疾うとう、おんななれば、いづちへもゆけ。我は打死せんと思ふなり。もし人手にかゝらば自害せんずれば、木曽殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりな（ン）どいはれん事もしかるべからず」　おまえは女なのだから、一刻も早く逃げろ。我は打死を覚悟している。人手にかからば自害する。その時にもし「木曽殿は最後の戦にまで、女を連れていた」などと言われては、不名誉だ。　若い頃、私はこの義仲を「なんと女心を知らぬ身勝手な男よ」と、悲しく思いました。それは多分「いづちへもゆけ」にあるような気がします。私はここではそれを「どこへでも行け」と、直訳しませんでした。　ともゑは、「猶おちもゆかざりけるが、あまりにいはれ奉て」とても義仲のお傍を離れ難いのですが、あまりに急かされるのでとうとう「最後のいくさしてみせ奉らん」と、愛する夫・義仲の目の前で、大力で有名な「をん田の八郎師重」を相手に、最後の戦をしてみせます。　ともゑにしてみれば、女でありながら戦場でも義仲の好きパートナーとして、精一杯の戦勝を得てきたはずです。「討死するなら諸共に、最期まで一緒にいたい」と思うからこそ、ここまで戦えたのではないでしょうか。　しかし、ここで義仲に「女なれば」と言われたことが、ともゑにとっては抗い得ない悲しい現実だったように思います。

  October 7, 2008

• 木曽義仲 と ともゑ　-3-

  　木曽三百余騎、六千余騎が中をたてさま・よこさま・蜘手・十文字にかけわ（ッ）て、うしろへつ（ッ）といでたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこをやぶ（ッ）てゆくほどに、土肥次郎実平二千余騎でさゝへたり。其をもやぶ（ッ）て行くほどに、あそこでは四五百騎、こゝではニ三百騎、百四五十騎ばかりが中をかけわりかけわりゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。　相手方の軍勢・六千余騎に対して、木曽方はその二十分の一の兵力しかありません。それが死に物狂いでたてさま・よこさま・蜘手・十文字に敵方の中を駆け割っていくうちに、義仲はわずか主従五騎になってしまいます。　しかし、「五騎が内まで ともゑはうたれざりけり」ともゑは討たれることなく、義仲とともに生き残っていたのです。　この時義仲は、どんなにこのともゑの存在を心強く、嬉しく感じたことでしょう。

  October 6, 2008

• 木曽義仲 と ともゑ　-2-

  　負け戦の義仲が勢田の方（かた）へ落ち延びていくとき、幸運にも、兄弟同様にして育った乳母子の今井四郎兼平に出会います。　四郎兼平は八百以上もの兵力をもって勢田を防御していたのですが、その軍勢は今や五十騎にも減り、主のいないおぼつかなさに、広げていた旗さえも巻いて、都へとって帰ろうと大津のうちでの浜で、偶然主君の義仲に出会ったのでした。　義仲は「契りはいまだくちせざりけり。義仲が勢は敵（かたき）にをしへだてられ、山林にはせち（ッ）て、此辺にもあるらんぞ。汝が巻かせてもたせたる旗あげさせよ」前世からの因縁はまだ尽きていなかったのだ。我が義仲の軍勢は源氏方に押されて、周辺の山林に馳せ散ってはいるが、このあたりにもいるはずだと、今井四郎兼平が巻いていた旗を揚げさせます。すると三百騎ほどが、その旗の下にあつまって来ました。　義仲はたいへん喜んで、「此勢あらばなどか最後のいくさせざるべき」と、六千余騎を引き従える甲斐の一條次郎に戦いを挑みます。　「さてはよい敵（かたき）ござんなれ。おなじう死なば、よからう敵にかけあふて、大勢の中でこそ討死をもせめ」とて、まッさきにこそすゝみけれ。　これは願ってもない敵でござるわい。どうせ死ぬのであれば好敵手と精一杯戦って、大勢の中でこそ討死するのが義仲の本望だ、というわけです。

  October 5, 2008

• 木曽義仲 と ともゑ　-1-

  　「平家物語」の中でも悲しく印象的なのは、木曽義仲と彼の最愛の女性・ともゑとの別れの場面です。　　「木曽殿は信濃より、ともゑ・山吹とて二人の美女を具せられたり。中にも　ともゑはいろしろく髪ながく、容顔まことにすぐれたり。」　木曽義仲は信濃を出るとき、「ともゑ」と「山吹」という、二人の美女を伴って合戦に参加していました。　中でもともゑは、色白で髪は長く、たいへんうつくしい女性でした。その上、男性でも力の要る剛弓を引き、馬に乗っていようと徒歩であろうと、刀剣を持ってさえいれば「鬼にも神にもあふどいふ一人当千の兵（つはもの）也」鬼にでも神にでも立ち向かって行くという一騎当千のつわもので、「度々の高名、肩をならぶるものなし」という、頼もしい女性でした。　されば今度（このたび）も、おほくのものども落ちゆき打たれける中に、七騎が内までともゑは打たざれけり。　そんな強いともゑですから、この戦で多くの兵士が落ち延びたり討ち死にして、主従七騎になってしまっても、まだ打たれることなく無事で、夫・義仲の傍におりました。

