「なぜバリアフリーなコンサートや
心育ての工作キット開発などを創り始めたのですか」
それは取材を頂く際、いつも聞かれること。
「想いがあふれたから」
「ないので創りたいと思いました」
でも こんな一言では終わらないくらい
本当は色んな想いがある。
幼い頃からの色んな体験ーーーー
NHKの方が取材にきてくださいました。
このような手作りの活動に ありがたいお話だと思います。
周りの皆さんに支えて頂き 今があること、
心から感謝しています。
みなさん本当にありがとうございます。
その取材の中で遠い記憶が頭によぎったこと
幼い頃の記憶-------
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小さな点。
点と点はいずれ結びつき線となる。
まっすぐな線に。
どんな苦しみも悲しみも
未来のためのよかったと思う日が来る。
私はきっとこの両親を選んで生まれたのだと思う。
両親の子どもとして生まれて 今よかったと思う。
お父さん、お母さん ありがとう、、
今は最近 「いつも笑顔で笑ってるね、、」
「素敵な いい友達が本当に多いね」と言って頂くことが多い。
う~ん ありがたいな、、って思う。
友達はかけがいのない、大切なもの。
本当に素敵な友達に恵まれていると思う。
みんなありがとう、、
私はちょっとへんてこな私が好き。
周りのみんなもちょっと変わってる無謀モノだったり
ありえないことをしでかす人だったり色々、、
共通点はみんな愛情いっぱいってところ♪
人生いろんなことがある。
色んなときが私は与えられたベストだと思っている。
転んだら転んだところで また誰に出逢えるかも
楽しみにしていたり
いつもわくわくしてる私だったりする。
未来は創るもの。
未来はきっとデザインできる、そう今は思っている。
でも 子供のころの私はどうだったかというと
信じられないくらい根暗の自信のない子。
物静かでとてもおとなしい子だった。
植物のようにただそこにいるような
「本当に手のかからない、いい子ね」
「いるかいないかわからない子」
そう大人たちに言われた。
言われると
そうしないといけないと思いこみ
さらにそうなっていった 笑
私は自分の心を全く表現できない子だった。
通信簿には内向的と書かれた。
書かれるとさらに自分はそうなんだと思い込んだ。
お友達がなかなか作れない子だった。
お友達の輪に入っていけない子だったので
どうして私ってこんなんなんだろう
こんな私でごめんなさい、、
おとうさん、おかあさんごめんなさい、、
自分が嫌い。。。。
いつもそう思っていた。
でも近所の明るくて楽しい人気者のちいちゃんは
そんな私のことを好きでいてくれて
いつも一緒に帰り
一緒に遊び
学校が終わってからも遊び
交換日記をしたり
二人でいたずらをしたり色々、、大の仲良しだった。
書きながら 幼い頃って孤独だったような気がしてたけれど
いつもちいちゃんがいてくれたことに今気がついた。
私は色んなものを見て感じて
ぽろぽろと涙があふれる子だった。
感受性が人一倍強い子どもだった。
生まれた家には知的障害の叔母 はなちゃん(仮名)がいた。
幼い頃の病気の後遺症による障害。
父の妹だ。
両親を若くしてなくし
妹のはなちゃんを大切にひとりで面倒を見ている父と
お見合いで出逢い
私の母は父を選んだ。
そんな父の人なりに惹かれたからだ。
また自分も一緒にはなちゃんになにかできたらと思ったからと
幼い頃聞いたことがある。
そしてお見合い恋愛の末
待望の私が生まれた 笑
うちの両親は今でもラブラブで生まれ変わっても
一緒になりたいそうです。
なんと私は一度も親の喧嘩を見たことがないです。
0歳から私はその叔母 はなちゃんとともに
まるできょうだいのように育った。
愛情いっぱいに。
続く
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