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微妙にというか実際にはもう40歳は過ぎてたりするのだが、何となく。
最近のガメさんのいくつかのエントリに関して思う所がいろいろあったので、書き留めておこうと思う。 ・はっぴー ・あんはっぴー ・30歳 ・「微かな叫び声」についてのメモ 巡回ボット以外の誰が見てるんだというようなブログなので断り書きなど不要なのだろうけど、一応、冒頭に書いておく。 ガメさんとの『光』に関するtwitterでの会話で、「違うと思う」という表現を使われたりしたが、実際、「違う」のだと思う。死に対する捉え方も距離感も、彼と私では違う。 ガメさんの聞いたという声が、私の聞いた声とが同種だとは感じていない。 単純に、「違う」のだ。 ガメさんが何度も繰り返し書いているように、死や世界は、その大部分が言葉の外側に存在している。 言葉は生きている人間が生み出してきたのだから、当然の帰結ではある。 「世界が自分になど関心をもっていない」というのは親から教わらなくとも子供達が皆学び取っていく世界と人間との関係だと思う。暴走族のマフラー改造からいじめから他人に見せる宗教的な苦行まで、自分に関心を持って!、という叫び声としては一致している。自殺さえその手段の一つとして広く認知されてしまっている。 だからこそ、世界の創造主たる『神』が「あなたを愛しています」という宗教は広く長く受け入れられてもきたのだとも思う。自分は世界から関心を持たれているのだと安堵出来るから。(その自己の存在を肯定してくれる『神』を必要としなかった日本語が何故生まれた得たのか、自分なりの解は探し終わっているが話がずれるのでここには書かない) だからこそ、人と人のつながりにおいて、人は自分の生に意味を見出しても来たのだろう。 家族を成し、血と感情の系譜をつなげていく事によって。 あるいは、何らかの作品や業績を後世に遺す事によって。 英語にありそうで実は無い日本語として、客観的事実という言葉がある。 使われ方としては、第三者にも検証され確認され得る事実、といった意味合いだろうか。 英語では客観も主観も無く、factはfactでしかなく、realはrealでしか有り得ない。 自分自身が気に入っている個人的な造語として、主観的事実という言葉がある。 第三者からの検証や確認が不可能な事実。 幽霊を見たというのも、他の誰にも聞こえない声を聴いたというのも、その他諸々他人からすれば即座に否定されてしまうかも知れなくとも、当人には絶対に起こった出来事などが該当する。 私の最近の出来事の一つで言えば、もう何十年も闘病を続けている母のこんな言葉があった。 「私、夢の中で神様と会ってね。あと五日で死ぬって言われたの」 もうずっとずっと、あと数か月だの半年だの数年だの言われ続けてきた家族からすれば、その少し前に記憶をぐずぐずにしてくれた投薬の影響で、身体的な状態で言えばとてもあと数日で死亡する状況には見えなかったので、 「そんな事無いって」 というのが共通した反応となった。 母がそんな話をしてから十日経ち二十日経ちひと月ふた月以上が既に過ぎた。 容体も意識も言動も、当時から比べれば格段に安定してきている。 だが、彼女が夢の中で神様と会って、「あと五日で死ぬ」と言われた事を否定する事は、誰にも出来ない。 死はおそらく状態の変移にしか過ぎない。 私自身、死にかけた機会は覚えているだけで2、3回はあった程度だと思うが、一度は記憶がその寸前から途切れ、次はベッドの病床の上で意識が戻ったので、幸か不幸か、死を体感したりはしなかった。もう一度は横転した車で崖下に落ちかけたなんて出来事だっただったりしたが、起こってから終わるまで死を意識するなんて暇は無く、天井が逆さまになった車の中でまだハンドルを握りながら笑い続けていたのを覚えている。死にかけて怖かったからなんて高尚な理由ではなく、単に事が起こる前から笑っていたのが続いていただけで、それだけ一瞬の間の出来事だった。 ガメさんが死体だけから死の全てを語っているとも思わないが、死を迎え入れた体から人間の死の全てを語るのは、たぶん、違うと思う。端的に言うなら、セミの抜け殻を見て、それがセミの死骸であるかそうでないかという見地の違いだと思う。 私は、幼い頃、小学一年か二年の頃だったと思うが、予知夢を見た。予知夢を否定する様々な言説を見聞してはいるが、自分の中の主観的事実を崩すには至っていない。デジャヴであれば数十回以上で、起こっている現実と重ね合わせの様に、起こっていたかも知れない現実を見た事もある。 それ以外にも主観的事実としてしか語れないような数多くの出来事や体験などがあり、特に予知夢は、自分にとっての人生を決めたとても大きな一つの出来事だった。 それを可能にする理屈が存在するのかどうか。ずっと考えてきた。 しかし一つの大前提として、起こった事は否定され得ない。誰かに起こって他の誰かに起こらないから事実として認定され得ないというのは、全く論理的でも科学的でもないのは、最近の記事のいくつかに書いたりもした。 そういった積み重ねから、当然、私は死が終わりでは無いと感じ取っていた。 時の流れが一定でしか有り得ないという説も、世界の実態にそぐわないだろうとも感じている。 私が聞いた『声』というのは、「知性」でも「光」でも、たぶん「時間」でもない。 それは、人、の声です。女性の声でした。 ただし、その人は、おそらく遥か遠く昔に死を迎え、その意志と意識で私に『声』を届けてくれました。 その『声』の内容は、ここでは書けません。 その後の私の調べ物のきっかけとなり、おそらく近い将来、私が出すであろう本の巻末にでもさらりと触れるでしょう。 病気だとか電波だとかその他の評価はお任せします。 世界は自分になど関心をもっていないかも知れません。 でも、誰かは誰かに、もしくは誰かは何かに、関心を持つ事は出来ます。 そしてそれは誰かにとっての世界を変え得るし、時や死を超える事さえ出来るのです。 そういった全てが、私というたった一個の存在が生まれた理由だと思っています。 私は、虫けらと人間やその他生き物で、宿っている命が別物だとは全く思っていません。 同じ所から来た、同じ物質めいた何かで満たされていると考えています。 だから、身内の葬式などで死体を見て、それが火葬されて原型を留めない姿となっても、あまり感慨は湧きません。 逆に、毎年特に夏に跋扈する蚊を叩き潰す度に、その潰れた死骸を見て死を考えていたりします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.03.06 02:18:43
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