  October 4, 2008

• 紫の上と平知盛　-3-

  「新中納言知盛卿は、生田の森の大将軍にておはしけるが、その勢みな落ちうせ」、最愛の知章を自分の身代わりに失い、「わが命をたすけ」てくれた愛馬も解放し、一人生き残った知盛は、ここで静かに言います。　「見るべき程の事は見つ、いまは自害せん」　「ああ、人生はこんなものだったのか・・・。」我が愛するものたちは、今やこの世ではなくあの世にいて、自分がここに生きている意味さえ感じられない・・・という、茫然自失の無常感から出たことばなのだと思います。　しかしながら、自滅を目の当たりにしながらも「めづらしきあづま男」などと言える知盛を思うとき、人生を精一杯生きたのだから、この世にはもう未練がないことを語っているようにも、思えるのです。　そして私はなぜかここに、紫の上の「『この世は、かばかり（なり）』と、見果てつる心ち」が、重なるような気がしてなりません。

  June 5, 2008

• 紫の上と平知盛　-2-

  　これに先立ち知盛は、一の谷近くでしょうか波打ち際で、16歳の長男・知章(ともあきら）を失っています。　「そのなかの大将とおぼしきもの、新中納言（知盛）にくみ奉らんと馳せならべけるを、御子武蔵守知章　中にへだたり、おしならべてむずとくんでどうどおち、とっておさへて頸（くび）をかき」立ち上がろうとしたとき、父親を庇った知章は討たれてしまいます。　けれどお陰でその間に、屈強の名馬に跨った父親の知盛は、命からがら平家方の船に乗り込むことができました。命拾いした知盛は、親を子が助けてくれたのに、親である自分はどうして子をかえりみなかったのかと後悔し、さめざめと泣きます。その上、このとき助けてくれた名馬とも、別れなくてはなりませんでした。船は馬を乗せるだけの余地がなかったのです。　この時、「阿波民部重能『御馬　敵のものになり候なんず。ゐころし候はん』とて手矢はげて出けるのを」つまり、敵の馬になるくらいなら、射殺してしまいましょうと言うのを「新中納言『何の物にもならばなれ。わが命をたすけたらん物を。』」と、それを止めるのです。　　ここでの知盛は、生への力がすでに虚脱しているように、私には感じられるのです。　「この馬 ぬしの別れをしたひつつ、しばしは船をも はなれやらず、沖の方へおよぎけるが、次第に遠くなりにければ、むなしき汀におよぎかへる。足たつ程にもなりしかば、なを船の方をかへりみて、二三度までこそ いななきけれ」　知盛と馬との情愛に満ち、哀れを感じる悲しい場面です。

  June 4, 2008

• 紫の上と平知盛　-1-

  　「『この世は、かばかり（なり）』と、見果てつる心ちする齢にもなりけり。」　これは若菜（下）での紫の上の源氏に出家を申し出るときのことばですが、私はどうしても「平家物語」での清盛の四男、平知盛の最期が頭に浮かびます。　壇ノ浦の圧倒的不利な戦いの場面です。　知盛が安徳天皇の御舟にやってきて、見苦しくないように自らが掃除し始めると、天皇のお傍の女房たちが「中納言殿、戦はどうなっているのでしょうか。心配で心配で」と詰め寄ります。　　このとき知盛は「『めづらしきあづま男をこそ御らんぜられ候はんずらめ』と言って、からからとわらひ」ます。「京の御所ではめったに見かけない無骨なあづま男を、今こそたっぷりとお目にかけることができましょうぞ」と、最期のときが迫っているにもかかわらず、いえ、だからこそ彼の人間性が出ているのでしょうか、ユーモアたっぷりに返します。　周囲は阿鼻叫喚「平中納言教盛、修理大夫経盛兄弟、鎧のうへにいかりををひ、手を取り組みて、海へぞ入り給ひける」という有様です。

