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2019.07.19
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カテゴリ:書籍
ハプスブルク帝国

ハプスブルク帝国

 ヨーロッパでは、君主と諸身分の合議による政治が一般化するうち、両者が討議し合意形成を行う場が、恒常的に設けられるようになった。これが身分制議会の発端である。(49ページ)
著者・編者岩崎 周一=著
出版情報講談社
出版年月2017年8月発行

本書は新書ながら 400 ページを超える分厚いもので、「ハプスブルク帝国に関心があるか、詳しいことは何も知らない」(4 ページ)読者のために書かれたという。
高校の世界史で、ハプスブルク帝国は覚えるのが大変な題材の 1 つだった。国家通史として扱われないから、教科書のあちらこちらに散発的に登場し、全貌が見えなかったからだ。だが、田中芳樹氏の『銀河英雄伝説』を読み、銀河帝国の始祖ルドルフ大帝の名が、ハプスブルク家の最初の神聖ローマ皇帝と同じであることから、その歴史を見通せるようになった。どちらも選挙で選ばれた皇帝であり、始祖から 500 年後、神聖ローマ帝国はナポレオンに滅ぼされ、銀河帝国ゴールデンバウム王朝はラインハルトによって滅ぼされる。
本書は、1273 年のルドルフ 1 世の即位から始まる――。
宗教改革、レコンキスタ、三十年戦争、フランス革命、ナポレオン戦争、ウィーン会議、第一次世界大戦、ナチス・ドイツ‥‥すべてハプスブルク家が関与しており、その視点から西洋史を整理し直すと、帝国主義と民主主義の違いは、通史が教えるような単純なものではないと感じる。

選帝侯による選挙は、現代民主主義のそれとは異質なものである。だが、全体主義回避という目的は同じだ。そして、選帝侯全員の賛成が必要という。反対する選帝侯は、事前に入れ替えてしまったようだ。私たち日本人が、ゲルマン民族に共感を覚えるのは、こうしたメンタリティが共通しているからかもしれない。

1508 年、ハプスブルク家のマクシミリアン 1 世は、神聖ローマ皇帝の戴冠を受けるべくローマへ向かうがヴェネツィア共和国の妨害を受け、トレントで戴冠式を挙げる。これ以降、ハプスブルク家の皇帝はローマで戴冠式を挙げることはなくなった。
マクシミリアン 1 世は、自らがブルゴーニュ公国の一人娘マリーと結婚するなど、結婚政策で成功をおさめ、ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いた。中世最後の騎士と呼ばれたが、フッガー家との交流を通じて得た資金で傭兵や武器を整える一方、芸術へつぎ込んだ。デューラーなどの芸術家のパトロンとなり、ウィーン少年合唱団の前身をつくった。ちなみに、マクシミリアン 1 世がマリーにダイヤモンドの指輪を贈ったのが婚約指輪の始まりとされる。
この後、ハプスブルク家は「戦争は他国にさせておけ、なんじ幸いなるオーストリアよ、結婚せよ」というモットーのもとに領土拡大したとされるが、血縁者が断絶した領土を併合していったというのが史実である。わが国でも戦国時代に政略結婚が盛んに行われたが、断絶の効果の方が圧倒的であったことと同じだ。

1519 年、マクシミリアン 1 世の孫、カール 5 世が神聖ローマ皇帝として即位する。母方の祖父母はグラナダを陥落させレコンキスタを完成したカトリック両王フェルナンド 2 世とイサベル 1 世。名家の血筋だ。
同年、カール 5 世が支援するマゼランが世界周航へ出発する。カール 5 世は、大航海時代のスペインを版図に収め、「太陽の沈まない国」としてハプスブルク家の絶頂期に君臨した。
一方で、宗教改革の嵐に晒され、ヨーロッパの覇権を競うフランス王国や、スレイマン 1 世が率いるオスマン帝国との戦乱が続き、心身ともに疲れ果て、晩年は自ら退位し修道院に隠棲した。
世界周航、宗教改革、イタリア戦争、ウィーン包囲、ローマ略奪、トリエント公会議は、すべてカール 5 世が関係する。ハプスブルク家で歴史を串刺ししてみると、中世から近世へ移行しつつあるヨーロッパの姿が浮かび上がってくるではないか。
カール 1 世のモットー "@Plus Ultra@プルス・ウルトラ@ruby"(ラテン語:もっと先へ)は、漫画『僕のヒーローアカデミア』で、たびたび引用される。

