2005/03/26(土)10:46
思考停止の人間と話し合うことはできない
先日テレビで、いじめについての討論みたいなのがやっていた。
昔から語りつくされた、
「いじめは、する方とされる方どっちが悪い?」みたいなテーマだった。
もうテーマの選択が間違っていると思う。
疑問が質問に変質していないと、けして良い回答は出てこない。
不毛な議論が繰り返されるだけだ。
疑問をそのまま人にぶつける人は、学べることが極端に少ない。
けっきょく、その番組はお涙ちょうだいな感じで終わった。
はじめから、「いじめはする方がいけない」が決まっていたのだ。
残酷な結論は、捨て駒とされたに過ぎない。
だったら議論なんかするなって話で、
「いじめはやられる方が悪い」と言っていた女が
「やっぱりいじめはする方が悪い」とか言っちゃって、
結局どっちかに偏ってしまう。
新たな視点を得たのはいいけど、
そっちに全部移ってしまっては意味がない。
そういうことが分からないのだろうか。
思考停止の人間と話し合うことはできない。
★質問する能力★
上で、「疑問」と「質問」が出たので、少し書いてみる。
思うに、「疑問」というのは本能的な部分である。
大脳辺縁系(?)を使っている。
「質問」というやつは理性的な部分である。
大脳新皮質か。
こどもは、疑問をぶつける権利がある。
それはこどもだからである。
「空はなんで青いの?」
「どうして雲は落ちないの?」
なんでもかんでも聞きまくる。
しかし、大人たるもの疑問をいきなりぶつけることはできない。
もちろん、その知識に「大人と子供ほどの差」があれば、
聞くことも可能である。
たとえば、まったく武道をしたことのない人が
「合気道ってなんですか?どんな武道ですか?」
これは許される疑問であり、また有効な回答を得られる可能性が
高いことを考慮して、「質問である」とも言える。
しかし、合気道を稽古している人が
「合気ってなんですか?どうやるんですか?」
と聞くのは、頭が弱いとしか言いようがない。
質問になっていない。
質問は、疑問に考察を重ねた結果生まれるもので、
非常に理知的なものだと思う。
解決できる疑問はすべて自分で解決しつくした。
それでも分からない。そこで、はじめて質問が生まれる。
俺は「質問力」とかいう本は読んだことがないけれど、
もしかしたら、こんなようなことが書いてあるんじゃないかなあ、と思っている。