  June 3, 2008

• 秋

  　秋きぬと 目にはさやかに見えねども 　　　　　　　　　　　　　　　風の音にぞ おどろかれぬる　古今集にある藤原敏行の名歌です。　秋がやってきたことを、目でははっきりと見分けることができないけれど、風の音を耳にしてはじめて、夏が過ぎたことを実感するものです・・・という歌です。　「目」から感じさせる西日の強い鮮やかな風景、「風の音」から連想させる野分の荒涼感・・・。　五感に訴えるこのことば使いに、とても繊細な感受性を覚えるのです。

  August 16, 2006

• 和歌-月-

  くらきより くらき道にぞ入りぬべき 　　　　　　　　　　　　はるかに照らせ 山の端の月求道的な色合いを感じさせる、和泉式部の歌です。以前にも書きました「沢の蛍」と同様、闇と月の光、黒と金色を対比するところが絵画的で、すっきりと上品な蒔絵を見るような、うつくしく印象的な歌だと思います。天（あめ）の海に 雲の波立ち月の船 　　　　　　　　　　　　星の林に 漕ぎ隠る見ゆ万葉歌人・人麻呂の、雄大な歌です。この歌の「月が船」というところが、とてもすてきだと思います。私は夜、カーテンを開けて月を眺めるのが好きですが、私が眺めるのは満月。でもこの歌の「月」は、ゴンドラのような三日月なのだと思います。

  June 22, 2006

• 和歌-恋歌-

  捨てはてんと 思ふさへこそ悲しけれ 　　　　　　　　君に馴れにし わが身と思へば　恋の歌では右に出るものなき和泉式部の歌です。　私は「君に馴れにしわが身」というところに、二人の秘め事を覗いたような、圧倒されるようなエロスの力を感じてしまいます。　恋人からこんな情熱的な歌を詠みかけられて、男性はどんなにいとおしい気持ちになることでしょう。　でもこの歌は、故人となった敦道親王に対する呼びかけであって、応えうるのは恋人だった親王ただ一人なのだと思います。君ならで 誰にか見せむ 梅の花 　　　　　　　　色をも香をも 知る人ぞ知る　紀友則の歌です。　私は、和泉式部の「捨てはてんと」に、ちょっと似たものを感じるのです。　それは二つの歌に共通して「誰でもない、あなた」という、恋する相手への強い思いを感じるからかもしれません。　恋する二人のあいだには、誰も入り込む隙のない強い「絆」があって、「恋愛」というものは二人だけの、とても排他的な世界なのだと感じさせられるのです。

  June 21, 2006

• 清少納言＠枕草子

  「枕草子」に初めて触れるのは、今でも中学生のころでしょうか。百五十一段、有名なくだりです。「うつくしきもの　瓜に書きたる ちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするに をどりくる・・・」声に出して読んでいくと、そのリズムがとても心地良く響きます。「なにもなにも、ちひさきものは みなうつくし」という、愛おしさに対する表現にも惹かれますし、「かりのこ。瑠璃の壺。」と、ぷつんと切られたような終わり方にも、おもしろさを感じます。清涼殿、紫宸殿、二藍のうすもの、立蔀、御簾、几帳・・・古い言葉の響きも私にとっては新鮮であり、今でも「なにもなにも、古物語は みなをかし」なのです。第二十九段です。「こころ ときめきするもの。・・・よき たきもの たきて ひとり ふしたる。・・・かしらあらひ 化粧じて、かうばしう しみたる きぬなど着たる。ことに見る人なき所にても、心のうちは なほ いとをかし。・・・」上等な薫物を室内にくゆらせ、床に伏してゆっくりと煙の立ち上るさまを眺めたり、目をつむって香りを楽しむことに胸のときめきを感じる、という清少納言のアロマテラピーに、現代でも共感を覚える女性が多いのではないでしょうか。「シャワーを浴びシャンプーしてすっきりした後、お顔のお手入れなどを念入りに、パックなどもして、好い香りのしみこんだお気に入りの、ちょっとオシャレなルーム・ウェアを着てくつろいでいるときなどは、『よく似合うよ』などといって見てくれる人が傍にいなくても、心は満たされて、癒されるのよね」と言っているようで、そこに時代を超えて共感し、女性の感性を共有できることに、私は嬉しさを感じるのです。「枕草子」には、弾むような才覚のほとばしりがあって、清少納言はまるで華やかな女子高生のようだと思うのですが、同時代に生きた紫式部にとっては、その放縦さが鼻持ちならなく感じられたのかもしれません。