ハプスブルク家はこの後、スペイン系とオーストリア系に分かれる。カール 5 世の息子フェリペ 2 世は、スペイン帝国の最盛期を築いた。
1571 年、レパントの海戦でオスマン帝国軍を退けた。1580 年、ポルトガル王家が断絶したことから王位継承を主張し、翌年、身分制議会の決議を経てポルトガル王位に就き、イタリア半島を支配した。1584 年、わが国から派遣された天正遣欧少年使節と面会した。
中南米の銀山開発により、ヨーロッパの金流通量は 2.5 倍に、銀流通量は 3 倍を超え、価格革命が起きた。しかし、複合的国制を維持するには莫大な費用がかかり、フェリペ 2 世が没した 1598 年、スペインの支払利息の総額は総収入の 3 分の 2 を占めるまでになってしまった。また、スペインの栄華は、新大陸から搾取することによって成り立っていた。

一方、カール 5 世の弟フェルディナント 1 世は、オーストリア系ハプスブルク家として、神聖ローマ皇帝の位を保持しつつ、チェコとハンガリーを加え、中欧にドナウ君主国を形成していった。いまでもハンガリーやチェコの民族は複雑であるが、フェルディナント 1 世も統治に苦労してしたことが分かる。
1555 年、兄の神聖ローマ皇帝カール 5 世からドイツ支配を任されたドイツ王フェルディナントは、宗教対立を収束をはかるべく、諸侯の信仰は自由であり、自領の信仰はカトリック教会とルター派から選ぶことができるとした「アウクスブルクの和議」が成立する。これにより、1521 年に神聖ローマ皇帝カール 5 世がルターを追放したヴォルムス勅令は効力を失った。ただし、この時点におけるプロテスタントはルター派のみであり、カルヴァン派は想定していなかった。こうしてハプスブルク家による宗教統一は頓挫した。

このあと、プロテスタントに寛容なマクシミリアン 2 世、文化人でティコ・ブラーエやケプラーを支援したルドルフ 2 世が神聖ローマ皇帝となったが、政治は混乱した。次のマティアスは、カトリックとプロテスタントの融和を進めるが、失敗。1619 年、神聖ローマ皇帝に即位したフェルディナント 2 世の時代、弾圧に反発した急進派の貴族が皇帝代官マルティニツとスラヴァタをプラハ王宮の窓から突き落とすというプラハ窓外投擲事件事件が起き、三十年戦争の幕が切って落とされた。
一方、ネーデルランド諸州は 1568 年、スペイン・ハプスブルク帝国に反乱を起こし八十年戦争が勃発していた。これが三十年戦争に合流し、戦乱がだらだらと続くことになる。
戦争は、神聖ローマ帝国内におけるカトリックとプロテスタントの対立ではじまったが、後半はハプスブルク家、ブルボン家、ヴァーサ家による大国間のパワーゲームに展開してゆく。戦争中、ドイツ国土は荒廃し、1800 万人いた人口が 700 万人にまで減ってしまったといわれる。
1648 年、フェルディナント 3 世がウェストファリア条約を受諾する形で、ようやく戦争は終結した。同時に、新教徒やカルヴァン派の信仰も認められ、ようやく宗教戦争に終止符が打たれた。
しかし、ドイツの約 300 ある諸侯は独立した主権国家となり、神聖ローマ帝国は実質的に解体されることになる。また、1661 年、太陽王ルイ 14 世が親政を開始すると、フランス王国はドイツ諸州へ侵攻し、アルザスおよびロレーヌをほぼ占領する。帝国内では反仏感情が一気に高揚し、諸侯はハプスブルク家の支援を請う流れとなる。
1683 年から 1714 年にかけ、ハプスブルク家は、第二次ウィーン包囲に端を発する対オスマン戦争、プファルツ継承戦争(9 年戦争)、スペイン継承戦争と、再び 30 年におよぶ戦争を戦った。その結果、ハプスブルク家は領土を倍増させ、神聖ローマ皇帝カール 6 世の時代、国力と勢威を大いに増した。また、ウィーンはハプスブルク君主国の首都として本格的に発展していくこととなる。

1740 年、カール 6 世が没すると、ハプスブルク家の男系男子は途絶える。長女マリア・テレジアが相続するが、これをめぐってオーストリア継承戦争が勃発する。
1765 年、皇帝フランツ 1 世(マリア・テレジアの夫,ハプスブルク=ロートリンゲン家の祖)が没すると、長男のヨーゼフが後を継いだ(ヨーゼフ 2 世)。マリア・テレジアが没するまでの以後 15 年間、ハプスブルク君主国はマリア・テレジア、ヨーゼフ、カウニッツの「三頭体制」により統治されることとなる(マリア・テレジアはオーストリア大公妃で、皇帝には即位していない)。

一方、スペイン・ハプスブルク家はヨーロッパ屈指の名門で、そのプライドの高さがゆえに、格下の諸侯とは結婚せず、近親婚が繰り返された。 その結果、カルロス 2 世は心身に異常を来たし、スペイン・ハプスブルク家が途絶える。ここへ太陽王・ルイ 14 世が介入し、1701 年、スペイン継承戦争が勃発する。
カール 6 世がスペイン王位を継承することを恐れた各国は、ルイ 14 世の孫をフェリペ 5 世として即位させ、1713 年にユトレヒト条約を結んだ。この後ナポレオンに征服されるまで、スペインはブルボン朝による支配を受けることになる。

