真実の記録☆私が乗り越えてきた道

~真実の記録☆心のバリアフリーを伝えるための教材化に向けてたどった道~




我が子は正常に生まれた。

首がなかなか据わらず肢体不自由児だとわかったのは生後半年のこと。

以前は関東の千葉に住んでいた。

0歳のまだ赤ちゃんの頃から母子でお迎えにくるバスに揺られて

毎日地域の成長がゆっくりでまだ歩けない子どもたちのための

市の施設、みどり学園さんに母子通園した。

毎日保育があり、訓練はたしか週に2~3回、PTとOTが入っていたと思う。

内容的にも充実していた。

ご縁があったことを心から感謝している。



しばらく、電車に揺られて全く首の座らず

過敏で泣きじゃくる6ヶ月の我が子を抱っこして

外来という名の訓練に通ったけれど

それは毎回 実に大仕事だった。

自宅からはかなり遠く駅からもかなり歩いた。


前抱っこでまだ赤ちゃんの小さな我が子の顔を見ながら

夏の炎天下をリュックを背負って帽子をかぶり

とぼとぼと歩くその道は 当時我が子の障害というものを

受け入れたくない気持ちでいっぱいで まだ慣れない初めての育児、

不安と緊張、自責の念、絶望感が交じり合って

とても遠い道に感じられた。、

きっと嘘だと思う。

何かの間違いだ、、そんな風に思いたかった。

首さえ座ったらきっと追いつく。

あの頃の私は何も知らず本当に無知だった。

首の座りが遅れるということはお座りも遅れてすべての成長が

遅れるということを全く解かっていなかった。

いや単純に現実を受け入れたくなくて

知りたくなかったのだと思う。





産後数ヶ月で私は精神的にまた授乳もあり

なんと20キロ近く痩せてしまった。

ベビーカーを押しながらこのまま倒れてしまうんじゃないかと何度も

思った。

今では羨ましいことだけど体重計に乗るたびに一キロずつおちていった。

産前プラス10キロだからちょっと太めさんになっていたのだけれど

見る見るうちに授乳で胸はふ~みんのような爆乳でウエストは引き締まり

よく書けばとてもナイスバディなお痩せさんになってしまったのだ。

(授乳ダイエットかもしれない~でも一挙に痩せすぎてつらかったかも

 ダイエットは健康的にがいちばん♪だからこれはお薦めできない~

 現在は元に戻っている(。_+)☆)



実家は遠くて初めての育児、しかも障害児の子育ては手探りだ。

主人は仕事で忙しく常に母子家庭状態。

私はいつも一人ぼっちだった。

障害宣告を受けたとき 実家の母が一番に泣いた。

私は泣くことすらできず ただそれを見ていた。

いや正確には 涙も出ないくらいつらい時を過ごし

それでいて 遠く離れている両親にこれっぽっちも心配させたくなくて

「私は大丈夫だから」と無理に笑顔を作り気丈に振舞った。

両親はただおどおどと 心配をするばかりだった。

離れていて何もしてあげれなくてと電話口で泣く母。

そんな姿を私は見たくなかったのだ。

親不孝だとすら思った。


(今では笑い話だけれど

 うちの両親本当に大丈夫と思っていたらしい、、(;_;)