  April 7, 2006

• 但馬皇女

  私が若い頃のことです。社員旅行だったのでしょうか、新大阪駅のホームに集まっていたところ、「但馬」と名前の入った列車が入ってきました。私が思わず「うわ、タジマだって！」と感嘆すると、そばにいた６歳ほど年上の先輩薬剤師が、恥ずかしいほどの大声で「あほやな、あれは『タンバ』と読むんやで。タンバササヤマのタ・ン・バ！」と自信たっぷりに教えてくれました。「いえ、あれは万葉集のタジマノヒメミコの但馬で・・・」と思いましたが、私はなにも言いませんでした。但馬皇女の歌も、止むに止まれぬ若い思いが溢れていて、胸をうつものがあります。「但馬皇女の 高市皇子の宮に在せる時、穂積皇子にしぬび接(あ)ひたまひし事 既形(あらは)れて後によみませる御歌一首人言を 繁み 言痛(こちた)み 己が世に 未だ渡らぬ 朝川渡る」但馬皇女は天武天皇の皇女で、高市皇子の宮にありながら、異母兄の穂積皇子と恋愛関係にありました。忍んで逢っていたものの、そんな二人の仲は当然発覚し、宮人たちの噂になります。「人の噂があまりにも多くわずらわしいために、あなたとの逢瀬では、今まで私が経験したことのない朝の川を、ドキドキしながら渡っております」これは私の勝手な解釈で、「朝川」は涙に濡れたことの表現と捉えるようですが、私にはそのような受動的な歌ではなく、恋しい穂積にともかく「逢いたい！」という但馬皇女の一途な思いがあって、それが彼女を実際に「朝川渡る」という、思い切った行動に駆り立てたように感じるのです。若い但馬皇女が人目を忍び、なよやかな衣の裾を絡げながら、冷たい朝の川を渡る姿を想像すると、彼女の胸の鼓動や、冷えた手足のかすかなふるえさえもこの歌に感じられて、いじらしくなるのです。

  March 26, 2006

• 感性のひらめき、言葉のきらめき

  黒髪の 乱れも知らず打ちふせば まづかきやりし 人ぞ恋しき（黒髪の乱れは私の思い乱れ・・・それもかまわず床に打ち伏すとき、まず恋しく思うのは、乱れた私の髪をかきやってくれたあの人のことです）私の好きな和泉式部の、官能的な歌です。物狂おしさに打ち伏した姿の和泉式部、その長い黒髪が幾すじにも乱れて、肩や袖に降りかかっている濃艶な様子が目に浮かぶような、描写的な歌だと思います。私はまた、自然の景色に彼女の心象風景を重ねて詠んだ歌も好きです。はれずのみ 物ぞかなしき秋霧は 心のうちに 立つにやあるらん（晴れることがなく、もの悲しい思いをしています。秋の霧は、心の中に立つものなのでしょうか）彼女の胸の中には、白い霧のようなため息がいっぱい詰っているような、そんなせつないものを感じさせます。もの思へば 沢の蛍もわが身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る（あまりにもの思いに沈んでいると、沢に飛ぶ蛍さえも、私の身からふわふわと離れ出る魂かしらと思って見てしまいます）源氏物語の六条御息所のもつ「情念」を連想させる歌ですが、おどろおどろしさを感じさせない描写のうつくしさがとても印象的です。これらの歌にあるものは、深いため息に満ちた「嘆き」であり「哀しみ」であって、いわば究極の「愚痴」ではないかと私は思うのですが、そこには彼女ならではの知的な感性のひらめきと、上品な言葉のきらめきがあって、それゆえに歌全体がスリムに引き締まり、優美でセンスのいい、そして忘れがたいものとなっているように思います。

  March 21, 2006

• 勝利の女神

  熟田津に 船乗りせむと 月待てば　　　　　　潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな額田王は、万葉で一番好きな歌人です。とくにこの歌には、彼女が船の舳先で風を受けながら「さあ、今こそ漕ぎだす時が来ました！」と片手を高く差し上げて、兵士を鼓舞しているような、そんな勇ましい情景が浮かんでくるのです。ところで私はこの歌に、なぜかサモトラケのニケ像が重なります。ニケの衣も風をいっぱいに受け、その若い胸や腹に張り付き、うつくしいからだの線を浮き彫りにしています。背中の羽は力強く盛り上がり、衣の後ろは風をはらんでふくらんでいます。前に踏み出した足には安定感があってゆるぎなく、勝利を確信させる頼もしさがあります。その「力強い頼もしさ」が、額田王の「今は漕ぎ出でな」を連想させるのかもしれません。ニケには両腕がありませんが、何十年か前に右手が発見されたと何かで読みました。それによるとニケの手のひらは開いていて、高く差し上げられたかたちになっていたそうです。そんなポーズも、額田王のこの歌のイメージにぴったりという感じがします。額田王は男たちの勇気を奮い立たせ、勝利をもたらす女神のような存在だったのではないか、そんなふうに感じるのです。

  March 16, 2006

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