2008/09/21(日)16:40
死について思うこと
『死』とは必ず誰にも平等にやってくる
でも、やってくる形にはちがいがある
突然『生』を奪われるかたちで訪れる『死』であったり
自然に訪れる『死』であったり
自分から招いた『死』であったり
生きていることを感じるために『死』を選んだり
娘1号の回りには リスカ(リストカット、自傷行為)を繰り返す友達がいる
娘2号は『死にたいと』教室で友達に訴えた
主人はうつのとき『死にたいとおもった』と私に告白した
そして、わたしも、『死』がそばにあると感じた一人である
娘1号のリスカをする友達は 『血』を見ると安心する。
生きていることを実感すると言う。
決して『死にたいわけではなく生きたいんだ』と…。
普段の生活の中で、生きていると実感できる瞬間はそうそうあるものではないと思う
気付かないうちに呼吸し、心臓は鼓動をつづけ、見えない血液を体中におくる。
ただ、時間のながれに身を任せ、人の中を漂い、さまよう魂には
生きていると実感できることが少ないんだとおもう。
生きていると感じる事ができないと悩むこと自体が生きている証なのに
その証明に、生命の象徴である『血』を見ることで安心するのか…
苦しくて苦しくて どうにもならないとき
『死』は優しく甘く暗い渕へと人を誘う
意識をせず、衝動的に…
それは、自分自身に向けられる『死』であったり、
自分以外へ向けられる『死』であったり
どちらにしても、それは殺人以外の何物でもないと思う。
苦しみの原因は人それぞれであるが、殺人である『死』は負の連鎖を生む
甘美に見える『死』が実は、恐ろしいほど深い悲しみや憎しみを生み
またおなじように『死』を呼ぶことになる
世の中には、生きていたくても生きられなかった『命』がある。
安易に、そして自分ではどうにもできなかったとしても
衝動的に『死』に見入られた『命』は一体どこに行くのだろう。
生きるために、もがき苦しみ、見苦しく見えるかもしれないが
生き抜いた『命』は『死』から切りはなされて
次の生きる力へとつながっていくように思う
耐えられないほどの絶望は或る日突然、
甘美な『死』とともにやってくるかもしれない。
けれど、その誘惑に負けないで欲しい。
甘美にみえる『死』は絶望の連鎖を生むのだから。
もし『死』がとなりにやって来たのなら、
環境を変える、相談する、病院に行く…
生きるために生かすためにあがいて欲しい。
『死ぬ』ことで何も解決はしないのだから。