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カテゴリ:夫の母
戦後「父の死、そして倒産」
父は、もちまえの侠気と見栄っ張りの性格が禍わいして、商売の方も外見はとかく派手にやっているようであったが、中味は決して楽ではなかった。 戦死した夫の初めての遺族公務扶助料5万円を、父は店のために手をこまねいて待っている状態であった。 とはいえ、実の子を持てなかった父にとって、二人の男孫の成長は唯一の生甲斐であり、将来にかける期待も大きいものだった。 よく「俺は100歳まで生きるぞ」と豪語していた父であったのに、突如襲ってきた「舞踏病」という難病に襲われ、65歳という若年であっけなく他界してしまった。 昭和30年9月26日の朝だった。 父の死により判明したことは、倒産寸前の自転車店の経営状態と150万円の借金であった。 当時としては大きな金額であった。 人吉市内では父の豪快な性格で繁盛していた自転車商店であったが、 上得意であった真向いの郵便局が新築転居して行ったあとは、すっかり商売はがた落ちとなってしまった。 最盛期に6人もいた男の店員は二人に減ってしまった。 母のほうは、父と結婚後、家で長い間 お針の先生をやっていて、お店のことにはいっさい関心のない人であった。 私はその頃、父の稼業を好きでもなかったし、自分たちの自立を考え 福祉事務所の母子相談員という職に非常勤の形で働いていた。 そこに父の死である。父の残した厄介な問題を一身に背負う運命が一挙におしよせてきたのである。 一時はこの始末をどこから、どう手をつけていいのか判らず、2階に駆け上がって大声で泣き明かしたことも幾夜かあった。 結局は家屋敷を抵当に入れることで、借金の返済処理を取り、店舗整理に当たっては、全商品の返品、その他で一応その処理は終わることになったが、その後の生活にも大きな負担となった。 現実の厳しさを身をもって体験させられ私は、初めてここで大人となり、徐々に生きる術を覚え、成長することができた気がする。 今振り返ってみると、よくぞ越した山坂であったとしみじみと思い出だす。 ・道子のパソコン水彩画三昧」/b> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年11月30日 22時32分03秒
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