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プロ野球が史上初めてのストライキに突入した。この土日で終わるのか、来週も実施するのかわからないが、もう近鉄バファローズという球団は、消滅は確実なのだろうか・・。合併白紙にして、ライブドアや楽天に買収してもらったらいいのでは、といまだに思ってしまう。
この2日間は、プロ野球が見られないので、自分の野球の思い出を書いてみよう。 子供時代から、野球観戦といえば95%以上がパリーグ。身近な大阪球場、日生球場が、南海、近鉄の本拠地球場であったため、自転車やバスで、兄とよく観戦に行ったものだ。南海ホークスの子供会に一年、近鉄バファローズの子供会に二年在籍し、ファン感謝デーなどでは、若き日の野村克也選手、江本選手、梨田選手、小川選手などと楽しくゲームなどに興じたものだった。 我々の世代では、男子の子供のころの遊びといえば野球だった。特に小2で転校してからの小学校は、各クラスに野球チームがあった。男子20名中15名くらいは、そのメンバーに入って、土曜ごとに他のクラスと試合をして楽しんでいた。 僕は、3歳違いの兄と同時にグラブを買ってもらい、常にキャッチャー役だった。拾ってきた準硬式ボールが目にまともに当たって、長い間紫色に腫れていたこともある。そんな僕は、クラスのチームでも常にキャッチャーを買って出ていた。打順は6番か7番。低学年のうちは、みんなものすごく下手なので、クラス委員でもあった僕は、四球・盗塁・リードなどをなしにするルールを、全クラス共通ルールとして提唱し、結構まともなスコアの試合を演出していた。 学年に上がるにつれて、野菜嫌いの僕は、体の発育も遅く、人並みはずれて運動神経も鈍いことがハッキリしてきた。そんな中、唯一ましなのが野球だった。でも内野や外野はエラーのとき恥ずかしいのでイヤだった。あくまでもキャッチャー。兄の相手をしていたおかげで、同級生の球は遅く見えて取りやすかった。パワーもなく、スピードもない僕にとって、投手を励まし、皆に指示を出すキャッチャーというポジションが、居心地のいい場所だった。ノムさんの、ささやき戦法(?)も使用した。バッターに「お前、夏休みの宿題全部やったん?」などと話しかけ、集中力を削いだりした。プロ野球観戦のときも、野村選手や梨田選手の動きを一生懸命見ていたものだ。 そうこうして、5年生くらいになり、よく使っていた公園が球技禁止を強行して、なかなか集まりにくくなった。受験準備のため塾通いする主力選手も出てきて、土曜日の試合はなくなっていった。 その頃から、一昨日の日記に書いた「4時間旅行」という鉄道の旅で過ごすことが増えてきたわけだ。 こうして、僕の野球人生は終わった。中学以降はいつのまにかグラブも失い、まったくすることはなくなった。クラブでも卓球、水泳、ラグビー、軽音楽と渡り歩いたものの野球には触れることなく高校を卒業。 自宅浪人して、大学入学後、そこには新たなベースボール人生が待っていた。 (明日かあさってへ続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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