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2017.01.12
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カテゴリ:書籍
皇太子誕生

皇太子誕生

 たとえ病院はボロであっても、中身は日本一といわれる病院にしたい。(138ページより)
著者・編者奥野修司=著
出版情報文藝春秋
出版年月2001年11月発行

著者はフリー・ジャナリストの奥野修司さん。『ねじれた絆 赤ちゃん取り逃え事件の 17 年』『隠蔽 父と母の〈いじめ〉情報公開戦記』など、出産に関するルポルタージュを上梓している。本書は、皇太子殿下(今上陛下)と妃殿下(皇后陛下)の結婚から、浩宮(皇太子殿下)、礼宮(秋篠宮殿下)、紀宮(黒田清子さん)の出産に関わる医師、助産師、事務官、そして医療機器メーカーの奮闘の記録である。浩宮誕生から 40 年を経て書かれたため、すでに他界している人物も多く、資料も散逸している。だが、当時のわが国の産科医療を知り、現在の医療水準との差異を知るメルクマールとして、たいへん参考になる。

昭和 21 年から始まったベビーブームで、わが国の人口は 15%も増えた。その影で、赤ちゃんの 1 割近くが死んだという。「赤ちゃんの死亡率が減少するのは、閉鎖型保育器と蘇生器(陰陽圧式レスピレーター)と、そして当時の産科領域で ME 機器を代表する分娩監視装置の普及に拠っていた。この 3 つがかろうじて揃ったのが昭和 35 年の浩宮誕生のときだった」(40 ページ)という。東大が胎児危険予知のために試作していた胎児の心音を記録する「胎児心音監視装置」が、浩宮の誕生の際、日本ではじめて使われることになった。
昭和 34 年 4 月 10 日の御成婚パレードから数カ月後、皇室初の病院出産を成功させるためのプロジェクトが静かに動き始めた。だが、天皇家の脈をみるのは当学の教授だとプライドを持つ東京大学、その役目は伝統的に御用掛だとする宮内庁、さらに宮内庁病院の思惑も絡み、プロジェクトチームの組成は難航を極める。
そんな中、宮内庁病院の主とも呼ばれた目崎鑛太医師が調整役を買って出る。「当時の医師たちは小児科医、産婦人科医という学閥を取り払い、持ちうるかぎりの知識と技術を集めようとした。美智子妃の出産は、いわば日本の産婦人科と小児科の総力戦でもあったのだ」(47 ページ)。

「たとえ病院はボロであっても、中身は日本一といわれる病院にしたい。それが目崎氏の願いであった」(138 ページ)という。
胎児心音監視装置が完成したのは、2 月初旬。浩宮誕生まで 2週間。ギリギリである。残念ながら、この胎児心音監視装置は行方知れずだという。
浩宮誕生の後、胎児心音グラフが描かれた記録紙と、胎児心音と出産後の産声が記録されたオープンリールテープが皇太子家に献上された。これも目崎医師の発案という。

ME 機器の開発は日進月歩だった。浩宮から 5 年半後の礼宮誕生の際は、胎児心音監視装置をはじめとする各種ME 機器は一新される。目崎医師は、限られた予算を有効に利用し、足りない分は口約束で最新機器を揃えた。

Wikipedia にも載っていない目崎医師は、浩宮、礼宮、紀宮と、美智子妃の出産すべてに立ち会い、平成 9 年 12 月、90 歳の生涯を閉じる。このように黒子に徹した医師がいるのも驚きだが、皇室の出産のために ME 機器の開発に全力を投じる医師や技術者が、今日のわが国の産科医療を築いてきたのだと、あらためて考えさせられる。






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最終更新日  2017.01.12 12:01:00
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