ぱなっちの窓

ちょっと、猫さんの思い出

もともとは、1匹の野良猫だったのよ。かすかな物音に、
「仲良しになった猫来てるんだけど、会う?」
と彼に紹介された。引き戸を開けると、そこにお行儀良く座っていた。
その猫が彼と一夜共にし、二夜共にし、とうとう私が遊びに行くと、焼きもちを焼くまでになった。
その猫が子供を産んだ。
同時に浮気発覚。隣の部屋の学生とも仲良くしていて、帰ってこなくなった。三匹産んだ猫の名前まですでに付けて、かわいがっていたのに。
怒った彼が、たまたまそこを歩いていた子猫の一匹を拉致した。母猫はたまには帰ってくるようになったけれど、餌をねだるだけで子育てをしようとしない姿勢に益々彼が怒って、きっぱり離別した。
残された子猫もあっという間に大人になって、子供を産んだ。またも三匹。
そのうちの雌猫二匹を、私の実家に引き取ってもらった。
こうして、我が家に家族が増えた。

その美幾とちぃは、それぞれ五匹ずつ子供を産んだ。
美幾さんは世話なし猫さんだったので、ある朝目覚めたら、出産を終えていた。子猫の引き取り先も難なくみつかり、四匹里子に出した。
ちぃの方は、小さい体にお腹いっぱい妊娠していたものだから、出産も大変で、母が産婆をして、とりあげた。そのうちの一匹は、数日後に死んでしまった。残った四匹が不憫で全員家で飼うことにした。
七匹の猫は元気に暮らし、楽しい我が家だった。

中でも私は真っ黒の猫ぽち男が一番かわいくて、ぽち男も私に一番懐いてくれていた。
「ぽち」なのは、生まれたばっかりのとき、ラブラドール・レトリバーの赤ちゃんのような顔をしていたから。
本人も自分を犬と思っているらしく、お隣の白い犬チロちゃんを母と思っているようだった。いつもまとわりついて、チロちゃんを困らせていた。泣き声もチロちゃんから教わったのか「ワーワン!」だった。猫らしいわがままなところが一つもなく、立派な忠猫ぶりを発揮してくれた。
そんなぽっちゃんが病に倒れた。そのころ別の猫モーモーがてんかんであることもわかり、家族はみんな、モーモーの看病に気をとられていた。なにしろ、発作が休みなく起きるので、目が離せなくなっていたのだ。
そして、何度目かの入院で、ぽっちゃんは帰らぬ猫となってしまった。病院で死なせてしまったことは、悔やんでも悔やみきれない。誰も看取ってあげれなかった。一人ぼっちで死なせてしまった。

「モーモーとぽち男、どちらかこっちに来て欲しいのだが。」
と神様に聞かれて、
「はい、ぼく行きます。」
と、ぽち男さんは答えたに違いない。それくらいの忠猫なのだ。
同時にモーモーのてんかんも持っていってくれた。本当に、数時間毎、数分毎に襲ってきていた発作は、その日以来、一度も起こっていない。
そして、私には置き土産として、年末ジャンボの当たりくじをおいて行った。このお金はとてももったいなくて我が物とできず、「ぽち男さん基金」として貯金して、猫の医療費に当てることとした。

ぽっちゃんが亡くなったときの脱力感といったらなかった。もう、こんな悲しい思いをしたくない。猫一匹が死んでこの悲しさだったら、肉親が死んだりしたら、私はどうなってしまうんだろう?
そして、自分の中で出た結論が、「できるだけ遠くにお嫁に行きたい。」だった。
いつも一緒にいるから情がわく。情が深くなるから離れられなくなる。無理やり引き裂かれる死は、私に平常心を失わせてしまう。それなら、最初から一緒にいなければいいんだ。
愛する家族と距離をおいておけば、そのときが来ても、精神的ダメージが少ないはず。
と、考えた。

でも、お嫁になんて、簡単にいけなかったのねぇ。

そしたら、こんなに遠く離れた国から仕事が舞い込んできた。渡りに船とはこのこと。お受けしますとも。

家族と離れるために選んだイギリス。6年がたった。
でも、やっぱり悲しかった。テディちゃんのときも、ちぃのときも。
情は距離では薄められない。


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