本当は赤ちゃん誕生で喜びで過ごした部屋を見るだけで

心は痛くつらくえぐれるような時間を過ごしていたのに、、。

当時の私はかなり無理をしていたと思う。

その頃のももかは泣き虫で過敏状態が続き

掃除機や電話の音、ファックス音、家の呼び出しのインターフォンの音に

大きく反応して泣いた。

新聞の勧誘等の突然のピンポ~ンは本当につらいものだった。

「赤ちゃんが眠っています」と玄関のインターフォンの前に張った。

それでも平気で押してくる無神経さは本当に信じられなかった。

相手はそんな生活がわかるわけもない。


トイレに行ったりお風呂に入るたびにも大泣きした。

何をしても泣く。

泣くのは抱き癖がついてるからだと勝手なことを言う人もいた。

泣けるだけ泣かしてみたらいいとアドバイスしてくれる人もいた。

でもそれは娘には通用するものではなかった。

また心にも痛いもので私にはできなかった。

私はいつでもどこでも優しく抱きしめて育てることをチョイスした。

まともな精神状態だったら気が狂ってしまう状態だと思う。

私は自分のこころを見ないようにした。

心の成長にとって大切な時期である3才になるまでは

どんなことがあろうと親という権限で

感情的に叱ることは絶対にしないでおこうと

心に強く決めたのだ。



慣れない訓練、過敏で先生も触れることもできず泣いてばかり、、

正直行く意味などがあるのかと思うほどで

帰ってきたらもう母の私は身体的にも肉体的にも毎回ぐったりだった。

いつも心の中は張り詰めていた。

ももかは過敏だったので一日の授乳とオムツ変え回数も

2倍~3倍はかかった。日記には一日にオムツ買え16回という記録が

今では勲章のように残っている 笑(それくらい過敏だった)

