春日井市高蔵寺の整体院「空」

2005/03/26(土)10:46

思考停止の人間と話し合うことはできない

暴言繚乱(54)

先日テレビで、いじめについての討論みたいなのがやっていた。 昔から語りつくされた、 「いじめは、する方とされる方どっちが悪い?」みたいなテーマだった。 もうテーマの選択が間違っていると思う。 疑問が質問に変質していないと、けして良い回答は出てこない。 不毛な議論が繰り返されるだけだ。 疑問をそのまま人にぶつける人は、学べることが極端に少ない。 けっきょく、その番組はお涙ちょうだいな感じで終わった。 はじめから、「いじめはする方がいけない」が決まっていたのだ。 残酷な結論は、捨て駒とされたに過ぎない。 だったら議論なんかするなって話で、 「いじめはやられる方が悪い」と言っていた女が 「やっぱりいじめはする方が悪い」とか言っちゃって、 結局どっちかに偏ってしまう。 新たな視点を得たのはいいけど、 そっちに全部移ってしまっては意味がない。 そういうことが分からないのだろうか。 思考停止の人間と話し合うことはできない。 ★質問する能力★ 上で、「疑問」と「質問」が出たので、少し書いてみる。 思うに、「疑問」というのは本能的な部分である。 大脳辺縁系(?)を使っている。 「質問」というやつは理性的な部分である。 大脳新皮質か。 こどもは、疑問をぶつける権利がある。 それはこどもだからである。 「空はなんで青いの?」 「どうして雲は落ちないの?」 なんでもかんでも聞きまくる。 しかし、大人たるもの疑問をいきなりぶつけることはできない。 もちろん、その知識に「大人と子供ほどの差」があれば、 聞くことも可能である。 たとえば、まったく武道をしたことのない人が 「合気道ってなんですか?どんな武道ですか?」 これは許される疑問であり、また有効な回答を得られる可能性が 高いことを考慮して、「質問である」とも言える。 しかし、合気道を稽古している人が 「合気ってなんですか?どうやるんですか?」 と聞くのは、頭が弱いとしか言いようがない。 質問になっていない。 質問は、疑問に考察を重ねた結果生まれるもので、 非常に理知的なものだと思う。 解決できる疑問はすべて自分で解決しつくした。 それでも分からない。そこで、はじめて質問が生まれる。 俺は「質問力」とかいう本は読んだことがないけれど、 もしかしたら、こんなようなことが書いてあるんじゃないかなあ、と思っている。

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