テーマ:楽器について♪(3600)
カテゴリ:音楽その他広く一般
その1から
夜中に、叔母と母からあいついで、携帯に連絡があった。祖母が危篤だという。 母は、翌朝早く、新幹線で名古屋の病院に駆けつけた。 心臓病をわずらっている父も、同行した。 いったんは、危ない時期を乗り越えた、というので、ぼくは、翌日には名古屋に行かなかった。どうしても終わらさなくてはいけない仕事があった。仕事を前倒し、前倒しにして翌々日の朝、新幹線に乗った。 しかし、ぼくは祖母の最後に間に合わなかった。 90歳を過ぎていれば、世間では、大往生、というと思う。 しかし、最後の数日間、祖母は肺にどんどん水がたまって、苦しんだそうだ。 この年齢で、まだ生きているのが不思議なくらいだ、と医者が言ったそうだ。 心臓が、一所懸命、生きようとしたそうだ。 しかし、肺に水がたまり、鼻や口から酸素吸入をしても、肺がそれを血液の中に取り込むことが出来ず、苦しいばかりだったようだ。 延命処置もとらなかった。 しかし、ぼくは、たとえ意識不明の状態であっても、祖母に会いたかった。「おばあちゃん、パスタだよ」と声をかけてあげたかった。 実は、ぼくには祖母に対して、特別な感謝の気持ちと思い出がある。 父は、若くして心臓病をわずらい、心臓の大手術をした。もうずっと前のことだ。その時、ぼくは、毎日、仕事に追われ、過労死しかねない状況にあった。 上司に、「父が心臓の手術をするので、病院にいかせてください」と行ったが、その頃の上司は、「仕事を済ませてから行け」と行った。 仕事など、終わるわけが無かった。だから、それは「行くな」ということと同じだった。 ぼくは、まだ未熟だった。上司の言葉を無視して、父の手術に駆けつけるべきだった。後で分かったことだが、父の心臓手術は、一回、心臓の動きをとめての大手術だったのだ。父、本人のことも心配だったが、手術が終わるまで、ず~っとひとりで病院で待っていた母の気持ちを考えたならば、ぼくは、上司の言葉を無視して、病院に駆けつけ、母のそばにいてあげるべきだったのだ。 無事、父の手術は終わったが、私は、そんな会社の上司や、過労死せんばかりの仕事の業務量の配分に疑問を持った。 そして、術後もしばらく入院していた父と、病院に泊りがけで看護をしていた母を心配させたくないので、ひとりで、決断していた。 この会社をやめてNYに留学しよう、と。 しかし、友人に話しても、なかなか同意してくれる人はいなかった。 まだ、今の時代のように転職が普通の時代ではなかった。 会社の状況を批判した僕の言葉に、会社の先輩は、 「おまえ、会社を離れて生きていけるのか?」 「今以上のいい給料がもらえると思うのか」 こういっていた。 名古屋の叔父叔母にも電話で相談した。 叔母は親切に、「もう少し様子を見られないのか。少しでも、状況を改善できる方法が無いのか。別の解決策はないのか」 とても真剣に、心配してくれた。でも、会社をやめて留学することに、最後まで賛同してくれなかった。 そんな時、祖母がひとり、一番最初に、こういってくれた。 「パスタ、NYへ行って、世界中のひとと交流して、広く世界を見てきなさい」 祖母のこの言葉で、ぼくは決心が固まり、会社を辞めた。 その後、紆余曲折がありながら、今の僕があるのは、祖母のあの時の言葉のおかげだ。理想的といえないまでも、海外のひとたちと交流し、世界のいろりおな国や市場や人々や文化を研究・分析し、その知見を提供することで、外国と日本の企業がよりスムースにビジネスが出来るようにする。まあ、そんな仕事をやっている。 だからどうしても、祖母に、その感謝の気持ちを伝えたかったのだ。 祖母は、熱心なクリスチャン(プロテスタント)で、葬儀もキリスト教式だった。 祖母が午前2時34分に亡くなって、叔父が牧師さんに連絡したら、午前4時に牧師さんが来てくれたそうだ。 そして、そこにいた叔父叔母夫妻と私の両親に、 生前の祖母はどんな人であったか、どんなことをして生きてきたか。 先立った祖父はどんな人だったのか。 それぞれの娘たちはどのような人生だったか、孫たちは今どうしているかを聞いたという。 その3へ続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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