一日の授乳回数20回と記録が残っている。

これは新生児期だけれど。

欲しがったときに与えたのだ。

泣く回数も一日20回以上。

いつまでたっても新生児状態の育児は続いていて

緊張感を解くと一緒にすべてが崩れてしまいそうだった。

私は私の心を閉じた。

それでも見ないようにしていても

十分に心は色んなものに勝手に反応した。

自分のことで悩めることは本当にしあわせだな、、と思った。

そんな時間もなくて

ただただ一日でいいから

ぐっすりねむってみたい、、

そう思っていた日々だった。



当時母の私は色んなことに過敏にだった。

成長の遅れは著しく 

それまで撮っていた写真もビデオも一切撮ることも

できなくなっていった。

育児のマニュアル本のようなそれまで楽しみに買っていた

た○○クラブなどの育児雑誌なども 突然に辛いものになり

以後買うのをやめた。



「この子は歩けるようになるのですか?」という問いに

医師はしばらく無言だった。

出産のお祝いに頂いた靴は一番つらいプレゼントとなった。

ずっときれいなままで飾ってある3足の靴。

触れたくないからしまえばいいのに でもお祝いでかけつけてくれた

友人たちの顔が浮かぶ。 いつか、、と思い

片付けられずずっとそれは飾りっぱなしになっていて

でも見るたびに何かが心に刺さった。



あんなに大切にしていた楽しみだった

母子手帳の記入も一切できなくなった。

楽しみにしていた検診も一切行かなくなった。

正確には行く気力がなくなっていた。

はっきり遅れているのがわかっているのにそれを指摘されるのは

もう十分だと思っていた。

書いてあってもいちいち細かく医師たちは聞いてくる。

読むより話した方が早かった。

何度も何度も繰り返して医師たちに伝えるうちに

私はすべてのことを暗記して簡潔にすらすらと経過を答えている

私に驚いた。


毎朝通っていた公園も 

それまで仲良くしていた生まれる前から仲良しだった

赤ちゃんグループのお友達やママたちとは会う勇気もなくなり 

時間帯をずらして朝早く出かけた。


それは避けていたというよりも

みんなには会いたかったけれど

いっぱい色んな話もしたかったけれど

他の子どもの成長を見ることが目にも心にも痛くて

我が子と比べたくなくても比べてしまう。

あの頃の私はただ会う気力もなかったのだと思う。



みんなにどう説明をすればよいのかも、

どう自分自身が受け入れたらよいのかも

わからなかったのだと思う。

人はご挨拶のように「まあ赤ちゃん、、今何ヶ月?○○ヶ月位かしら」という。

一才半の時に生後半年と間違われたり

今となっては全然たいしたことではないけれど

そんなことにも過敏に反応する時期が私にもあった。

それ以来私は勝手に推測して年齢を言ったりすることはなくなった。

幼く見えても小学生だったりするお友達もいる。

なんて酷いことを私は過去無意識にしてきたのだろうと思った。



昔 それはもう遠い娘が生まれる前のことだけれど

私は大空で仕事をしていた。

ある日 高校生の修学旅行生の団体の担当になった。

そこには一般のお客様ももちろんいらした。

高校生の男の子の横に小さな幼稚園児位の男の子がちょこんと座っていた。

高校生の男の子に「お客様、お飲み物何に致しますか?」と丁寧に

聞いて その後私はその小さな男の子に

「僕は何がいいかな?(o^-^o)オレンジジュースと○○ジュース、、、」と


説明を始めた時 隣の高校生の子が私に言った。



「お姉さん、僕の大切な同級生なんです」


私は驚いて 即「本当に失礼しました。ごめんなさい」と即謝った。



小さな彼は「お姉さん大丈夫です。いつもみんな間違えるから。

全く気にしないでね」と優しく笑顔で言ってくれたけれど

せっかくの修学旅行で、、と私の心は申し訳なさでいっぱいだった。

私は娘が「何ヶ月?」と聞かれるたびに

あの時のあの二人のことを何度も思い出した。





外来で訓練をするよりも 

毎日通園をする方が訓練の回数が多いとのことで

私は即母子通園を決めた。

またこの訓練施設は自宅からは離れて駅からも遠くとても毎日電車で

赤ちゃんを抱えては通うのは厳しかった。



通園になればバスのお迎えがあることと、バランスのよいお給食もある。

保育の時間も充実していた。

泣きじゃくる我が子だからこそ

多くの人たちに慣れていかなければいけない。

幼い時期からの集団生活が必要だと判断した。

あの時の私と娘には母子通園が本当によかったと思う。

娘のためもあるけれど 私の心のケアーのために

先輩のママたちの話を聞くことや新しい友達を作ることは

とても大切なことだった。

障害を受け入れるための大切な第一歩は

まずは地域の母子通園できる施設に行くことと私は思っている。

悩んで途方に暮れているママたち全員に勧めたいと思っている。

それは必ず新しい出会いがそこにあるからだ。





我が家は学園からいちばん遠くて

バスはみんなのおうちを回るので

最初に乗って最後に降りるパターンだった。

一時間は乗っていただろうか。

でもそのバスタイムも

他のママたちや学園の保母さんたちとお話していたら

あっという間だった気がする。

気が紛れた。

その頃の一日はとても長かったから、、、、



バスの中で見えないようにそおっと授乳をした。(女性しかいません念のため)

