たくさんの人が覗いてくださることがうれしい
今朝は、起きたら10時でした。ああ、子供は二人とも行っちゃったな・・・相談室にも行けなかったな・・・・と、ボーっと起きました。12時にランチの約束をしていたので、のんびり仕度をして、お迎えを待ちました。その後、時間があるならと、彼女が信心している創価学会の会館へ行きました。私は別に、信者ではないのですが、仏教は好きなので、そんなに毛嫌いするほどでもないので。何気なくおしゃべりが始まり、自己紹介から、「先生は大変ね」というはなしから、いろいろと初めての人相手に愚痴りまくって。「吐き出すとこがなきゃだめよ。生ごみは捨てなきゃね」と、彼女は言いました。「でも、ごみは下手に捨てると悪臭がでるから、ちゃんとふたのついたゴミ箱に入れなきゃね。それが、私にはこの会の先輩なの。」「うちの母も分裂症で大変だったけど、泣いてる自分でいいんだ、できない自分でいいんだと言うことが分かった。母も、昨日よりこれができた、できる時間が長くなった、という目で見ていったら、だんだんよくなった。」いろんな話を聞きました。だめな自分でいい。何かできたら、ほめてあげる。2つできたらもっとほめてあげる。0点の自分に、10点、20点と足していってあげる。自分を愛せない人は他人も愛せない。今、自分が頼りにしている人が、同じことを言っています。カウンセラーにも言われたし、精神科の先生にも何かするようになったと報告すると、「それはいいことですね」と、ほめてもらえる。私は、自分が完璧ではなく、完璧になることもできないと思っていたので、適当な人間だと思ったいたでも、病気になって、みんなにがんばりすぎ、完璧にやらなくてもいいよと散々言われ、実は、なれないことが分かっていながら完璧を目指す人間だったことに気づきました。だから、自分のできないことしか気がつかない。どんどん自分を追い込んでいく。ブログを始めて、始めはアフェリエイトのためだったのが日記のが楽しくなってしまったのは、アクセス数が目に見えるから。自分なんか、死んでも誰も困らないとまで思ってしまう人間には、独り言でも1日に何十人もの人が覗いてくださるというのは、なんか、すごく存在を認められてる実感があるのです。私にとってアクセスというのは、ドアをノックしてくれること。コメントは、「調子はどう」と話しかけてくれることです。ノックするためには、部屋まで行かなくてはいけませんよね。死にたくなっちゃう人には、それが自分の存在を認めてくれることなのです。メールでもそう。何度も名前を見かけると、ああ、気にしてくれてるんだーという喜びが、何より薬になります。うつ病系の方のサイトはあえて覗いてない。元気をもらわないといけないときに、病気に近づいてはいけないと思います。経験者ならいいけど、お互いつらさを慰めあうつもりがどんどん沈むだけになっていく。カウンセリングで「今は自己チユーで」と言われたとおり、自分をほめたり認めたりする人にしか救われないのです。きついことを言われるのは元気になってからでいい。今は、自分を甘やかして、甘えさせてくれる人が必要。やっと、3ヶ月かけて、そう思えるようになってきました。自分の状態がわかるのに3ヶ月。やっぱり治るのには時間がかかると思うけど、校長も、職場の人も、かかわってきてくれる人も、親も、みんな時間をかけていいといってくれる。ぜんぜん他人の人が、自己チユーの呟きを気にかけてくれる。ありがたいことです。なんか、お空に上るような終わりになってしまった・・・・・