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2020.09.14
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カテゴリ:

   対幻想論
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〈家族〉という概念の発生について、きわめて鋭い考察をしめしたのはフロイトの「集団心理学と自我の分析」であった。フロイトはモルガン―エンゲルスのように原始集団婚をはじめに想定せずに、ただひとつ「原始群族の父祖」という概念をはじめにもうけている。この「父祖」は原始的な集団の息子たちには理想でもあり同時に畏怖の対象でもあった。つまり禁制(タブー)の対象になる両価性の条件をもっていた。そこで息子たちは団結してこの「父祖」を倒した。しかしそのあと息子たちの誰かひとりが「父祖」に肩代わりしても不安定で、争いがたえないので、息子たちはたれもじぶんが「父祖」になるのを断念して、そのかわり禁制の対象である条件をもった物(たとえばトーテム)で「父祖」を象徴させるようになった。しかし息子たちは「父祖」でありたいという願望を圧殺することができなかった。そこで共同の集団のなかでではなく〈家族〉のなかで「父祖」としての位置を満足させるようになった。この〈家族〉は、一対の男・女さえあればそれだけで集団の共同性とちがった位相にとじこもったより古い時期の〈家族〉とは意味がちがっている。集団の共同性にたいして、はっきり固有の位置づけと根拠をもった〈家族〉である。フロイトによれば、こういう意味の〈家族〉をつくった息子たちは「父祖」を倒した時代にできた女性の支配を破壊し、その償いとして母性神化をみとめえた。(p389)​
​ ここでどんな組織を想定しようと、どんな人間関係を想定しようとも「ヲコ幻想」という事実からはのがれられない。もっと露骨ないい方をすれば、「ヲコ革命」である。動物とおなじような機能でありながら、人間を動物とここまで違う存在にしたのだから革命とよぶよりしかたない。革命というのだから、多くの犠牲をともなったのも事実であろう。
 フロイトやエンゲルス、へーゲルといった大先生や、吉本先生はわかっていても「ヲコ幻想」というような下品な言葉は使はない。それだから、からまった糸のように論理の糸口がみえない。ここで論じられていることも、個人と個人(男と女)の問題ようにみえて、組織(共同体)の問題であるように扱われている。確信的な証拠が見当たらないから、状況証拠だけで犯人を追い込もうとしている刑事みたいである。
フロイトが集団的な心理を考えるのにいちばん苦心を払ったのは、エンゲルスと同じように、どのように集団の心(共同幻想)と男・女のあいだの心(対幻想)とを関係づけるかという点であった。人間がある最古の時代に、集団を組んで生活しながら、男・女としてそれぞれ〈性〉的にも組んでいたとするなら、このふたつの場面で人間はどうじぶんを使いわけているのか。そしてその使いわけにはどんな関連が存在するかということである。(p390)
​ 男(オス)と女(メス)の関係が〈性〉だけであれば「ヲコ幻想」にならない。〈性〉的になってはじめて「ヲコ幻想」はあらわれる。襲う男(オス)と襲われる女(メス)というだけであれば、人間としての成立はなかった。ただのサルの変種で終わっている。いまここに、われわれは人間として存在していないということになる。
 最古の時代から何百万年の時間がある、そのどこかでパンツをはいた。ただ隠すということ、これが「ヲコ幻想」のはじまり。ただ隠すものに、それさえに幻想性がうまれた。これが人間のかしこさ、ずるさ。これによって、ヒトはサルの変種から人間になった。
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いちばん簡単なのは、エンゲルスのように最初に原始集団婚を想定することである。(p390)
​ 「原始集団婚」の想定。なんだか宗教団体の集団婚のように、整然とした結婚式をイメージしていしまうが、そんなものではないだろう。襲うか、襲われるかの世界である。籍を入れることも、結婚式もない。
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フロイトはこれとちがって一人の集団の「父祖」と多数の息子たちという概念から出発した。​(p390)
 ​これまた、この言い方では、宗教のグル様と信者たちみたいな感じになる。そんな区別がつけられる世界ではない。力の強いものが多くの女(メス)を手にいれる、そいつが弱ったら、それに代わる力のあるものが出てくるというだけの世界である。親子関係を示す謄本があるわけではない。
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〈対なる幻想〉を〈共同なる幻想〉に同致できるような人物を血縁から疎外したとき〈家族〉は発生した。(p390)
​ 人類が誕生してから、今日に至るまで600万年とかいわれている。少なくとも5万年前ぐらいまえでは、ここでいわれているような〈集団婚〉とか〈父祖〉とか〈家族〉とかいう概念的なものはなかったのである。「ヲコ幻想」だけで、女対男、男対男、女対女の関係はできていたのである。定住農耕の生活がはじまるまでは、集団生活はあっても、「共同幻想」や「対幻想」はなかったのである。
 定住農耕以後に、「私有幻想」がうまれ「共同幻想」ができたのである。それに対応して「対幻想」がでてきたのである。
 フロイトやエンゲルスの論では、このへんの時間軸がよくわからないと、わたしは感じる。





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最終更新日  2020.09.14 00:52:41
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