いつかのために
酷暑で溶けてます。束の間、和らいだかと思った暑さは、週明けには戻ってきてしまって…。日が暮れてから時折、風で感じる秋の気配が僅かな癒しです。そんなこんなで、今年も終戦の日が終わって、時間が経っていきます。何度も、思ったことを書こうとしては消している状況。透子は、つくづく文章を書くのが苦手です(苦笑)おまけに、書くことも、そして、それを外へ出すことも、年々怖くなっていくのです。でもね。いつか、自分の子供(希望的観測!)に伝えるために、出しておくのも必要かなと思うのです。だって、閉まっておくと記憶の奥底に沈んでいってしまうから。ということで、これは消化しきれていないということが前提です。怖いなぁと躊躇いつつ、書いているものです。私で記憶が止まらないように。私が今、ここに在るということは、あの戦争を越えて、血が続いているということ。その血を繋いだ祖父母にも両親にも、あの戦いによってついた傷がある。透子の周囲で生きている人の口は重く、深くを語らず、彼岸へ渡る間際や、渡った後に残されたもので知り得る。その知り得たことのアウトプット。そもそも、既に半ば自分から離れて不思議だなぁと思っているくらい、透子は小学校中学年~高学年の頃、或る少女たちを追っていました。それは、1945年の「広島第一県女 一年六組」の女の子たち。彼女たちの多くは、八月の広島で命を落としています。僅かに生き残った方は当日、お休みをしていた方だそうです。当時、夏のぽっかり空いた時間、自分から見て少し年上の少女たちの戦時中に書かれた日記や、彼女たちの最期に心を寄せては涙していました。なんでしょう、だから戦争をしてはいけない、とか、自分の置かれた平和な環境(いや、実生活はあんまり平和じゃなかったけど)を幸せに思うとか、考えが発展するわけではなく、ただ、思いを寄せてシンクロするような、子供だからこその感じ方でした。出会いのきっかけは、NHKのドキュメンタリーをもととした本。その企画の起点にあった日記を書いた、森脇瑶子さん。彼女のお父様に、私の母は少女時代、ピアノのレッスンを受けていました。透子は、もちろん知らずに瑶子さんたちに寄り添っていたわけで、共に再放送されたドキュメンタリーを見て、「先生に亡くなったお嬢さんがいたなんて知らなかった」と、母がとても驚いていたことを覚えています。戦後数年して生まれた母は、祖父の転勤に伴われ、復興し高まっていく時代に西の地方を転々としました。幼少時から中学生までは広島の都市部にいて、当時、ピアノとバレエを習っていたそうです。習っていた事実だけ聞くと女子の王道ですが、あの爆弾が落ちてから10年経つか経たない頃に、お稽古が成り立っていたということに、私は強さを感じるのです。人が屈さない姿がある、と言ったら簡単すぎるかなぁ。けれど、そこには前に進んでいる力があったと思う。ちょうど、それは佐々木禎子さんが病と闘っていた頃です。戦争によってつけられた傷で苦しむ人がいる一方で、生活に潤いが戻ってきている人もいる時代。母は、それを目の当たりにしてきた人です。私にそれを多く話そうとはしません。そこに触れると、普段はとってもお喋りな人が途端に言葉少なになります。だから、透子は零れた欠片を拾っていくのです。母を広島へと伴った祖父は、11年前に他界しました。自宅で倒れてから3日間の入院を経て、あっという間に旅立ってしまった祖父は、その間、意識が南の戦地にいた当時に戻っていたと聞いています。不意に立ち上がって敬礼したり、点滴を外して走り出そうとしたり、うわごとが点呼の号令だったり。実際に、その姿を見たのは付き添っていた母だけです。透子や他の家族は、状態が安定していると伝えられていたので見舞いを先の休みに予定していました。その為、急変を知らされ、駆けつけようとする間に祖父は他界してしまったのです。私が知る祖父は、どっしりとした体型で口数少なく、趣味は写経で、甘党で孫にもとても甘い(透子と妹の二人しかいないから余計に)人でした。戦前・戦後と建設に携わってきた祖父は、現役時代をあまり口に出さず、戦時中に関しては完全に口を閉ざして逝きました。その祖父が、意思を手放した時に戻ってしまった時間。どれだけ深く刻まれていたのか、正直、想像を越えていて、けれど、透子は血を繋げてくれたことのありがたさを思って、祖父の最期を覚えていなければならないと思うのです。その祖父を日本で待っていた祖母は、仙台空襲を経験しています。やはり、その詳細を口にせず、時間を過ごしてきました。母方に関しては、近くにいることもあって、このように欠片を拾って、透子は知ってきました。けれど、父方は遠くて、謎だらけで、今年、父が他界したことによって欠片を拾いました。母と同じ年生まれの父は、樺太生まれです。生前から本人も一度は行きたいと願っていた位に家の中ではオープンな事実でした。けれど、様々な手続きのために戸籍謄本を取り寄せると、改めて愕然とするものです。出身の事実ではありません。戸籍が完備しないという事実に対してです。当時の書類が紛失しているため、引き上げ後からスタートしているのです。父が乳幼児の頃の栄養状態に問題があったために、体が弱かったことも明らかで、それも一つの傷です。人の存在を証明する書類の出生部分が抜け落とされてしまったことも、傷です。当たり前のことが当たり前じゃなかった時代に、父があったという事実に頭を殴られたような衝撃を覚えました。1979年生まれの透子が、こんな近くに痕を見るくらいに戦争の傷は深いということ。これは、伝えなければならないことです。けれど、同調して、心を沈ませるのではなく、してはならないことを知った上で、幸せになる努力をしていくことが役目。と、考えさせられる夏でした。来年、私はこれを読んで、何を思うのかな。まだ、どうなっているのか想像もつかないけれど、以上、私が忘れないためのアウトプットでした。 template-いなもと