 | 午前5時46分52秒の光景と、午前5時47分2秒の光景は、まるで「別世界」だった。 |
著者・編者 | 小松左京=著 |
---|
出版情報 | 毎日新聞出版 |
---|
出版年月 | 1996年6月発行 |
---|
本書は、『日本沈没』でお馴染みのSF作家・小松左京さんが、自らも被災した1995年1月17日の阪神・淡路大震災について、「近隣周辺を含めて、この災厄に対する『記憶の痛みと疼き』の生々しいうちに、『総合的な記録』の試みをスタートさせなければならない」と考え、現地に足を運び、被災者との対談を通じ、阪神・淡路大震災を「異様な現象」と呼び、すべての執筆依頼をキャンセルし、凄まじい筆致で原稿を書き上げ、1995年4月1日から1996年3月30日まで毎日新聞で連載した内容をまとめたものである。なにが小松さんを突き動かしたのか――。
小松さんは冒頭で、生活者の正確な記録や率直な感想が、こういう巨大な事象を把握し、その全貌を私たちの社会の共有財産にするための貴重な一次資料だという。だから自ら筆をとったという。また、小松さんは「地震予知」は無駄な研究ではなく、「保留」よりもう少し積極的な立場で調べていきたいという。
まず、1995年1月17日午前5時46分52秒へ向けて、目覚めつつある神戸の街の風景が目に浮かぶような見事な情景描写ではじまる。そして、NHKが開発したばかりの「SBRスキップ・バック・レコーディング」によって、本震が始まる直前からの10秒間をカラー映像に記録していた。本震はわずか10秒間――「午前5時46分52秒の光景と、午前5時47分2秒の光景は、まるで『別世界』」になってしまった。死者の9割近くが、地震が始まってから、わずか5秒の間に、ほとんどが倒壊家屋の下になって亡くなったのである。
神戸新聞論説委員長の三木康弘さんとの対談では、「今度の地震で、犠牲者にお年寄りが多いのは、1階に寝ておられたからで」と語る三木さん自身の自宅の1階が潰れ、2階で寝ていた美希さん夫婦は無事で、1階で寝ていた87歳の父親が即死したという。瓦礫の山を捜索する消防団は、声が聞こえるところを優先し、父親の遺体が見つかったのは自身の3日後だという。
警報が悲鳴を上げている消防本部では、各署・出張所に非常呼集をかけるとともに、防災指令を「災害多発時の運用マニュアル」に切り替えた。これは「水防活動」用のマニュアルだが、地震に対するマニュアルが装備されていないため、応急的にこれを適用し、その代わり対象を「火災対応重点」とする。こうした臨機応変な対応にもかかわらず、消防が全体の状況を把握できたのは、午前9時11分、ポートアイランドから、消防局の偵察ヘリが飛び上がってからだった。
全壊半壊を免れた何百万戸の家庭やオフィスでは、書棚、本箱、OA機器の散乱に見舞われた。
電力の復旧は速くその日のうちに停電戸数は半分に減り、3日目には90%が復旧、1週間後には100%応急送電が完了した。一方、ガスの復旧は手間取った。ガスの臭いがするという通報があり、その都度、元栓を閉め、漏洩箇所を特定しなければならなかったからだ。100%復旧したのは4月10日頃だった。水道はガスより立ち上がりは速かったが、1週間ぐらいから進捗が遅れだし、ほぼ100%回復するのは3月25日頃になった。これは、電気やガスと違って供給源で一元的に状況が把握しづらく、しかも上水道の大元の管轄は厚生省だが、運用を自治体や私企業に委ねていたり、工業用水は通産省、下水は建設省が管轄である。
17日午後から、水洗トイレの水が不足して問題になった。小松さんは、中水道システムや、新幹線の「ひかり300」型のように水使用量の少ないトイレを提案する。
小松さんは、震度や死者に関する情報が、最初、現地と東京都でズレていたことを指摘する。東京では当初「東京は震度1」と報じ、続くレポートでも「彦根、京都震度5、震度4の中震が岐阜、四日市‥‥」といった感じで、話が関西圏に及ばない。5時53分に「神戸地方、震度6」の一報が入るが、6時9分にいったん取り消され、6時15分に「震度6」が確認された。
震度、震源、場所の3要素を含む「地震情報」を一番早く流したのはラジオで、5時58分のこと。ニュースソースはウェザーニュース社だったという。MBSラジオのディレクターは始末書覚悟の現場判断で、6時30分からの大阪発のオンエアを、CMを飛ばして地震報道を中心とする特別番組に切り替えた。
気象庁が震度7を発表するのは、3日目のことだった。
警察発表の死者数も、7時半に死者1人、8時36分に「2人」‥‥11時35分に「131人」と遅く、1週間後にようやく「5000人」を超える報道が流れた。
被災した地元兵庫1区選出の「さきがけ」所属の若い衆議院議員、高見裕一氏は、武村正義蔵相に携帯電話で地震の一報を入れる。高見氏は被災者救助に孤軍奮闘したが、中央の動きは遅かった。
