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2024.12.30
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カテゴリ:書籍
女たちの平安後期

女たちの平安後期

 八条院領は鎌倉幕府に近いネットワークだった。というより、鎌倉幕府そのものが、八条院と同様の権力体を王権に認めさせて成立したものといえるように思う。
著者・編者榎村寛之=著
出版情報中央公論新社
出版年月2024年10月発行

著者は、斎宮歴史博物館学芸員で関西大学等非常勤講師の榎村寛之 (えむら ひろゆき) さん。日本古代史が専門で、本書は2023年に刊行された『謎の平安前期―桓武天皇から「源氏物語」誕生までの200年』の続編にあたる内容だ。

藤原道長の時代は、支配層が「オール藤原」といえる摂関政治の全盛期だったが、平安時代後半になると、藤原氏だけでなく、源氏・平氏、そして皇族などいろいろな人たちが登場する。地方で受領として実績を積み、富を蓄え、大貴族の家政を預かる「家司 (けいし) (お屋敷のマネージャー)」になる下級貴族や、出家した元皇后(皇太后 (こうたいごう) )に送られる称号である「女院 (にょいん) 」が活躍した時代である。紫式部は当時の宮中の様子を『源氏物語』に反映させたと考えられているが、政治的背景の弱い藤壺が女院となり、皇族の家長に上り詰めたサクセスストーリーとして描かれている。その意味では、女院の活躍を予言した物語とも言える。

藤原彰子 (ふじわらのあきこ) は、藤原道長の長女で、道長は12歳の彰子を女御として内裏に送り込み、一条天皇の中宮とする。彰子は、後一条天皇、後朱雀天皇を産み、太皇太后 (たいこうたいごう) となり、官位で道長を上回った。そこで道長は太政大臣を辞し、出家し大殿 (おおとの) (法名は行観)となることで、臣下の序列から離れて外部から王権をコントロールするようになった。彰子も、それに倣い、藤原氏の中宮経験者では初めて、上東門院 (じょうとうもんいん) という女院となり、天皇家と摂関家の双方に君臨する地位を道長から引き継ぎ、1074年、87歳の天寿を全うする。
一方、死の直前、冷泉系と円融系の天皇家の合一を目論んだ道長は、次女・妍子 (きよこ) と三条天皇の間に産まれた禎子 (さだこ) 内親王を後朱雀天皇の皇后となり、後三条天皇を産む。禎子もまた長命で、太皇太后となり陽明門院 (ようめいもんいん) と呼ばれる女院となる。道長の長男・頼通 (よりみち) と彰子が没するが、禎子は1094年に80歳まで生き続け、白河天皇の子、堀河天皇の時代で、院政と呼ばれる時代になっていた。禎子は、生きながらえることで摂関家を権力の座から追い落としたのだった。

10世紀に入ると、地方では大貴族や寺社の荘園ができたり、国府の力が強くなり、律令体制下にあった群とその下部組織の郷という地域支配システムが機能しなくなり、治安維持能力をもった武士が台頭してくる。たとえば、986年に斎宮・済子女王と密通事件を起こしたという滝口武者平致光 (たいらのむねみつ) は、996年の長徳の変の際には伊周の郎党として逃亡を余儀なくされたが、1019年の刀伊の入寇で活躍した平致行と同一人物と目されている。また、藤原道長に武力をもって仕えたなかに、清和源氏の源頼光がいた。四天王ともに大江山の酒呑童子を退治した伝説の主である。
このように摂関家とコネクションをバックに、全国を流れ渡る武装集団が現れてきた。彼らは鎌倉武士とは性質が異なる。

榎村さんは、「専制的な君主の政治は、行き当たりばったりから始まることがしばしばあるようだ」として、桓武天皇と白河天皇の2人を挙げる。白河天皇は、薄いながらも藤原能信を通じて摂関家との繋がりがあったため、藤原頼通へのトラウマを持ちつづけた禎子内親王や後三条天皇にとっては邪魔な存在であり、白河体制の船出はじつは割合不安定なものだった。白河天皇は8歳の堀河天皇に譲位する際、すでに母親の藤原賢子が没していたことから、自らの長女の?子 (やすこ) 内親王を未婚のまま堀河天皇の母后の代理である准母 (じゅんぼ) として指名し、天皇の後見人となった。1093年に?子は郁芳門院 (いくほうもんいん) と呼ばれる女院となり、自由に権力をふるえるようになったのもつかの間、1096年に急逝してしまう。白河上皇は郁芳門院のために六条殿を建造するが、この建設事業に携われ白河に認められたのが平正盛――平清盛の祖父である。
白河上皇は、中宮こそ摂関家出身(藤原師実養女で村上源氏の源顕房の実娘)の賢子を置いたが、彼女の没後は祇園女御のような出自のよく分からない女性たちを、気に入りさえすれば身分を問わず身近に置くようになった。白河上皇と祇園女御のに養われた藤原璋子 (たまこ) は、1124年に崇徳天皇の母となり、女院・待賢門院を名乗る。待賢門院の女房や侍は、荘園経営の中間窓口である預所などの権限(@職@しきruby)を代々受けつぎ、独自の権力を持つようになる。さらに和歌の家元ともいうべき新たな特権を武器にした六条藤家 (ろくじょうとうけ) 御子左流 (みこひだりりゅう) (藤原道長の子孫)がのし上がってくる。
白河天皇は、後三条院が亡くなってからの57年間、政治の世界に君臨し「治天の君」と呼ばれた。その権力の根源は、家長として自分の好きな人物に権力を与え、国家の最高決定機関である太政官を無力化することができるという点に尽きる。

