義母との27年・その10・別れ
母の引っ越し7回 お別れ ・ 母の7回目の引っ越しは 平成3年頃だったろうか・・とにかく母は78歳で亡くなったから、その5年前ごろ、私たちと完全同居になった。これで母上京後7回目・最後の引越しとなった。あんなに元気だった母が73歳のころ、肺がだんだん曇って白くなる原因不明の病気になったのである。余命5年だと医者は言う。初期のころは元気で家事もできたが、外出は移動酸素ボンベを引いて歩くようになったので、夫はそろそろ母の一人住まいも限界かなと判断したのである。母の今、住んでいた家を売り、そのお金にローンを足して新築し、母と同居することにした。全く我が家は何回家のローンを組んできただろう。あんな無駄をしなかったら、今頃はもう少しお金が貯まっていたのにと思わないでもない。この新築の家も、母が亡くなるとすぐ手放すことになる。同居した初めのころは母はまだ簡単な家事はできたので、いろいろ頼むことにした。私はそのころ福祉施設に勤めていて、遅番の時は9時半の帰宅となる。そこで遅番の時の夕食と高校生の子供たちの弁当は母が作ってくれた。母は情が深いから、その弁当の量と豪華さは今も孫たちの間で語り草である。しかし、残して帰るとおばあちゃんに悪いと思い、帰路にゴミ箱に弁当の中身を捨てて帰ったらしい。おばあちゃんは、「足りなかったーか」と思い、次の日また弁当の量を増やすというふうだった。息子たちの持つ年寄りに対する「優しさや気づかい」は祖母との付き合いのなかで培われたと私は思う。祖母と身近に暮らして、親子、嫁姑の人間関係の機微も学び、人生を学んで行った。私自身も義母のおかげで、成長させてもらったと思う。母との27年がなかったら私はもっと傲慢な人間になっていたのではないだろうか。母に振り回された日、腹の立った日、口争いをした日、もあったけれど、母の性格は眞正直で、子供の様で、憎めない人だった。そして私を愛し、いつも頼りにしてくれていた。母は初孫である長女の結婚式にもでることができた。その日母はちゃんと留袖を着て出席。本当にうれしそうで乾杯のお酒に酔ってソファに横になったりした。それから1年半ぐらいして亡くなった。母が寝たきりで過ごしたのは1年足らずである。そのころは介護制度がまだない時代だったので、仕事をしていた私は大変だった。私の遅番、早番のある仕事は昼間に家にいられる時間が多いので、かえって都合でもあった。遅番の時は夫が家に帰っていたし、末っ子の息子もフォローーしてくれた。長女は結婚し、長男は就職して家を出ていた。最後は近所の職場の寮母さんだった方が、手伝ってくださった。最後は病院に2か月ぐらいお世話になったが、安らかな最後であった。その頃の私の思いを文に書いたので よかったらどうぞかすかな後悔母の葬式は朝から雷と大雨 母らしいと夫と苦笑したが、式直前に嘘のように晴れた。流石である。家で葬式をしたのだが、参列者の多いことに驚いた。母が上京後に培った人間関係である。多くの人に愛されて惜しまれて母は旅経った。わたしには「ありがとう」と言ってくれた。夫の弟の演奏する尺八の音が 式場に流れ続けた。母は最後に「昭和医大への献体」をして自分の人生を締めくくった。私も母に何度も「ありがとう・よく頑張ったねー」を言って母の手を離した。母には中国からお土産に買ってきた、純白の絹のパジャマを着せ、私がきれいにお化粧した。小さくなってしまった母だったが本当にきれいだった。義母との27年は終わった。この27年、母は息子である夫よりも、嫁の私と過ごした時間のほうが何倍も多かった。夫と母の親子関係は割合クールで淡々としていた様に思う。母娘の関係とは違うんだなーと思ったものだ。しかし、母に逝かれた息子としての寂しさは一入のようだった。・・・・・・・・・道子のパソコン水彩画三昧