1994年に新電電が参入したことで携帯電話が急速に普及したのは不幸中の幸いだった。パソコンネットワークも、ボランティア活動や救急活動にもある時期まで力を発揮した。だが、本震から時間が経つにつれ、通話料が急増し、電話がつながりにくくなった。
小松さんは、震度7になるまで時間を要したことに疑問を投げかける。大阪ガス葺合の加速度計(水平のみ)は833ガルを記録しており、震度7の最低値400ガルを軽く上回っていたにもかかわらず、震度は被害状況をみて決めるものだというのだ(当時)。
小松さんは強震動観測が貧弱であることに気づき、計測震度計の製造メーカーの1つ、明星電気に取材すると、説明資料の隅に小さな文字で「震度7は気象庁により判定を行うため、本装置では計測できません」と書いてあった。
小松さんは、京大地球物理学の尾池和夫教授に、地震学の現状についてインタビューする。西播磨天文台では、地震の当日午前5時すぎより異常な電波が地上から出ていることが記録されたが、地震予知連絡会では取り上げられず、また研究室の予算が少ないことに嘆く。
7月18日、政府は新防災基本計画を閣議決定する。伊勢湾台風の被害を受け、1961年に災害対策基本法が制定され、中央防災会議が設置された。防災基本計画は1971年に更新されてから、この時点までそのままだった。災害対応は各自治体に委ねられているため、革新自治体では自衛隊との関係がしっくりいかないところもあった。
陸上自衛隊の中部方面総監部は、民間テレビがヘリを飛ばすより20分早く、中部方面航空隊から偵察ヘリを発進させ、被害状況をヘリからの目視無線報告で、かなり的確につかみはじめていた。民間テレビが現場映像を流しはじめた直後の午前8時10分、自衛隊は兵庫県に災害派遣を打診するが、県側は状況がまだつかめないということで、派遣を断った。
中央の動きも遅かった。午前9時20分からは予定通り「月例経済報告閣僚会議」が始まった。一方、兵庫県知事は県庁から車で30分ほど離れたところに暮らしていて、停電に見舞われ情報隔絶されたために迎えの車が行くまで登庁が遅れた。兵庫県警本部は、110番回線がパンクし、一瞬にして大混乱に陥った。
午前10時、ようやく兵庫県庁から陸自中部方面総監部に出動要請が行われた。
阪神大震災を引き犯したのは活断層の活動だが、その研究は戦後に始まったばかりで、分からない部分が多い。
京都大学で西南日本の地震地質を研究する藤田和夫さんは、地震予知連は東海地方ばかりをやっていて関西の方は何もしてくれないと嘆く。そこで、自分たちで六甲の大月断層に斜坑をつくった時にひずみ計を入れた。新神戸駅は断層の真上にのっているが、駅は無事だった。藤田さんは、被害に遭うはずなのになぜ助かったのか、研究、調査したいという。
大阪市大理学部の弘原海さんは、地震の前兆現象を研究しており、阪神大震災でもみられた地下からプラスに帯電しているエアロゾルに注目している。小松さんも、自然科学は自然観察から始めないとどうしようもないという。
震災から6ヶ月間に、中部方面隊を中核とする全国の陸上自衛隊の災害出動人員数は延べ164万人にのぼった。これまで大災害のなかった中部方面隊はあまり出動要請経験がなく、圧倒的な震災対策用装備不足に悩まされた。船会社や海上自衛隊は、海を通じて助けに来ていると広報するも、行政、市民両サイドで、避難、支援のラインとして「海」というものに対する感覚がすっぽり抜け落ちているかのようだった。
被災地域は知的密度が高く、小松さんには、市民としての自主性、生活主権の意識が高まりつつあるように思われた。しかし、行政は「市民のサーバント」意識から抜け出せないでイル。小松さんはもどかしさを感じる。
被災者の「こころのケア」を最初に提起した精神病理学者の野田正彰さんは、「(被災して身近な人の)死を経験した人の心の傷という概念と、ちょっと地震で怖い思いをしたとか、その他さまざまな社会的負荷で惨めな思いをしたとか、寒い思いをしたとか、そういったこととは根本的に違う」と指摘し、「それをきちっと分けないと駄目」という。
小松さんは、夏に体調をくずしてしまったといい、夜ほとんど寝られず、酒の力で無理に眠っても、1時間から2時間たらずで目がさめてしまうという。
被災地の神戸大学の10学部が共同して、学際的に今度の地震の原因や被害、問題点などを明らかにしようという「兵庫県南部地震に関する総合研究」を行っている。小松さんは代表者の片岡邦夫・工学部長にインタビューし、「われわれは被災した中にドップリといますから、神戸大学の研究者は逃げられない。兵庫県下の被害が全部復興するまでやる」という言葉を引き出す。