平氏は源氏に比べてマイナーで、平氏は桓武、仁明、文徳、光孝の4系統しかなく、12世初頭の時点で残っているのは桓武の子孫の高棟王と高望王の2系統だけだった。高望王系兵士は地方で武士化し、そのなかに白河院の近臣となった平正盛がおり、その孫が清盛である。清盛は、高望王系の文人平氏の時子との結婚することで、武人平氏と文人平氏を合一し、さらには後白河院や二条院との強いパイプを構築した。
1156年の保元の乱、1159年の平治の乱を経て、平清盛の権力基盤が固まると、1171年に娘の徳子を高倉天皇に入内させる。この頃、斎王がほとんど機能しなくなり、その結果として女院となった女性たちも悲喜こもごもの生涯を送ることになる。
源平合戦は、1180年の以仁王の挙兵で幕を開けるが、後白河院から親王宣下を受けないまま成人した皇子であり、榎村さんは、それほどの権力をもっていなかったのではないかと推測する。むしろ、以仁王を猶子としていた(養母の)八条院?子内親王(鳥羽院と美福門院の皇女)が所有する膨大な数の荘園(八条院領)の経済力と、それを警護する武士団の戦闘力を背景に挙兵したのではないかという。だが、榎村さんが「超お嬢様」と呼ぶ八条院は、政治的な動きをまったく見せず、誰の味方にもならず、1211年に75歳で死去する。八条院領は順徳天皇に継承されるが、1221年の承久の乱で佐渡に流されたため、一時期鎌倉幕府に没収される。のちに大覚寺統と呼ばれる天皇の系統、つまり亀山上皇から後醍醐天皇を経て南朝に至る天皇家の家産として継承されていく。

本書は、藤原道長の絶頂期を平安時代の折り返し点とみなし、そこから鎌倉幕府へ至る約200年のあいだ、上東門院彰子、陽明門院禎子内親王、八条院?子内親王という、歴史の表舞台に出てこない女性たちにスポットを当て、天皇家や摂関家との関係を分かりやすく系図で示しながら歴史の流れを解説している。〈女院〉を通してみることで、「なんだかよく分からない平安時代」に歴史的な一貫性をみることができた。
ちょうど本書を読んでいるとき、藤原道長と紫式部が活躍するNHK大河ドラマ『光る君へ』が最終回を迎えた。この2人が武力によらない平和な社会を願ったにもかかわらず、荘園の発達が進み、それを守るための武力集団が誕生し、武士の時代が到来する。一方、紫式部が仕えていた一条天皇の中宮・藤原彰子は太皇太后となり、ドラマではどんどん存在感が大きくなっていくのだが、その様子は本書でも取り上げられており、その後、〈女院〉が歴史を裏で支えていることがみてとれる。

平安時代最後の女院・八条院は、全国に200箇所以上ある荘園・八条院領の元締めであり、多くの武士を抱えていた。以仁王は、その経済力と武力を背景に挙兵するが、八条院自信は誰の味方にもならず、鎌倉時代まで生き延びる。八条院領は、のちに大覚寺統と呼ばれる天皇の系統へ受け継がれ、南北朝の争乱を引き起こす。
また、『源氏物語』『枕草子』から『百人一首』まで、和歌がもつ力と、それを詠んだ女性たちの存在を再認識した。
わが国には女系天皇が存在しなかったため、こうした女性たちが発揮した権力・権能は一代限りのものであったが、皇統を裏で支える太い糸のような流れを感じた。

付録として、「男もすなる」歴史書を「女もしてみむとて」書かれた大長編歴史書『栄花物語』の一覧表があり、参考になった。正編の著者は、NHK大河ドラマ『光る君へ』の中で、藤原道長の正妻・源倫子に、宇多天皇から書き始める必要があるとドヤ顔で言い放った赤染衛門。榎村さんの前著『謎の平安前期―桓武天皇から「源氏物語」誕生までの200年』に記されている通り、道長の時代には国(男)が編纂した歴史書が無くなっていることと対照的だ。

これは想像の域になるが、歴史の表舞台に見えている男系皇統を裏で支えているのが、こうした女性たちの存在であり、両者のバランスの上に、わが国は征服も支配もされずに続いてきたように感じる。道長と紫式部の願いは、千年の時を超えて今日まで受け継がれていると言えよう。






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最終更新日  2024.12.30 12:25:50
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