6640086 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

プロフィール

パパぱふぅ

パパぱふぅ

キーワードサーチ

▼キーワード検索

フリーページ

カテゴリ

バックナンバー

2024.12.28
XML
カテゴリ:書籍
世界哲学のすすめ

世界哲学のすすめ

 近代に限定せず、古代からの日本の「哲学」を語っていくこと、それが現代の私たちに求められる世界哲学なのです。
著者・編者納富信留=著
出版情報筑摩書房
出版年月2024年1月発行

著者は、東京大学大学院教授で、西洋古代哲学が専門の納富信留 (のうとみ のぶる) さん。世界哲学とは、西洋中心の「哲学」を根本から組み替え、より普遍的で多元的な哲学の営みを創出する運動だという。
古代ギリシア哲学、ルネサンス哲学、中国哲学、ロシア哲学、現代フランス哲学も、全てはローカルな哲学であり、宗教や思想が哲学に劣ることはないという。

I部では、世界哲学とは何かについて解説する。
哲学がローカルになる背景の1つとして「暦」がある。私たち日本人は現在、欧米人と同じグレゴリオ暦(太陽暦)を用いているが、明治5年までは太陰暦を使っていた。欧米も国や地域によってグレゴリオ暦に移行した時期が異なる。イスラム圏ではヒジュラ暦という異なる暦法が使われている。つまり、時代が違ったり、国や地域によって時間に対する感覚・概念が異なるのである。
また、国や地域によって普通に見る世界地図も異なる。私たちの世界地図は太平洋西岸が中心にあるが、アメリカの世界地図は南北アメリカ大陸が中心だし、南半球諸国の世界地図に至っては南北が逆転している。
さらに母国語の違いがある。数え方にもよるが、世界には3千から7千におよぶ数の言語があり、母語とする人口で言えば、一番多いのは北京語、次いでスペイン語で、英語、ヒンディー語の順に続く。自然科学や技術の分野では、現在は英語が主流だが、時代を遡ればドイツ語やロシア語、ラテン語が使われていた時代もある。また、人文社会科学の療育では多言語状態が続いている。イスラーム教の文化圏ではアラビア語が主流であることにも留意すべきだろう。言語独自のスタイル、とりわけレトリックや言葉遊びは、異言語では再現が難しい。したがって、異なる文化の間で哲学テクストを翻訳する場合、自動翻訳を含め、単に言語を理解可能な形で別の言語に置き換えるだけでは不十分だ。
たとえば「普遍 universal」という概念にしても、元の漢語は「ひろく行き渡っている」という意味で、中国や日本でも早い時期から使われていたが、この語を哲学概念に用いたのは明治以降のことだという。「ユニバーサル Universal」という語に「一統、普遍、全稱(論)」という訳語を、そして「ユニバーサルズ Universals」に「通有性(論)」という訳語を当て、以後、哲学では「普遍」という訳語が、論理学においては「全称」という訳語が定着している。英語の形容詞「ユニバーサル universal」は、ラテン語の形容詞「ウニウェルサーリス universalis」に由来し、「他の多くのものに対する一(ウーヌム・ウェルスス・アーリア unum versus alia)」という表現から作られたとも言われている。
納富さんは、ギリシア哲学が求めた普遍性とは、「あらゆる時空や状況を通じて同一である」という単純な画一性ではなく、むしろ、「個別特定の状況において普遍的に説明されうる universalizable」という可能性ではなかったか、と考えている。

II部では、世界哲学の諸相としてアフリカ哲学、現代分析哲学、東アジア哲学という3つの事例を検討する。
納富さんは、「アフリカ」は政治、言語、民族、文化、宗教など、あらゆる点でけっして同質世界ではないとした上で、アフリカには昔から哲学があり、それを探求するには、ヨーロッパ哲学の「現実、知識、真理」といった認識論の概念が植民地アフリカに押し付けられ、その哲学的パラダイムのもとで支配され奴隷となっている状況のくびきから脱却する必要があるしている。西洋哲学が前提している言語分析や論理の基盤が改めて反省に晒され、西洋哲学では把握しきれない宇宙の全体性を捉えるのが、ウブントゥ哲学である。
英語圏、とりわけアメリカの教育では「明瞭であれ Be clear!」が重視され、それが分析哲学の論文スタイルにも反映している。だが、分析の対象となる概念は英語、さらに命題や用例も固有名も英語のものに限られる。
世界哲学考えるのに、中国哲学史を基本軸に据えて、そこに朝鮮、日本、ベトナムなどの動向を重ね合わせてみる。納富さんは、そうした東アジア哲学史を構築することが大切だと説く。日本人は、明治以降に西洋からもたらされた「哲学」と、それ以前からあった「思想」を分けて考える傾向があるが、海外の研究者から「哲学でないのなら、真面目に論じるには値しない」と返されるはずだと指摘する。
納富さんは、近代に限定せず、古代からの日本の「哲学」を語っていくこと、それが現代の私たちに求められる世界哲学だと説く。
納富さんは、ダレイオス一世(前558~前486)の時代、古代ギリシアと古代インドが接触した歴史的事実を挙げ、さらにアリストテレスから教育を受けたアレクサンドロス大王(前356~前323)によりギリシア哲学とインド哲学が影響を与え合ったと推測する。
納富さんは、前2世紀半ばに成立したとされる『ミリンダ王の問い』(ミリンダ・パンハ)として伝わる仏教外典に触れる。それは、当時ギリシア人の王国があった北西インドの都サーガラのミリンダ王と、彼と対話して仏教へと帰依させる僧ナーガセーナの対話が記録されている。ミリンダ王はギリシア哲学の根幹にある「魂」について問いかけると、ナーガセーナは「無魂」と答える。私という実体を「魂」に置くギリシア哲学に対し、インド哲学は「縁」をもって返したのである。