小松さんは土岐憲三・京大工学部教授(地震工学)とのインタビューで、「加速度は地面の揺れで、震度は被害」という説明を受ける。土岐さんは、広域防災体制をつくっておくべきでで、要請がないと動いてはいけない、内政干渉になるというのでは何もできないと語る。
阪神大震災では、耐震基準をパスしているはずの鉄筋コンクリートの建物の中層階が潰れるという事例が相次いだ。大阪市立大学工学部建築学科助手の那谷晴一郎さんは、建築では柱の鉛直軸方向の剛性が強く、直方向に力積効果がある衝撃が加わったという計算結果を小松さんに送る。小松さんは早速免震装置や制振装置のメーカーを取材し、「上下動に対しては、ほとんど効果はないでしょう」という言葉を引き出す。
終盤で、夏に体調をくずしてしまい、酒の力を借りないと眠れない日々が続くとこぼす小松さんは、64歳という年齢を理由にしているが、その直後に記されているハイマート・ロス(故郷喪失)になったのではないか。その直前に、精神病理学者の野田正彰さんとの退団を配置しているのは、自らの心が折れたことへの伏線だったのではないか。
年が明けて1996年、小松さんは、「神戸で復興博」という新聞の見出しに憤慨する。学校以来の旧友が何人か死んでいるのだが、葬儀にも行けなかったからだ。「神戸の基本文化」を踏まえた上での文化復興でなければ、「明日の神戸」の輝きはつくり出せないだろうという。
連載は1996年3月30日をもって終了する。
NHKの番組「30年後を生きるあなたへ ~小松左京と大震災~」を見て、本書を購入した。お恥ずかしながら、今日の今日まで、小松左京さんが阪神・淡路大震災を取材していたことを知らなかった。
小松さんは冒頭、1948年6月28日に発生した福井地震(M7.1)に触れる。この地震のマグニチュードは阪神・淡路大震災と同規模だが、戦後の混乱期に起きたことで人々の記憶から忘れ去られているが、このときに新たに「震度7」が設定され、阪神・淡路大震災で史上初めて「震度7」が適用された。奇しくも小松さんと同じ関西出身で8最年長の、新聞記者時代の司馬遼太郎さんが福井地震を取材している。
「知の巨人」と呼ばれる小松さんに相応しく、マスコミだけでなく、現地取材や対談を通じて入手した膨大かつ詳細な情報を開陳する。阪神・淡路大震災のような内陸地震と東日本大震災の海溝型地震の違い、神戸の地形、木造家屋の1階が潰れて高齢者の多くが亡くなった事実、加速度と震度の違い、激しい上下動で鉄筋建築の中層階が潰れたことなど、本書を読んで、あたらしい発見が幾つもあった。
これは発見というより、「再認識」といった方がいいのかもしれない。神戸には旅行や出張で何度も訪れているが、三宮から電車で30分で、山深い有馬温泉に到着するほど背後には急峻な山地が控えており、わずかな平地を縫うように鉄道や高速道が走っている。ガルで示される加速度と、0から7の震度階の違いは、2007年の新潟県中越沖地震で学んだ。
せっかく学んだことを有機的に結びつけ、生きた〈知識〉として活用できないのは、なんとも歯がゆい。
1995年はインターネット元年と呼ばれたが、それから30年後の現在、私は当時の小松さんに比べても引けを取らないほどの情報に接することができるし、AIの力を借り、それらを瞬時にサマライズすることもできる。
にもかかわらず、1995年という年を振り返ると、東京に暮らしている私は3月20日に発生した地下鉄サリン事件の記憶ばかりが残っており、阪神・淡路大震災の記憶が薄れている。そして、2011年3月11日に東日本大震災が発生し、前述の通り、内陸型地震と海溝型地震という全く違うメカニズムであるのに、単純比較するという愚行をおかしてしまう。
小松さんと自分を比較することはおこがましいことだが、結局のところ、事物に対する熱量の差なのだろうと思う。本書に限らず、小松さんの筆致は熱い。政府やマスコミといった強者を論理的かつ痛烈に批判し、被災した全ての国民に温かい手を差し伸べる――私には到底できないことだ。
だがしかし、本編終盤に記されているとおり、取材から半年ほどで体調を崩した小松さん。年が明けて、神戸に対する想いを滔々と語る文章には、哀しさがにじみ出ている。小松さんは「あとがき」で、「今から考えると、かなり鬱の状態になっていたようである」と吐露している――本書は小松左京さんの最後の長編である。連載終了から15年後の2011年に発生した東日本大震災に衝撃を受け、体調はさらに悪化。すべての取材を断ったという。最後に「世界の人がほめてましたね。これは、うれしかった。自然に生かされている日本人の優しさ、だな。日本は必ず立ち直りますよ。自信をもっていい」と語り、7月26日に80歳で他界した。
阪神・淡路大震災では、『日本沈没』の沈没以外のことが全て現実になったと、小松さんはいう。であるなら、最後に残った希望もまた現実であろう。災害大国・日本で暮らしている私たちは、どんなに困難に見舞われても、希望を失ってはならないと感じた。
