ある日ぼくがいた場所

2005/03/15(火)10:34

『12人の怒れる男』/日記のようなもの(244)

日記のようなもの(782)

『この少年は有罪かも知れない。でも、ここで私が有罪と言ってしまったら、この少年は間違いなく死刑になる。そうされる前に、せめて、5分くらい彼の為に話し合う時間を持ってもいいんじゃないか?』 12人の陪審員の中でただ一人、被告の少年が有罪であるとは言い切れなかった人が、さっさと票決して終わろうとした人々に言う。 検察の提出した証拠や証言は圧倒的に見えた。 被告の少年が父親を殺してやると言った声を聞いたという階下の部屋に住む老人は、父親が床に倒れる音も聞き、階段を駆け下りて逃げる少年の姿を見たとも証言した。また、事件現場の部屋を高架橋を挟んで向かいの部屋に住む女性は少年が父親を刺すところを目撃したと証言。 被告の少年はそれらの証言が指す時間には映画館で映画を観ていたというが、その映画のタイトルも覚えてないし、その映画館で彼を見たという人も誰もいなかったという。 もし今日の日本で同じ様な事件が同じ様に新聞等で報道されたとしたら、世間一般(私も含めて)は漠然と、その被告が犯人なのかな、と感じると思う。 他にもいくつもの証拠や証言があったが、しかし主人公は言う。 『一点の合理的な疑いが残っているうちは、有罪とはいえない』 そうして最初5分といった話し合いは、彼が疑問に感じたことを説明していくことでだんだんと伸び、白熱していくことになる。 遠山の金さんとか暴れん坊将軍とか水戸黄門とか必殺シリーズに慣れ親しみ過ぎた日本人には相容れない感覚かも知れないが、法治国家に住むというのは『お上(正義の味方)の言うことにゃ間違いはねぇ』で全てを済ませれば良いという事にはならない。(日本の警察の取調室の悪習慣とかも法治国家とは言えない部分ですね) 日本でも裁判員法が近々施行される。 陪審員制は全員一致で有罪か無罪かのみを判断するが、裁判員制は職業裁判官とともに量刑まで多数決で決める。 この映画の中でも、話し合うのは面倒くさい、とか、有罪と感じるんだから有罪でいいじゃないか、という仕方なく選ばれてしまった人達の感覚がきちんと表現されている。最近の若い者は、といった差別とか、人種差別を理由に彼は有罪だとする者までいて、話し合いは難航する。 白黒画像。暑苦しい一室。12人の男達。人の命がかかった重苦しい話し合い。 CGや女性のヌードや恋愛物語とか派手なアクションシーンとかそういうものとは究極までに遠いところにいる映画で、しかしそれでも観る人を愉しませる内容に仕上がっている。 私自身、何度か涙がこみ上げた。(この映画で?、と笑われるかも知れないが) HenryFonda扮する主人公の台詞や言い回しがとにかくまず素晴らしい。 『全ての証言が正しく、この少年は確かに父親を殺したのかも知れない。真実は分からない。でも、もし殺人犯かも知れない人を無罪として世に放してしまう事になったとしても、合理的な疑いが残っている内は、彼を有罪とすべきではない』 そんな彼に、なぜそんなにスラムの一不良に肩入れするのかと別の一人が言う。 するとこんな風に答える。 『もし自分が彼の立場に置かれたとしたら、どう思う?』 劇中の人々も言うのだが、この少年が有罪になろうと無罪になろうと、基本的に陪審員である彼らには何ら得るものも失うものも無い。仕事があるので早く帰りたがる人や、ヤンキースの試合のチケットを買っていて上の空の人や、人の話を聞かずにビンゴゲームをやりだす連中まで出る。 最初は主人公一人(実際には12人全員が主人公と言っても良いのだが)が、無罪と主張するよりは、『何故、有罪と言い切れないのか』、その自分の中につっかかっている疑問を提示し、検察側が提出した被告が有罪であるとの証拠や証言に対して反証していく。 『真実は分からない。だが、その証言が間違っていたとしたら?」 そんな風にだ。最初は言葉に出来なかった疑問が次第に固まってそれを吐露するシーンは感動的だった。そして最初は11対1だった票決が、10対2となる。別に主人公は絶対死刑反対という立場でもなく、感情論に走っているわけでもない。一つ一つ反証していくプロセスや、人々が有罪か無罪かと判断を下そうとするその議論や思考プロセスそのものに非常に見応えがあるのだ。 喋り場や朝生を見てあれが議論だと思ってる人は、この映画を観てみると世界が変わると思う。 良い映画が観たい。 見応えのある作品を鑑賞したい。 そんな人には是非お勧めな一本です。 (私がこの年代のアメリカ映画を好んで観るのは、こういった名作に時々巡り遭えるからです。)

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