2004/02/28(土)01:23
宗教
地下鉄サリン事件など数多くの事件の被告である麻原の判決が、今日言い渡された。当然の死刑判決ーしかし、そのことよりも、この一連の事件で感じたのは、宗教法人を隠れみのに、公的権力が立ち入り難いという点を利用した、この超凶悪団体の異常さ、怖さだった。
阪神大震災から2ヵ月後、少しずつ、関西地方は落ち着きを取り戻しているころだった。僕自身は、初めて教室長になり、意気揚揚と新規教室の準備をしているところだった。
朝のラッシュ時でのニュース速報、地下鉄で毒ガス?爆発?情報は錯綜した。それまでのオウム関連のニュースは、あまりよく理解しておらず、関心も薄かったが、地下鉄サリン事件は、衝撃的だった。
僕は、宗教が生理的に嫌いだ。なにか、信用できない。新興宗教のみならず、既存の4大宗教でさえ、怪しさ、危うさ、儚さ、虚しさを感じる。もちろん、信心深い人は、僕のまわりにもたくさんいるし、別にその方々がどうというわけではない。僕にとっての、信教の自由とは、一切の宗教を受け入れないことでもある。
しかし、ある宗教への勧誘をしてくるのは、絶対に耐えられない。友人であっても、そういうことをされると、その人間とは断絶せざるをえない。
僕が亡くなったとき、もし葬儀が行われるのなら、立食の宴会形式で「マージャンコーナー」「教え子コーナー」などなど人生を振り返るブースで、楽しく過ごしてもらえたらなと思う。どうしても、普通っぽくする場合は、お坊さんをしている友人に頼んで、彼に何かおもろいお経でも読んでもらうか。宗派みたいなもんは適当でよろしい。
もし、結婚式をすることがあるのなら、それも宗教色は演出以外の部分では、まったくいらない。まったくの無宗教の独自バージョンでもいいのなら、それが一番よろしい。
すぐ人を信用してしまう僕にとっては、こういう壁をあらかじめ作っておかないと、たくさんの宗教を掛け持つ可能性もあるのだ。