おっぱいはももにとって魔法のおっぱいだった。

ももかの魔法のこころの安定剤だった。

だからあえて私は他と比べず

ももが自然におっぱいを離れる時期を待った。

2才3ヶ月まで、、、。

おっぱいの香りとママの胸に抱かれているその時間は

ももにとっていちばん居心地のよい安心できる空間だから

障害があるならばあるからこそ愛情たっぷりのその時間は

もっともっと彼女には必要と私は思っていた。



小さな声で歌を歌いながら 

そしていつも数冊の絵本を

持参してパスの中で読み聞かせをした。

そんな毎日がももにとったら楽しい時間のようだった。

積み重ねで

知らないうちに

3才までの読み聞かせは延べ3000冊を軽く超えた。

そんなに読むつもりもなく

ただ積もり積もってそうなっただけのことだ。

一日10冊。

小さな子の絵本は短くてあっという間だ。

お気に入りばかりを読んでいたかもしれない。

赤ちゃんが生まれたらお歌を歌って絵本をたくさん読んであげることは

実に高校生時代からの夢だった。

そんなささやかな夢を娘はかなえてくれた。

何冊読んだかは記録をとってないからその後はわからない。



いつの日からか ももはバスに揺られていくみどり学園への

毎日が楽しみになっていった様子だった。

バスを待つマンションの一階。

バスを見つけるとある時からももは笑顔になった。

「ももちゃんおはよう!」

嬉しそうな笑顔。

ももにとって嬉しいことだと解かり

私はそんな笑顔を見ることがただ嬉しかった。




初めて通園が決まり みどり学園さんへ初めて行った日。

玄関へ入るや否や「ももちゃんが来ましたよ(o^-^o)」

「ももちゃんいらっしゃい♪」

「待っていたよ ももちゃん!」

「わあ、、赤ちゃんだ、、かわいい赤ちゃん」


どこへ行っても職員の方に笑顔で「ももちゃん」「ももちゃん」と

声をかけて頂いて抱きしめてもらった。

色が白いねとは誉められても

泣いてばかりの娘はかわいいとはあまり言ってはもらえなかった。


あの日のあの笑顔と温かさとぬくもりを

私はきっと一生涯忘れないと思う。

私は心に感じるなにか、、

そう温かいさりげない自然な

気を使ったものではない(実際にはそうだったかもしれないが

それを感じさせない)

人のぬくもりが欲しかったのだと思う。



病院で我が子を否定ばかりされて

障害が解かるや否や

先生方は無表情になり 

まるで可哀想なものを

見るような目の保健婦や医療関係者。

「うちの家系にこんな子はいない」と言った今は亡き義理の母。

親戚、私の心はずたずただったから。



「僕の大切な同級生なんです」(※ その1に書いてあります)

あの時のあの声が何度も私の頭の中でこだました。



いつかあなたにもあんな素敵な友達ができるといいね。

首も全く座ることなく斜視も強くなる一方の娘。

(斜視は3才で改善)

私はあの記憶を思い出すたびに我が子を優しく抱きしめた。

そして娘の目を見て

「ももちゃんにも必ず素敵なお友達ができるよ」と微笑んだ。



誰がなんて言おうとママが守ってあげるから大丈夫、、

そう私は心の中でいつも抱きしめるたびに思った。



「生まれてきてくれてありがとう。

あなたはママの宝物、大好きな子だよ(o^-^o)」



そう私は毎日 娘が生まれた日から

眠る前に必ず話しかけて

抱きしめている

娘は口パクで私の言っていることが解かることを

最近知って驚いた(現在9才)


小さな我が家の習慣だ。

いつまで続くかな、、

(o^-^o)


娘が生まれて私は本当に無条件に

人を愛することを初めて知った気がする。


無気力にただ不安を抱えて生きていたあの頃

生きる意味が解からず 

自分を否定してばかりいたあの頃

自分で自分を自らが追い詰めていた。

自分の存在が無価値にも思え

死というものも真剣に考えたあの頃

私が心の中で求めていたのは

カタチあるものではなくて

ただ

目には見えない

人と人とのつながり

温かいぬくもりだった気がする。




精神的にどん底に落ちて

私はある時

私の中の価値観でとらわれ

へんなプライドでがちがちになり

自分が人にどう見られているかばかりを気にして

生きていることに気がついた。

第三者の目、、、。

そんなくだらないものに

がんじがらめになっていたなんて。

愚かだったと気づいた。

真実は1つ。

私はこの子を愛おしく思い愛しているということだった。

障害という言葉に怯えショックを受けたけれど

それは人間が作ったただの分けるための名詞だと気づいた。



レッテルと貼られることが嫌だったのは私のこころだった。

娘は何も変わらず 毎日の生活を楽しんでいる気さえした。

それは私が意識の中で勝手にやっていたことだ。

障害者というのは障害がある人のことを刺すのではなく

普通の生活を送るには

「障害」がありすぎる人たちの

ことを指すのだと自分の中で変に納得した。



「差しさわりがあり害のあるもの」と書く

字の通りの、障害者なんて一人もいない。



そのままでその人は十分に輝いている。

作り出しているのは環境面、否定的に考えたり

可哀想と考えてしまう心理的な面。

人間の価値観だ。


私はいつの日から汚い愚かな価値観を持つようになったのだろう。

子どもの頃はそんなことはなかったのに、、

すべて捨てて0から出発することを決心した。

なんて私は汚い人間だったのだろうと気づいたから。


真っ白な気持ちになってみた。

私は私らしく、この子はこの子らしく。

それでいい。

そのままにそれでいい。

時間がかかろうと何と比べる必要もない。


一度落ちたならば

後は登るだけ

上がるだけだと思ったら気持ちが楽になったのだ。

(o^-^o)


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