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カテゴリ:ヒロ散歩
小田原城の『あじさい・花菖蒲まつり』を見た後、本丸広場へ。
6/6(木) 10:00 常盤木橋から石段を上り常盤木門へ 小田原城案内図 小田原城と小田原合戦攻防図 天正18年(1590)4月、戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城が、豊臣秀吉の大軍に 包囲された。その時の豊臣方の布陣 常盤木門 常盤木門は、江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に 造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期には設けられていたことが分か っている。元禄16年(1703)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多聞櫓と 渡櫓から構成される枡形門形式で再建されましたが、明治3年(1870)の小田原城廃城 の際に解体撤去された 常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も成長することにな ぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名付けられたといわ れています。江戸時代には、常盤木門に隣接して、戦国時代からの「本丸の七本松」 があり、現在もその内の一本が本丸の「巨松」として残っています。現在の常盤木門 は、市制30周年事業として昭和46年(1971)に再建した 常盤木門から銅門を望む 天守閣 左は、大久保家:大久保藤、右は北条家:北条鱗 多くの外国人観光客が訪れていた 15世紀後半に西相模一帯を支配していた大森氏の小さな山城だった小田原城は、明応 4年(1495)、後の北条早雲が大森氏を攻め滅ぼしてから、北条氏の居城となった 本丸跡 小田原城の本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模があり、その 西端に天守台、中央には本丸御殿がありました。本丸の周囲には石垣と土塀がめぐら され、東と北の2箇所に門が設けられていました。東側の門は、本丸正門にあたる常盤 木門、北側は裏門で鉄門と呼ばれていた。 本丸御殿は、他のお城では藩主居館として用いられます。しかし、小田原城では徳川 将軍家の宿所としての役割を持っており、寛永10年(1632)の寛永小田原大地震で倒壊 したため、翌年に上洛する三代将軍徳川家光の宿所として再建された。 現在、本丸の東南には「巨松」と呼ばれる天然記念物のマツの巨木があります。巨松 は「七本松」最後の一本で、樹齢は400年を超えています 本丸広場からのあじさい 本丸広場から東堀花菖蒲園を望む 常盤木橋の下にある「小田原城跡のイヌマキ」 この木は幹回り4.5mに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ地上 5mのところで四支幹に分岐している。以前は、四方へ密に枝を広げて傘状の見事な姿 をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、 現在のような姿になってしまいました。 しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも 本丸の巨松と並ぶ双璧です イヌマキは関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の 高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られます 本丸広場から、馬出門(ウマダシモン)へ向かう。 銅 門(アカネモン) 江戸時代の二の丸正門に位置づけられる門です。この門を通り本丸や天守へと進むよ うになっていました。現在の銅門は、発掘調査の成果や絵図、古写真などを参考に平 成9年(1997)に古来の工法により復元した。銅門の梁にはマツ、柱と扉にはヒノキが 使われています 枡形という形式の門で、櫓門と内仕切門の2つの門と、これをつなぐ石垣と土塀で構 成されます。銅門の名は、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその名がついた といわれている。地震などによる被害を度々受けながらも、その都度修理がなされ、 江戸末期まで維持されていましたが、明治時代に入り廃城となった後の明治5年(1872) に解体された 解体される前の銅門(明治5年) 住吉橋(スミヨシバシ)から銅門 住吉橋(スミヨシバシ) 銅門 開門時間:午前7時から午後9時 照明時間:日没から午後10時まで 住吉橋と銅門 馬屋曲輪と馬出門 馬屋曲輪に設置された「小田原城案内図」 天守閣への赤い線が 小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えら れている。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点とし て次第に拡張された。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長 9kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達した。 北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主となると、石垣を築くなど、北条氏の 城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。 その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の 姿は一新します。稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴 火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続 馬出門 馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。 寛文16年(1672)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで継続した。 石垣と土塀で四角く囲んだ枡形と、本柱と控柱を備えた高麗門形式の馬出門・内冠木 門の二つの門からなります 馬出門土橋(めがね橋)から馬出門 馬出門から天守閣を望む 馬出門土橋(めがね橋)から学橋 馬出門土橋(めがね橋)と馬出門 JR小田原駅方面の桜並木 馬出門土橋(めがね橋) 10:25 三の丸小学校 10:35 南入口の駐車場から「小峯御鐘ノ台大堀切」へ 小峯御鐘ノ台大堀切へ 小峯御鐘ノ台大堀切東堀 現在、小峯御鐘ノ台大堀切東堀と呼んでいる堀は、本来は三の丸新堀の一部であり、 もともとは小田原城の外郭の一部でもありました。その後天正15年(1587)から、総 構堀とともに小峯御鐘ノ台大堀切中堀・西堀が構築されたことで、小峯の丘陵を守る 一連の堀切としての役割を担うようになりました 現在、堀は延長280mの長さで堀底が散策路となっており、途中2箇所の「横矢掛り」 を確認でき、堀や土塁の規模が体感できる 現況土塁上から測った堀幅は25~30m、深さはおよそ8~10mですが、発掘調査で確 認された堀底までを含めると深さは12~15mであったことがわかっている 小田原を守った総構と三本の堀切 戦国時代の小田原城は、小峯御鐘ノ台(標高123.8m)を頂点とし、周囲9kmに渡って 堀と土塁を構築して外郭とした大規模な城郭でした。小田原城では、この外郭の堀・ 土塁を「総構」と呼んでいます。 小峯御鐘ノ台は、尾根伝いに箱根山と連なっているため、尾根上の往来を遮断するた めの大規模な堀切が構築されています。堀切は三本あり、現在「東堀」「中堀」「西 堀」と呼んでいますが、東堀はもともと三の丸新堀の一部であり、・・・・・・・・ 堀法面の角度は50~60度で、堀底に堀障子を有する障子堀であったことも確認されて います。障子堀を歩く旅友のKさん 三の丸外郭新堀土塁方向 日蓮宗 蓮船寺 蓮船寺のあじさい 10:47 蓮船寺本堂 境内の紫陽花 二宮へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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