マリア・テレジアの下で外交革命が起き、長年敵対していたハプスブルク家とフランス王家の間で同盟関係が成立、政略結婚が行われた。
マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットがルイ 16 世の皇后となり、フランス革命が起きた。ヨーゼフ 2 世の弟で神聖ローマ皇帝となったレオポルド 2 世は革命への介入を呼びかけたが、1792 年、ヴァルミーの戦いでオーストリア・プロイセン連合軍はフランス軍に敗れ介入は失敗した。
レオポルド 2 世の長男で神聖ローマ皇帝となったフランツ 2 世はナポレオン戦争に巻き込まれ、1805 年、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)で敗北。南西ドイツ諸侯がナポレオンを盟主としてライン同盟を結成したため、1806 年、神聖ローマ帝国皇帝を退位した。これにより神聖ローマ帝国は消滅するが、オーストリア大公の地位は残っており、初代オーストリア皇帝フランツ 1 世となった。
フランツ 1 世はメッテルニヒを登用し、ナポレオン戦争の戦後処理であるウィーン会議の主導権を握った。質素な生活を好み、晩年は国民からも親しみを込められて「善き皇帝フランツ」と称された。

ウィーンは繁栄を謳歌するが、それは一部の特権階層の話で、大多数の市民は半日を越える長時間労働が当然で、1842 年に制定された児童保護法において、児童の労働時間が 10~12 時間に規制されるにとどまった。このような状況はヨーロッパ中で広くみられ、ここから社会主義思想が生まれてマルクスとエンゲルスが共産主義を唱えるようになるが、これらの思潮はハプスブルク君主国にも流入し、政府は神経を尖らせた。

ウィーンで 10 月革命が鎮圧され、体制刷新のためにフェルディナント 1 世が退位し、1848 年 10 月、甥のフランツがフランツ・ヨーゼフ 1 世として即位した。
クリミア戦争で、敵対してきたオスマン帝国は弱体化したが、逆にハプスブルク家も友好国が一つもないという外交的孤立状態に陥った。1866 年の普墺戦争での敗北は、ハンガリーとの関係改善を促進した。皇妃エリーザベトがハンガリーに肩入れしていたことも、これを後押しした。

1860 年代後半、ハプスブルク君主国の年間経済成長率は 8~10 パーセントを記録し、産業経済は活性化した。鉄道網の拡充が各地の事業・産業を有機的に結びつけ、工業株式会社が次々に誕生する「創業期」が到来した。しかし、その裏ではバブル現象が徐々に拡大していた。それは 1873 年 5 月、万国博覧会の開幕直後にウィーン証券取引所で発生した株価の大暴落によって明白となる。ここから発生した「大不況」は、1870 年代の世界経済を大きく混乱させた。
工業化の進展は、都市化をさらに促した。1873 年にブダ、オーブダ、ペシュトの 3 市が合併してハンガリーの新首都ブダペシュトが誕生した。
労働者たちは環境の改善を求める声を強め、繰り返しストライキやデモを展開した。初のメーデーは 1890 年のことである。衛生環境の劣悪さは、ウィーン病と呼ばれるコレラや結核が猛威を振るった。ウィーンなどでカフェ文化が栄えた一因は、人々が住み心地の悪い自宅より、カフェに憩いの場を求めたことにある。
にもかかわらず、ウィーンは文化や科学の面ではヨーロッパ随一の都市であり続けた。レフ・トロツキーとヨシフ・スターリンも一時期をウィーンで過ごし、ここで初めて顔を合わせた。

1914 年、ハプスブルク家のフランツ・フェルディナント大公が暗殺されたことをきっかけに、第一世界大戦が勃発する。1918 年、ハプスブルク君主国は連合国との休戦協定に調印し、権力の座から退いた。オーストリアは共和国となり、翌1919 年、ハプスブルク法が制定され、最後の皇帝カール 1 世を含むハプスブルク一族は財産没収のうえでオーストリア国外へ追放されることとなった。
1921 年、カール 1 世はハンガリー王国で復位を試みるが失敗。1922 年に死去し、オットーが相続する。
ヒトラーは、ドイツとオーストリアの合併を視野に入れ、オットーへの接触を試みた。だがこれは実現せず、ヒトラーはオットーを激しく敵視するようになった。
1961 年、オットーは、帝位請求権の断念を表明し、オーストラリアへの帰国の許可を求めた。オーストリアの政治が混乱し、オーストリア国民党とオーストリア社会党による大連立政権は崩壊し、オットーは帰国を果たした。その後、欧州議会議員や国際汎ヨーロッパ連合会長を務めるなど、汎ヨーロッパ主義的に活動した。
2011 年、オットーが死去し、長男カールが相続した。






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最終更新日  2019.07.19 12:06:11
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