III部では、未来の哲学を論じる。まずギリシア哲学に立ち戻り、納富さんは、西洋哲学がギリシア哲学の直系とは限らないことを指摘する。なぜならば、ローマ経由でキリスト教哲学となったルート以外に、ビザンツ帝国に入ったルートや、シルクロードを経由して遠く日本まで伝わったルートもあるからだ。ギリシア哲学を動かしたもっとも基本的な対立軸は、神と人間という区別、その関係だった。また、類比アナロジーも特徴的だ。類比は「モデル」を用いる思考法でもあり、単純な基本要素が結合と分離によって世界の多様なあり方を形作るという見方は、自然多元論の基礎となった。こうして古代ギリシアの哲学者たちが思索し、後世に伝えた最も重要なものは「人間とは何か」の理念であった。
では、世界哲学を展開するために、今後どのような作業が必要となるだろうか。納富さんは、「普遍性」という理念を含むギリシアの「フィロソフィアー」の基盤を、成立状況や特殊性や考え方の偏向も含めてさらに検討することで、その限界を明らかにする作業が出発点になるという。その上で、「普遍性」をめぐって思考された、他の可能性を探る。私たちにとっては、まずは日本、韓国、中国など、東アジアの哲学を射程として、ギリシア哲学や西洋の限定を超える視野を開こうという試みを提示する。

最後に、納富さんは世界哲学における「対話 dialogue」の重要性を説く。対話は、時に衝突の引き金となることもあるが、それ自体は自主的で主体的な営みであるから、強制されて参加することは望ましくないという。

荒川弘さんの漫画『鋼の錬金術師』第22話「仮面の男」で、主人公の1人で錬金術師のエドワード・エルリックが次のようにつぶやく――
>>
オレもアルもその大きい流れの中のほんの小さなひとつ――全の中の一。だけど、その一が集まって全が存在する。この世は想像もつかない大きな法則に従って流れている。その流れを知り、分解して再構築する‥‥それが錬金術。
<<
本書で考察がなされる「普遍 universal」の概念そのものである。私たちIT技術者が日頃使っている「ユニバーサルデザイン」「ユニバーサルサービス」という用語が、いかに思慮不足であるかを思い知らされる。

古代ギリシアと古代インドとの出会いにも思い当たる節がある。
ルネ・デカルトの『方法序説』にある「我思う、ゆえに我あり」という有名な一文だが、中学生の時に初めて読んでから45年以上たつのだが、どうにも収まりどころのない言葉なのだ。とはいえ、理系集団の中であからさまに否定すると、文系根性論のレッテルを貼られかねない。
「我思う、ゆえに我あり」は、ギリシア哲学から連綿と続く「魂」(プシューケー)の話だ。これに対し、ナーガセーナは「縁」、すなわち「関係性」を説いた。
オブジェクト指向とリレーショナル(関係性)データベースを扱うことを得意とする私にとって、まさに、「縁」こそが世界を表すにふさわしい言葉なのである。魂は関係木(ツリー)のルート(根)である。いや、ルートから両親(ペアレント)、さらには祖父母をたどることができるから、私たち一人一人はノード(結節)に過ぎないのかもしれない。人間一人が死去しても、社会全体としては揺るぎもしない。それは関係性が複数のノードを経由したネットワーク構造になっているからだ。
私は日本で生まれ育ったがゆえに「我思う、ゆえに我あり」を受け入れにくいというのが事実なのだろうが、そこで仏教やインド哲学に寄ったところで、技術者としての論理性・合理性に矛盾を来すわけではない。これからは自信をもって、「オブジェクト指向は縁である」ということにしよう。
本文でアフリカ哲学の概念「ウブントゥ」を名を冠したOS「Ubuntu」というLinuxがあるが、そのサポートチームは、公式サイトに次のように書いている
>>3
Ubuntuは、アフリカの単語で「他者への思いやり」や「皆があっての私」といった意味を持ちます。LinuxディストリビューションであるUbuntuは、Ubuntuの精神をソフトウェアの世界に届けます。
<<

納富さんは冒頭で、世界哲学という方法は「比較哲学」と「哲学史」という2つの枠組みをとるとして、欧米や中国から適当な距離にある「日本が『世界哲学』を理念として打ち出し、その議論を牽引する役割がある」と言うが、これには違和感がある。距離を置くのではなく、さまざまな〈ローカル〉が集まっているネット社会こそ、世界哲学をするうえで格好な場所ではないだろうか。
一方で、暦や地図の観点から世界哲学に導く流れには賛成だ。かつての天文少年としては、俯瞰して世界を見るのが好きだから。そして、各地を旅しながら、見知らぬ外国の方と話をして、100年前、1000年前の自国史を語り合うのが好きだ。
一期一会――私の哲学は、すべてのヒトに分け隔てなく与えられる〈時間〉だったのだが、最新の量子重力理論の研究によると、その時間さえあやふやなもののようだ。納富さんは、III部で世界哲学の構想という未来を説くが、私は、哲学には過去も未来もないと考えている。時と場所を超越した〈普遍性〉こそが、世界哲学なのではないだろうか。
私たちはどこから来てどこへ行くののだろうか――という疑問に対する私の答えは、私たちは太古の昔から〈ここ〉に居て、遙か遠い未来においても〈ここ〉に居るのである。その〈ここ〉というのは、関係性ネットワークの中にある量子的な場であり特定することはできないのだが、それでも、関係を通じて私たち一人一人は確かに存在しているのだ。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024.12.28 12:12:23
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.
X