私働きます・栄養士
35歳から45歳まである大手ミルク会社の栄養士として働きました。この写真は関東地区母子栄養指導ロールプレイング大会で1位をもらった時のものです。私は働く母親の元で育ち、母から「自分の食い扶持は自分で稼ぐのが基本、労働は尊いものである」と教えられて育った気がしましす。だから結婚しても、子育てに重点は置くものの、子供が1才になり落ち着いたらまた働くことを繰り返してきました。3人の子はみな6年保育組みです。もちろん家計の補助が目的でもありましたが、専業主婦は私には合わないし、働くことで気分的にも家庭内で夫と平等の感覚になります。夫も私の仕事には協力的でした。また自分でわずかの金をかせいでみて初めて、お金のありがたさを知り、夫の働きに感謝する気持ちになります。35歳になっていたので正社員にはなれず、週に3日出勤の時間講師とかパート社員という形をとりました。教員免許や栄養士免許を得ていたので時間給は普通のパートより高く、これも母が無理して短大まで出して免許を取らしてくれたおかげと感謝しています。毎日出勤ではないので、PTA活動も出来たし、学校の授業参観にもいくことができました。そして弟の家の近くの川越の病院に入院している私の母を見舞うため週に1、2回川越まで車で通いました。その後、結局私が母を引き取って最後の看取りもなんとかやり遂げることができました。仕事、家庭、介護をなんとかやってこれたのは、夫と家族みんなの協力、そして若さだったとおもいます。このミルク会社の栄養士は、みなさんもご存知の母子栄養相談という名目のミルク宣伝が主な仕事です。1、病院にでむき、一室でお産後のお母さんに、ミルクの作り方、器具消毒の仕方を説明したあとミルクの宣伝をちょっとしてくる仕事2、乳児1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月検診などのとき離乳食の指導など栄養相談をする3、妊娠中のお母さんの栄養指導などをしました。結果的には「ミルクの宣伝」の仕事になるわけですが、それなりに社内研修もあり、世間や業界の新しい情報も知り、会議もあり、ロールプレイング大会などもあり、主婦だけでしていては味わえない楽しい仕事でした。外国の会社も含め、競争ミルクメーカーが何社もあるなか、ミルク担当プロパーの病院やお店を獲得するための営業の姿をみて仕事の大変さを、身にしみて感じました。教員の世界では知ることのできない民間企業の競争の社会を知りました。今も病院などで薬会社のプロパーさんの姿をみると、「大変でしょう。がんばってね」と声をかけたくなる時があります。毎回、可愛い赤ちゃんに接することが出来、お母さんの育児の悩みに答える意義のある仕事でもあり幸福でもありましたが、子育てしながら働くということはそれなりに大変でした。熱のある我が子を家に寝かせて仕事に出たこともあり、また子供3人を病院近くまで車で連れて行き、近くの公園やゲームセンターで遊ばせておいて仕事をしてきたこともありました。保育園の迎え途中バイクで転び骨折したことなど苦労もたくさんありました。そのうち仕事日数もふえ、会社の中でリーダー的な仕事もするようになり、思い切って扶養家族から抜け厚生年金を払う身分になりました。そのころ労働者の法律も整い、私達パート栄養士でも働く日数の多いものは「有給休暇」を申請できることになりました。しかし、私の勤める会社は主導部も頭が古く、栄養士会議のとき課長が「パートの皆さんは有給休暇を要求しないでください。パートさんに休まれると、他の人を雇わねばならず、その人件費が会社の負担になりますから」と言うのです。私は「変じゃないか、それが有給ということではないか」と思い、だんだん腹が立ってきました。パートでも会社の一員として頑張ってきた私達に対して、あんまりじゃないかと思い始めたのです。そして自分は正社員ではない悲しみを改めて感じました。今思うと、正社員も有給休暇を充分とっていなかったかもしれません。私はこの会社に対する不信感がつのり、転職し正社員の仕事を探してみる気持ちになりました。たまたま「労働基準局」に勤める叔父がいたので、尋ねてみると、「へー!!日本を代表するミルク会社がまだそんな感覚とは、有給休暇がもらえないならその地区の労働基準局に相談したがいい」と言いました。私は退職届けと一年分の未消化の有給休暇願いを出すことにしました。辞めるのだからから怖いもの無しですし、今だから、残って仕事をする10何人のパート栄養士に為に会社に要求を提出できたのです。でも今考えると、私の挑戦はかえってみんなに迷惑かけたかもしれません。パート栄養士もいろいろ、働かせてもらっているだけで会社に感謝感謝という人、別にお金の為に働くのじゃないという有閑主婦、労働者の権利など何の関心もない人、さまざまでしたから。会社は辞めるのを惜しんではくれましたが,有給休暇には良い返事をしないので、結局労働基準局に電話することにしました。会社は私の行動に驚いたことでしょう。結局、基準局から会社に「注意」がはいり、有給休暇もいただき、10年の栄養士生活にピリオドを打ちました。それからは残って働くパート栄養士にも有給休暇は認められたそうです。その頃は他のミルク会社もパートへの扱いはみな同じようなものだったかもしれません。今は社会全体の労働感覚も随分変わってきたのではないでしょうか。しかし、かえって今、契約社員が増え、その労働条件の悪さは若い人を苦しめているいうです。それから何年も経ち、この大手ミルク会社は賞味期限過ぎの牛乳で製品を作っていたことが発覚し大きな社会問題になり、会社の存続が危ぶまれました。やっぱり、なんか古い体質があの会社にはあったのかと思ったことでした。しかし、私は今、スパーに行くとあの会社の製品を勤めて買うようにしています。10年もいた懐かしい会社です。頑張ってほしいと思います。