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カテゴリ:書き物的なモノ
bewaadさん所にこの記事に、こんな一文が紹介されていて少し考える所があったので、書いてみます。
=== いっぱんに「改革」の好きな人は仕事ができません。というか仕事ができないのは、制度のせいだとおもって、改革をしたがります。狭い範囲の見聞ですが。そういうひとはカリキュラムをいじるのが好きです。 === そしてその下に紹介されているこの一文も続けて転載させて頂きます。 === 日本人の一つの欠点は、根本を改革しない以上は、何をやっても駄目だと考え勝ちなことだ。目前になすべきことが山積して居るにかかわらず、その眼は常に一つの根本問題にのみ囚われている。(この文の続きはこちらで紹介されています) === (引用はそれぞれbewaadさんの記事中に貼られています) bewaadさんの記事が対象としているのはKプロジェクトの参加者達や、いわゆる構造改革推進派だという事を踏まえた上で、ちょっとずれた視線から私が気になったのは表題にも書いた以下の点です。 日本人は根本問題にのみ囚われる、かどうかと問いかけられれば、私は否と答えます。 真逆です。 正反対です。 日本がそこまで根本問題に囚われるというのであれば、象徴天皇制の扱いとか、憲法9条と自衛隊の存在とか持ち出すだけで、日本がどれだけ根本問題には手を触れずに物事を進める事をむしろ好むかという事が明らかです。 これは私の憶測ですが、どんな右翼にしろ今更日本を天皇を首長とした政教一致体制にしろというのは彼らの間でも多数意見ではないでしょう。左翼にしろ資本主義(市場経済)を完全に捨てて全ての資産を共有化して全国民が等しい所得を得るようにしようなんて意見が今更大勢を占めはしないでしょう。 つまり、日本人が根本問題に囚われ(勝ちにな)るというのは、誤っているか、むしろ非常に限定的な側面に対してのみ正しい考え方かと、私には思われます。 (明治維新時の佐幕派と倒幕派とかでも、攘夷とか尊王とか西洋諸国との交易やその技術や文明をどこまで取り入れるべきかという個別のテーマに対してはかなりの差異が存在していました。明治維新は、外圧があったにしろ日本が自主的に行った日本史上最大の改革の一つでしょうが、昭和戦後体制の発足は自ら行ったものではないという意味で改革には当たらないでしょう) 昨今の「改革競争」の弊害に目を向ける事は確かに大切ではありますが、だからといって事象を十把一絡に論じてしまう事に私は違和感を覚えました。(揚げ足取りの範疇に含まれる程度の事なんですけどね。) もう一つ付け加えるなら、価値の根本を何に置いているかで、日本人が根本に囚われるというか拘るかどうかが判断できるかと思います。 日本人が仏教の教えの内容や根本に拘っているかどうかというと、全くそんな事は無いでしょう。互いの宗派のどちらが正でありどちらが誤なのかといった世界中の各宗教/宗派信者にとっての至上問題で大きな殺し合いが起きたという事も日本の歴史上あまり無かったでしょう。(比叡山焼き討ちは宗教紛争では全く無かったし、明治期にあった寺社取り壊しとかも宗教的な出来事というよりは政治的な動きでしたし) ただし、日本人が自身の生の価値を高めるという人生における最大の根本に最も拘る(囚われる)とするなら話が変わります。つまり宗教そのものやその教えの内容はさして大事では無い事になります。(ここら辺が欧米のキリスト教徒や中東のイスラム教徒達からしてみれば理解不能な感覚でしょう) 自身の死後の不安を減じる事によって生きている時間そのものをより楽しめるようにする『道具』としてしか宗教を見なしていないのであれば、その優劣や正統性などを巡って他者と争う事は無意味だし、ましてや自らの命を危険に晒す事は論外になります。目的と手段の地位が逆転してしまう事になるからです。 日本人が洋の東西や宗教などにあまり拘らない/囚われないという性質/資質を備えている事は一般に言われていますが、一つには、自身の人生の幸福の最大化という至上目的が達せられるのであれば、次に重要なのはその至上目的を達する為の手段となる存在、そうでないものはおまけのような存在でしかなくなります。 ちょっとこの考えを脇道にずらして見ると、例えば(若年層の)自殺は、生き続ける事が価値判断基準から外れてしまう事により起こるとも考えられます。生き続ける事により得られるだろう楽よりも苦が(圧倒的に)多いと当人が予想した場合、生き続けるよりは生き続けない方が苦を短く終わらせられると判断される事になります。そうなれば苦に満ちた生を終わらせる死は、生よりも希望に満ちた存在(期待)となるのも当然でしょう。 価値判断基準の根本をどこに置くかで、全ての価値判断は変わります。 例えば仕事が出来ない人が自身の能力を向上させるよりも周囲の環境を変化させる事で将来に対する希望を見出そうとするのも、自身の能力の限界を正確に把握しているから、とも言えるのです。笑 例えば人類史上数知れぬ程繰り返されてきた戦争にしろ、自国内を豊かにしようとする方がよほど簡単に達成し得たかも知れぬのに、他国を侵略して版図を広げる事によって自国を豊かにしようとした例は数知れぬ程存在するでしょう。 例えば明治維新の時、革命を起こした側が『仕事が出来ないから』そうしたかと言われれば、『確かに徳川幕府体制のままではたいした事は出来なかったかも知れない』でしょう。当時の国際情勢などから、坂本竜馬や村田蔵六や大久保利通が目指した方向の方が時勢の後押しを得たし、現代から過去を振り返れば彼らの方が徳川幕閣よりも『時勢に対して的確な判断を下していた』という事も可能でしょう。 強引にまとめると、日本人は物事の根本に囚われるというのは誤り。但し書きをつけるなら、自身の現世における幸福の最大化を目指すという至上目的に囚われてその他の事象は全て副次的な存在に過ぎず日本人は囚われる事がない、という事になるかと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.11.30 11:58:32
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