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2019.02.11
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 おれの頭はエロ妄想に支配されている。少しストレスがたまると、エロ妄想がふつふつと湧き上がる。おれの持っているちっぽけな理性なんかでは押さえきれない。妄想は妄想として個人のうちにあるなら犯罪にはならない。ただ、いい爺が妄想に侵されているのは、情けなくもあり、恥ずかしいことでもあると思う。一個人の問題のようにみえて、「ヲコ」見えからの永い長い歴史があるのである。そんな言い訳はさておいて、今回の野田の事件は、「ヲコ幻想」と「私有幻想」を自分の娘で体現しようとした卑劣な犯罪である。こんな欲望を体現してくれる手段はそう簡単に見つからない。まず金がかからない。逃げられない。こんな便利な道具はない、そう思い込んだら止まらない。それを常識で取り上げようとしても無理である。悪質な宗教よりたちが悪い。自分で自分の心をマインドコントロールしてしまっているのだから、絶対に抜け出せない、いけないことと判っている時もあるのだが。ふだんの生活で世間の人と接しているときは、そういう幻想を表に出さないから普通の人に見えてしまう。マスコミなんか児童相談所や教育委員会の対応が悪いっというが、こんな質の悪い幻想をもった男に対応できるわけがない。この種の犯罪は今後も後を絶たないだろう。社会の抑圧が大きくなればなるほど、弱い方に圧力は抜けようとする。もう一つ付け加えると、こいつの奥さんは悪党ではない。だから逮捕してはいけない、小さい子がまだのこってるだろ。

 本書は人間至上主義という考え方を披歴する。もちろん著者ハラリが、これらの考え方のすべてをを受け入れているわけではない。人間は他の動物より優れた存在であるという考えは、当然のように我々にはある。それは近代の科学、工業の発展によって、より強固になった。彼はそれを三つに分類して分析する。
今日、最も重要な人間至上主義の宗派は自由主義の宗派で、この宗派は、「人間性」とは個々の人間の特性であり、したがって個人の自由はこの上なく神聖であると信じている。(中略)これらの戒律は、一まとめに「人権」として知られている。(p35)
​ 我々日本人の多くはこの宗派に属していることになる。冒頭にあげた野田の事件も、少女の人権を重要視するから、多くのメディアで取り上げられているのである。子供が親の所有物と考えるなら、こうは取り上げられないだろう。しかし、日本では、このひとまとめがまだまだなのであろう。スポーツでの体罰や押しつけも、いろいろといわれている。しつけという強制の言葉がまだまかり通ると思っている。むしろ調教といった方がいい、せまい囲いのなかでおとなしくさせる。定住農耕時代の家畜を飼いならす感覚が抜けないのである。「私有幻想」そのものである。「人権」は「私有幻想」のおこぼれであるかどうかである。
社会主義的な人間至上主義という重要な宗派もある。社会主義者は、「人間性」は個人的ではなく集合的なものだと信じている。彼らは、各個人の内なる声でなく、ホモ・サピエンスという種全体を神聖なものと考える。自由主義的な人間至上主義が個々の人間にとって最大の自由を求めるのに対して、社会主義的な人間至上主義は、全人類の平等を求める。(中略)たとえば、貧しい者よりも富める者が優遇されたら、あらゆる人間の普遍的本質よりもお金を重んじることになるーーその本質は、富める者にとっても貧しい者にとっても同じだといううのに。(p36)
​ 全人類の平等?、スタートライン(定住農耕の始まり)までは同じだった。でも、走り出してからは差が広がるばかりだ。その本質とはスタートラインのこと言っているだけである。人間は走り続ける動物だ。「私有幻想」はもう宇宙まで手に入れようと企てている。
 先の「人権」もこの「平等」も「ヲコ幻想」と「私有幻想」の爆走に少しでもブレーキが掛けることのできる手段として、ひとは期待しているのだろう。だからハラリさんは創造主宗教に代わる認知革命のひとつとして、とらえているのである。これを心の安定剤として、ひとは服用したがるのである。
 ハラリは三つ目の人間至上主義は上の二つとは違うと、次のようにいう。
自由主義の人間至上主義と同じで、社会主義の人間至上主義も一神教の土台の上に築かれている。あらゆる人間が平等であるという考え方は、あらゆる魂は神の前に平等であるという一神教の信念の焼き直しにすぎない。従来の一神教と現に縁を切った唯一の人間至上主義の宗派は、進化論的な人間至上主義で、その最も有名な代表がナチスだ。ナチスは「人間性」の定義の点で他の人間至上主義の宗派とは異なっており、その定義は進化論に強い影響を受けていた。ナチスは他の人間至上主義とは対照的に、人類は不変で永遠のものではなく、進化も退化もしうる変わりやすい種だと信じていた。人類は超人に進化することもできれば、人間以下の存在に退化することもありうるというのだ。(p36~37)
​ 上の二つが安定剤のようなものであるなら、こちらは向精神薬のようなものである。「人権」「平等」とはちがって、こちらのキーワードは「優越」である。サピエンスの中でも、選ばれた人種という幻想、「ヲコ幻想」や「私有幻想」といった人間存在の根源をぶっ飛ばす幻想、選ばれたものだけが人間を超えて超人になるという考えである。進化論的というよりも、むしろ一神教に近いような気もする。だいたいわたしは、アーリア人なるものがまったくわからないので、ここに書かれている「優越」思想なるものが、まったく理解できない。
 わたしの立場からすれば、この「優越」思想も「ヲコ幻想」と「私有幻想」を制御するための手段にしかみえない。なぜなら、ナチスの台頭は第一次世界大戦で「私有幻想」の拡大を阻まれたあとのドイツに出てきたからである。だから、「ヲコ幻想」と「私有幻想」を超える幻想に見えたのである。
 ハラリさんは、この章を最後にこう締めくくる。
人間の行動は自由意思ではなくホルモンや遺伝子、シナプスで決まると主張するようになっているーーチンパンジーやオオカミ、アリの行動を決めえるのと同じ力で決まる、と。私たちの司法制度と政治制度は、そのような不都合な発見は、たいてい隠しておこうとする。だが率直に言って、生物学科と法学科や政治学科とを隔てている壁を、私たちはあとどれほど維持することができるだろう。(p41~42)
​ わたしたちの行動はチンパンジーやオオカミ、アリと同じ力で決まるわけではない。それは人間が地球上でで最高の存在だからでもない。人間の行動は「ヲコ幻想」と「私有幻想」によって決まるのである。そして、人間の行動は自由意思で決まるとはいえない、といういい方が正しいのかである。たしかに、一個人が持ちうる「ヲコ幻想」と「私有幻想」はその人が置かれている歴史と環境のなかにある。とはいえ、先にあげた非道な父親に、罪はないといえるのか。「ヲコ幻想」と「私有幻想」をどうとらえるか、どう対処するか、今後のヒトの課題である。
 隔てている壁を取り除くのには、人間は「ヲコ幻想」と「私有幻想」によって進歩したという認識を持つことが必要なのである。





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最終更新日  2019.02.11 22:29:04
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